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第二話 喧嘩の気配

 農民が自ら武器を持って戦うべし、と言う陸王(りくおう)の考え方に、紫雲(しうん)は困惑した。

「日ノ本ではどうか知りませんが、大陸の民には難しいことですね」

「なら、やられっぱなしでいろってことか」

「戦った歴史がないんですから、そう言うことになるでしょう。残念ですが」

 陸王はそこで笑う吐息を吐き出した。あからさまに嘲ったのだ。

「威嚇程度にしか使えねぇ代物に、どこまで脅されやがる。情けねぇ」

 言いながら、陸王は刀の手入れ道具を片付け始めた。その姿から、もう聞く耳は持たないという風に紫雲には感じられた。これ以上は何を言っても互いに理解し得ないだろう。育った場所での常識が違いすぎるのだ。

 大陸に於いてさえ、国が違えば多少なりとも考え方は変わってくる。それが大陸と日ノ本なら、常識がまるで違って当然だった。大陸と日ノ本の間には海が横たわっている。地続きではない。だからこそ、そこここに住む者達の感覚は違って当たり前なのだ。あまりにも隔たりが大きすぎる。

 と、しんとした空間の中に「あっつ」と小さな呻き声が響いた。状況からも声の響きからも、寝ていた雷韋(らい)のものだとすぐに分かった。まだ声変わりもすんでいない少年特有の声だったからだ。

 自然と陸王も紫雲も、横になっている雷韋に目がいった。

 雷韋の深い琥珀色の瞳は、ぼんやりと天井を見ている。

「雷韋君、目が醒めましたか」

 紫雲が声をかけると、雷韋は真上を向いたまま無言で頷いた。頷いて、

「なんか、異様にあっつくね?」

 寝惚けた声を出す。まだ半覚醒のような声音だった。

 紫雲は雷韋の様子に苦笑を溢して、言う。

「身体が直射日光に当たっていますから、それで暑く感じたのでしょう」

「直射日光?」

 ぼんやりと瞳だけを動かして身体を見下ろすと、雷韋の腹の辺りまで太陽光が直接当たっていた。

「それでかぁ。暑いのには強いけど、寝てるとこに直射日光とかはきついなぁ」

 言いながら、雷韋はのそりと起き上がって大きく伸びをする。その際、鼻から細く漏れる声がやけに高かった。

 思い切り伸びをして、ふっと身体から力を抜くと、まだ眠たそうに目を擦り始める。

「そんなに目を擦ると、紅が落ちてしまいますよ」

 紫雲は苦笑気味に言う。なんと言うこともなく、無防備な子供の姿に笑みが零れたのだ。

「紅ぃ?」

 あくびのような溜息をついてから雷韋は寝台の左右を見遣るが、ふとその目が足下に向いた。そこに自分の荷物を見つけたからだ。

 雷韋は四つん這いになって荷物に近づき、中をごそごそと探った。少しの間、手を袋の中で動かしていたが、それがぴたりと収まって、袋の中から引き抜いた手には手鏡と小さな容器とが握られていた。ついでに、小さく細い筆も。

 それを見遣って、陸王が口をだしてきた。

「何する気だ」

「紅差すの」

「そんなもん、顔洗っちまったら取れるだろうが」

 陸王は渋面(じゅうめん)を作って言うが、雷韋はぶんぶんと首を振る。

「顔洗っても三、四日は取れねぇよ。特殊な顔料なんだ」

 言いつつ小さな平たい容器の蓋を開け、それに入っている顔料を筆でほんの少しだけすくい取ると、雷韋は手鏡を見ながら慣れた手つきで目尻に紅を差していった。両方の目尻に紅を差し終え、雷韋は手鏡を見ながらぱちぱちと数回瞬きをする。思った通りに差し終えたのか、鏡に向かって一人小さく頷いていた。

「終わりか」

 陸王が問うと、

「うん、終わった」

 へにゃっとした笑顔を陸王に向けて、もう一度頷く。使い終わった道具は荷物袋の中に適当に放り込んだ。

「雷韋君、筆もそのまましまうんですか?」

 紫雲が驚いたように言うも、雷韋は何事もなく「そうだよ」と返した。その言い口は、何か問題でもあるのか、と問い返しているようでもあった。

「それよか喉渇いたし、腹も減った。昼に食った干し肉、半分だけだったからさぁ」

 雷韋が言うと、陸王が呆れた眼差しを向けてきた。

「なんだって一枚丸ごと食わなかった」

「眠かったからだよ。今もまだ眠い」

「お前のその眠気は寝過ぎから来てるんだぞ。昨日、何時間寝たと思ってる」

「ん~、どのくらい?」

 雷韋が小首を傾げて陸王を見ると、陸王はわざとらしく頭を掻き毟り、

晩課(ばんか)(午後六時の鐘)が鳴ってすぐに飯を食い始めたが、お前は半刻(はんとき)(約一時間)ほど飯に時間をかけてたな。そのあと部屋に戻ったら、そのまま眠っちまっただろう」

