4. 神託なき聖壇
深夜の大聖堂——。高窓から差し込む月の光が、広々とした執務室の床に長い影を落としていた。
静寂に包まれた空間。
重厚な机には整然と書類が並び、銀細工の燭台がゆるやかに灯る。
そこに、一人の男が立っていた。
ヨハン・グリュンヴァルト。
セラフィム聖教会・第八十七代教皇ヴィクトール・セルファティウスの個人秘書にして、忠実なる執行者。
深紅の髪を後ろで一つに束ね、鋭利な光を宿した緑の瞳。
細身の金縁眼鏡をかけたその顔は、常に冷静で、理知的な雰囲気を漂わせていた。端正な顔立ちではあるが、穏やかというよりはどこか張り詰めた空気を纏っている。
彼の白い手袋に包まれた指が、一枚の書状を机上へと置く。
「——グレゴール枢機卿の葬儀について、報告いたします」
低く、よく通る声だった。
ヨハンは教皇の前で淡々と話し始めた。
「典礼省内では、グレゴール枢機卿の葬儀について、滞りなく準備が進められています。枢機卿会の意向により、彼の遺体は大聖堂地下に埋葬される予定です」
教皇ヴィクトールは、机に肘をついたまま、ゆるやかに視線を向けた。
漆黒の長衣に包まれたその姿は、まるで夜の静寂を具現化したかのようであり、深淵に沈む神秘そのものだった。
その手にあるラウンドタイプのサングラスが静かに彼の指の間で転がされている。
「そうか」
微かな吐息のような声。
それ以上の感情の揺らぎは、そこにはない。
ヨハンは一瞬、視線を伏せた。
続けるべきか、一瞬だけ迷ったが——言葉を紡いだ。
「それから、ユリウス・フォン・リヒテンフェルスについてです」
微かに教皇の指が動いた。
ヨハンは気づかぬふりをして、報告を続ける。
「典礼省内では、ユリウス殿が正式に典礼省長官へ昇格することで意見が一致しています」
それは、もはや決定事項だった。
反対する者は、いない。
「……なるほど」
ヴィクトールは目を細めた。どこか、微笑んでいるようにも見える。
「しかし」
ヨハンの声が、ほんのわずかに硬くなる。
「本来ならば、典礼省長官の座は神託によって決定されるべきものです」
ヨハンの語調には、僅かに怒りが滲んでいた。
神託——それは、形式上、神の御意志として教皇が宣言するもの。
だが、今回のユリウスの昇格は、その手続きを経ずに決定されようとしている。
「神託もなく、典礼省の一存で決めるとは……これでは、教会が政治の道具のようではありませんか、それに——それに、まるで教皇猊下を蔑ろに扱うとは……」
教皇の執務室に、静寂が満ちる。
ヴィクトールは指先を組んだまま、まるで楽しげに呟いた。
「ヨハン……」
名前を呼ばれた瞬間、ヨハンは背筋を正した。
「それはつまり、君は神託を下せと私に命じるのか?」
柔らかな声。だが、その奥には測り知れぬ深淵がある。
「……」
ヨハンは、答えない。
だが、その沈黙こそが答えだった。
「では、神託を与えよう」
ヴィクトールは、微笑んだ。
机の端に置かれた銀の鍵——「神聖なる天門の鍵」にそっと触れる。
それは、教皇のみが所持する、神の代理人の象徴。
言葉は、穏やかに紡がれる。
「天はユリウス・フォン・リヒテンフェルスを祝福する」
——それで終わりだった。
ヨハンは、眼鏡のブリッジを押し上げる。
その仕草の奥に、苛立ちがあった。
「……最初から、そうするおつもりだったのですね」
ヴィクトールは、ただ静かに微笑んでいた。
その顔には、一切の感情が浮かんでいない。
だが、感のいい者ならば、そこに何かを感じ取るかもしれない——。
ヨハンは静かに息をつき、深く一礼した。
「——かしこまりました」
彼の背筋は、最初よりも僅かに強張っていた。
そのまま、静かに部屋を後にする。
扉が閉まり、再び静寂が訪れた。
ヴィクトールは、ゆるやかに天井を仰ぐ。
「……神託、か」
その言葉が、まるで独り言のように呟かれた。夜の闇に溶けるように——。
※
大聖堂の鐘が、重く、深く鳴り響いた。
帝都グラン・エルデンの空に響くその音は、典礼省の長として数十年にわたり信仰を導いた枢機卿グレゴールの死を告げるものであった。
聖堂の奥、荘厳な祭壇の前に、一つの棺が静かに安置されている。
豪奢な装飾が施されたその棺には、聖光を象徴する紋様が細やかに彫り込まれ、彼が担ってきた信仰の重みを今なお伝えていた。
磨き上げられた白金の縁が、天窓から差し込む光を受けて鈍く輝く。
聖職者たちは、一糸乱れぬ動作で祈りを捧げていた。
白い祭服をまとった者たちが棺を取り囲み、低く聖句を唱える。
その声は大聖堂の荘厳な空間に響き渡り、静謐な調和を生んでいた。
最前列では、高位の聖職者たちが整然と並び、胸元に十字の印を描いている。
枢機卿の長き務めを讃え、そして神の御許へ導かれることを願う儀式。
貴族たちは、沈黙の中で佇んでいた。
黒衣に身を包み、沈痛な面持ちで棺を見つめる。
信仰に厚い者は祈りを捧げ、そうでない者もまた、この場に漂う厳粛な雰囲気に沈黙を守っていた。
白い花弁が舞い落ちる。
神へと捧げられた百合の花束が、棺の上に次々と置かれていく。
清らかな香りが漂い、死者の魂を慰めるように風がそっと吹き抜けた。
祭壇の上、高く掲げられた聖像の前で、一人の聖職者が歩み出る。
長く波打つローブを引きながら、厳かに棺の前へと進む。
その男は、漆黒の祭服をまとっていた。
典礼省の新たな長官、ユリウス・フォン・リヒテンフェルス。
若き枢機卿の足取りは静かで、だが迷いはない。
彼は棺に手をかけ、静かに目を伏せた。
「——神は、御許へと帰る魂を祝福し給う」
その声は、少年とは思えぬほどに澄み渡り、静謐な大聖堂に響き渡る。
黒い喪服に身を包み、金色の刺繍が施された襟元がわずかに光を反射する。
彼は堂々と人々の前に立ち、滑らかに弔辞を述べる。
「典礼省は、グレゴール様の偉業を受け継ぎ、信仰の礎を守り続けます」
声は澄んでおり、響き渡る。
落ち着き払った口調。
その言葉には威厳があり、聴衆の心を惹きつける何かがあった。
この日、正式に典礼省の後継者として名実ともに認められたのは——ユリウス、ただ一人だった。
そして、祈りの言葉が天へと昇り聖歌隊が賛美歌を奏で、荘厳な旋律が堂内に満ち、棺がゆっくりと閉じられていく。
鐘の音が、帝都に響き渡った。
深く、重く、弔いの鐘。
それは、典礼省の頂点に立っていた男の死を告げるものだった。
聖堂の片隅。
ミハエルとコンラートは、参列者の列には加わらず、遠巻きに葬儀を見守っていた。
ミハエルは、腕を組みながらユリウスの姿を見つめる。
「……あの若さで堂々としてやがるな……」
葉巻を弄ぶこともなく、ただ静かに呟く。
コンラートも、厳しい表情でユリウスの弔辞を聞いていた。
「ともかく彼が典礼省の未来を背負うのか……」
ユリウス・フォン・リヒテンフェルスの言葉には、迷いがない。
その振る舞いには、一片の躊躇もない。
まるで――最初からこの瞬間を待っていたかのように。
ミハエルは、ふっと息を吐く。
「どういう意図で動いているか、まだわからねぇが……今後、あの男が教会を変えていくのは確かだろうな」
しばし沈黙。だが、ミハエルはふと声のトーンを下げて続けた。
「そういえば、例の聖なる血の聖杯――あれも調査を申し出たが、丁重に断られたよ。封印されたまま、誰も触れちゃいねぇ」
コンラートがわずかに目を細める。
「厳重な封印ってのは、都合の悪いものを隠す時に使う、教会の常套句だろ」
ミハエルは背をもたれさせ、ユリウスを見やった。
「——不自然なくらい、綺麗に整いすぎてる。あれも、こいつも、全部な」
コンラートは、答えなかった。
ただ、聖堂の奥で静かに祈るユリウスを見つめていた。
この少年が、何を成そうとしているのか——。
葬儀が終わると、鐘の音が再び帝都に響き渡った。
それは哀悼の鐘ではなく、新たな時代の幕開けを告げる、昇座の鐘だった。
ユリウス・フォン・リヒテンフェルスの昇座の儀式が始まる。
先ほどまで黒の喪服を纏っていた少年は、今、純白と金の儀礼服へと衣装を変えていた。
白の長衣には、金糸で精緻な刺繍が施され、肩には典礼省を象徴する聖紋の刺繍が浮かぶ。
彼は、静かに大聖堂の中央へ進んでいく。
厳かな空気が張り詰める。
貴族たちは息を飲み、聖職者たちは神の名のもとに祈りを捧げる。
やがて、枢機卿たちがユリウスの前に跪いた。
聖堂に響く宣言。
「ユリウス・フォン・リヒテンフェルスを、典礼省長と認ずる」
その瞬間、大聖堂を満たしていた静寂が破れた。
——賛辞と拍手。
——受け入れる者、驚く者、敬意を示す者。
だが、それを拒む者はいなかった。誰もが、新たな指導者を受け入れざるを得ない空気だった。