 髪を掻き毟っていた手で、今度は髪をなでつけながら言う。

「そうだっけ?」

 雷韋はきょとんとしている。それを見て、陸王は渋い顔を更に渋くさせた。

「そうだ。今朝、一時課にお前を起こしたのは明らかに寝過ぎだったからだ。十一時間は寝てるんだぞ。約半日だ」

「ん~、そっかぁ。でも、疲れてたからじゃないかな? だって、魔族に襲われてからまだそんなに日も経ってねぇもん」

 戦場に湧きやすいと言われている化け物。人族の絶対の敵、魔族。それに陸王が狙われ、雷韋は攫われて食い殺される寸前までいったのだ。紫雲も含め、結果的には全員が無事ではあったが、確かにそれからそんなに日は経っていない。

 魔族を討ち滅ぼし、山野を彷徨って村に出るまでに二日かかった。ようやく腰を落ち着けられる村に滞在した日数は四日ほどだ。その間に、魔族との戦いの際、血で汚れてしまった陸王の服と雷韋の外套を、宿の女将や村の女達に金を払って急いで仕立てて貰った。

 その村を出発してから、まだ二、三日しか経っていない。やっと大きな街道に出て、昨日、城塞国家までやって来たのだ。とは言え、今日はまた細い横道に逸れて、村の宿に泊まることになったのだが。

 陸王は雷韋の言葉に髪を掻き上げながら答える。

「確かに魔族と対峙してからそれほど日は経っちゃいねぇが、あのあと、四日も村でゆっくりしただろう。今更疲れが出て堪るか。特にお前は種族的に回復力は高いんだ。充分休めただろう。あれから今まで、疲れを引き摺るわけもねぇ。あれからこっち、特に何も起こっちゃいねぇんだしな」

 雷韋は獣の眷属と呼ばれる種族の一つだ。種族名は鬼族の中の夜叉族と言うらしい。鬼族は病には弱いが、外傷などには強い。怪我を負っても、多少の切り傷ならすぐに治癒してしまうくらいだ。

 だが雷韋のその種族も、雷韋を残して絶滅してしまっている。雷韋が夜叉族の最後の一人だ。そもそも鬼族自体が既に大陸にもいないと、雷韋は魔術の師匠から聞かされている。それから言えば、雷韋は貴重な存在だった。

「じゃあ、こんなに眠いのも、ほんとに俺の寝過ぎなだけ?」

 雷韋は陸王を上目遣いに見遣る。琥珀の瞳に少々の不機嫌さを滲ませて。

 陸王は雷韋の不機嫌さをものともせず、寝台から腰を上げたかと思うと、雷韋の額を指で弾いた。

「そう言っている」

「ちぇっ」

 弾かれた額を両手で抑えながら、雷韋は面白くなさげに小さく舌を鳴らす。

 陸王は雷韋のそんな態度に呆れて、嘆息を漏らすしかなかった。

「でもさぁ、疲れはおいといても、実際腹は減ってるんだよな。なんか食いたい。暑くて喉も渇いてるし」

「分かった、分かった。煩ぇクソガキだな。飯を食わせりゃいいんだろうが」

 陸王は大仰に両手を広げて言った。

「なんだよ! 腹は減るもんだろ? 食わなきゃ一杯にはならねぇよ」

 陸王の広げた両手の片方を手ではたき落としつつ、雷韋は大きな声で文句を口にした。

 二人の間に、一気に不穏な空気が湧き上がる。

 だが、この程度のことなら今までいくらでもあった。

 陸王も雷韋も本気で怒っているわけではない。ただ意見が噛み合わずに苛ついただけで、それ以上でもそれ以下でもなかった。特に問題になるような険悪さはなかったものの、つい最近、旅の道連れになったばかりの紫雲は、僅かに焦りを感じた。

「二人とも、意見が噛み合わない程度で険悪にならないでください。陸王さんも大人なんですから、子供と同等に遣り合わない」

「くだらん」

 陸王は一言吐き捨てるように言って、腰に吉宗を差して扉を開くと、そのまま階下に下りて行ってしまった。

 その後ろ姿に雷韋は「陸王のバーカ」と悪口を投げつけたが、悪口はよくない。紫雲は雷韋を窘めたが、聞く耳を持たないようだった。

 陸王の階段を下りる足音が聞こえなくなると、鼻を鳴らして雷韋も扉へ近づいた。その際、雷韋が紫雲に顔を向ける。

「紫雲はどうすんのさ。飯、食うの? 食わねぇの?」

 半ば八つ当たり気味に喧嘩腰で問われたが、紫雲は諦めの溜息を溢して「私も行きますよ」と声を返した。

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