教皇の玉座の隣に置かれた典礼省長官の座へと、迷いなく歩み寄る。
白と金の儀礼服に身を包んだユリウスが、ゆっくりと聖座の祭壇に進むと、その奥——教皇の玉座には既に、漆黒の衣をまとった男が座していた。
漆黒の髪は後ろに撫でつけられ、光が跳ね返るとカラス濡羽のように光を放つ。紫水晶の瞳を宿した男、いつも穏やかな笑みが浮かんでいる。
セラフィム聖教会、第八十七代教皇——ヴィクトール・セルファティウス。
彼は微笑を浮かべたまま、静かにユリウスを見つめていた。
まるで、最初からすべてを知っていたかのように。
高貴な装飾が施された聖座、教皇の座の隣にユリウスは静かに腰を下ろし、前を向く。
若き典礼省長は、感情を一切見せないまま、ただ堂々とその場に座した——まるで、それが当然であるかのように。
天蓋から降り注ぐ、柔らかな陽光、貴族たちの賛美と聖職者たちの敬意。
ヴィクトールは、再びわずかに微笑んだ。
静かに。あまりにも、静かに。
※
典礼省長官就任の儀式が終わり、貴族たちは名残惜しそうに談笑しながら退出の準備を進めていた。
荘厳な空気はまだ大聖堂の天井に残っているが、その余韻の中で、少しずつ日常が戻りつつあった。
「……やっと終わったな」
ミハエルは肩を大きく回し、軽く伸びをした。
普段のだらしない姿ではなく、今日は少しだけ身なりを整えていたのだが、それももう我慢の限界らしい。
「仕事だから、仕方ないだろう」
隣を歩くコンラートは、まっすぐ背筋を伸ばしたまま言う。
神聖騎士団としての任務中とはいえ、彼もそれなりに疲れているはずだった。
「ったく、話ってのは聞いてるだけで体力使うんだな……あー、腹減った。飯でも食いにいこうぜ?」
葉巻を指で弄びながら、ミハエルが堂内の出口へと足を向ける。
「それが、今言うことか?」
呆れたようにコンラートが問い返すが、その声には微かに笑みが混じっていた。
「今しかないんだよ、今しか。貴族も聖職者も、やれ余韻だの感動だのって語り合ってる隙に、俺らはうまいもん食うってわけだ」
「……こっちは儀式の警護任務中だったんだが」
「だからこそ報酬が必要だろ? 肉だ、肉。あとワイン」
ミハエルは軽口を叩きながら、会場を出ようとした。
——そのとき。
「ミハエル」
背後から、自分の名を呼ぶ声がした。
ミハエルは一瞬、耳を疑う。この場に自分を名指しで呼ぶ人間がどれほどいる?それも、親しげで、堂々とした声で。
ゆっくりと振り返る。
そして、声の主を見た瞬間、ミハエルは思わず手に持っていた葉巻を落としそうになった。
大聖堂の広間——神聖な光が、ゆるやかに降り注ぐ中、貴族たちのざわめきが自然と薄れていく。
その場の空気が、一瞬にして変わった。
——整った金髪、凛とした青い瞳。誠実な眼差し、威厳ある立ち姿。純白の装束は帝国の紋章をあしらい、繊細な金刺繍が施されていた。彼はゆっくりと歩みを進め、堂内の視線を集めながら、迷いなく貴族たちの間を進んでくる。
——ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・エルデン。
帝国の皇太子。
背後には、黒を基調とした正装に身を包んだ近衛の護衛たち。彼らは一糸乱れぬ隊列を組み、静かに皇太子を守るように付き従っていた。
その威厳ある姿に、貴族たちは道を開け、聖職者たちは深く頭を垂れる。
神聖騎士団の者たちも、一斉に敬礼をとる。
コンラートも皇太子の姿を見るなり、すぐに騎士としての礼を取った。
跪くほどではないが、神聖騎士団の一員として、帝国皇太子への敬意を示す。
しかし——ミハエルだけは、ただ目を見開いていた。
言葉にならない戸惑いを押し殺しながら、彼は拳を握る。
「——元気だったか?」
「……は?」
ミハエルは無意識に呟いた。
その動揺を悟られまいと、慌てて葉巻を指で弄ぶ。
「そちらは?」
ルートヴィヒがコンラートを一瞥し、静かに尋ねる。
ミハエルはバツの悪そうに肩を竦めた。
「……護衛の騎士だよ」
そっけなく答える。
それを聞いたルートヴィヒは、僅かに目を細めた。
「……お前が、誰かを側に置くとは珍しいな」
呟くように言う。
「私が護衛をつけるよう勧めたときは、ずいぶんと嫌がったくせに」
ミハエルは苦笑した。
「……まぁ、気まぐれさ」
それ以上、言葉を続けるつもりはなかった。
だが、ルートヴィヒは納得したように頷くと、今度はコンラートへと向き直る。
「名前を聞いても?」
コンラートは、一歩前に出る。
その動きは、まるで騎士としての本能がそうさせたかのように洗練されていた。
「コンラート・ハインリヒ・フォン・アイゼンシュタイン。セラフィム聖教会・神聖騎士団所属」
コンラートは、無駄のない所作で名乗る。
「アイゼンシュタイン侯の血筋か……」
静かに呟き、そして、微笑む。
「弟を、よろしく頼む」
その言葉が発せられた瞬間——コンラートの思考が、一瞬停止した。
コンラートはミハエルをじっと見た。
すると、ミハエルは「やべぇ」という顔をして、視線を逸らした。
その仕草に、コンラートは無言のまま眉間を押さえたくなった。
これまで共に行動し、何度も死地を潜り抜けてきた。
だが、そんな重大な事実を、一言も聞かされていなかったとは——。
「おい、そういう言い方やめろよ」
ルートヴィヒは微笑む。
「なぜ?」
「なんか、俺が手のかかる問題児みたいな言い方だろ」
「違うのか?」
ミハエルは一瞬、口を開きかけ——やめた。
ルートヴィヒの穏やかな微笑み。ミハエルの微妙にバツの悪そうな顔。そして、彼の言葉を否定しなかった事実。
「相変わらずだな、ミハエル。」
ミハエルは舌打ちしながら葉巻を回し、「ちっ……余計なこと言いやがって」と呟く。
その様子を見ながら、コンラートは改めて二人を見比べた。
確かに、ミハエルとルートヴィヒは一見すれば対照的だった。だが、どこかで根底に流れるものが似ている気がする。
軽くため息をついたコンラートは、それでも 「弟をよろしく頼む」 と言われた言葉を、意外なほど真剣に受け止めていた。
「何か困った事があれば何時でも私のところに来なさい」
そう言い残すと護衛を伴い、静かに大聖堂を後にしていった。
ルートヴィヒが去った後、コンラートが「……何か言うことは?」と低い声で問いかける。
「……まぁ、話す機会がなかったというか?」
ミハエルは苦笑しながら、指先で葉巻を弄んだ。
「機会の問題か?」
「……うん?」
「俺は今、初めて知ったぞ」
コンラートの口調はいつもの冷静さを保っていた。だが、その奥には僅かな苛立ちが滲んでいる。
ミハエルは肩をすくめ、軽く息を吐く。
「だって、言う必要なくね?」
「あるだろ。」
「えー、でも皇族って言ってもな……ただの庶子だし?」
「ただので済む問題か?」
「済ませたいんだよ、俺は」
その言葉に、ふとコンラートは目を細めた。ミハエルの声音が、わずかに変わる。
軽口の奥に、本音の一端が見え隠れしていた。
「まったく……」
コンラートは、呆れたように息をつく。
だが——ふと気づく。なぜ、ミハエルは教会に預けられたのか。
彼が教会育ちであることは知っていた。
皇族であるならば、本来は宮廷で育てられるはずだ。
それなのに、なぜか?
「そういえば、神聖降臨祭で局長が警護の話をしていた時、お前の態度が引っかかっていたが……」
ミハエルは気怠げに葉巻を回しながら、薄く笑う。
「局長のことか?まぁ、あの人には昔から面倒見てもらってたしな」
「それはどういう意味だ?」
「さあな」
ミハエルは曖昧に流す。それ以上、何も言うつもりはないらしい。
コンラートは追及しようとしたが、結局、黙った。
——彼が話したくないのなら、今はそれでいい。
騎士としては納得できないが、相棒としてならば、理解するべきこともある。
けれど、ミハエルについて知らないことがある。それだけは、確信した。
「……ったく」
ぼそりと呟き、コンラートはため息を吐いた。
ミハエルは、そのまま歩き出す。
葉巻を弄びながら、何事もなかったかのように、騒がしさを取り戻しつつある大聖堂の出口へと向かっていく。
「おい、飯……食いに行くんじゃなかったのかよ」
ミハエルが振り返りもせずにぼやく。
コンラートはほんの一拍の間を置いて、静かにその背を追った。
「……面倒は見ないぞ」
「わかってるさ」
短い言葉を交わしながら、二人は騒がしさの中へと歩みを進めていった。
明日はルートヴィヒ、明後日はヨハンの小話をアップします。そこでしばし休載予定、書いてはいるんですが、四苦八苦しているためw書きあがり次第、再開したいと思います!




