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2. 神託なき聖壇

 セラフィム聖教会の大聖堂に隣接する重厚な建物——そこに典礼省があった。

 典礼省は、教会における典礼儀式の立案・監督を司る部署であり、教皇の即位式、枢機卿の叙任式など、教会内で執り行われるすべての重要な儀式を取り仕切っている。また、各地の教区が行う礼拝や儀式が教義に反していないかを監視する役割も担い、異端審問官も抱える。教会の信仰の純潔性を保つための規範を示す機関でもあった。

 堅牢な石造りの回廊を備えたその施設は、セラフィム聖教会の中枢機関のひとつとして、あらゆる宗教儀式を統括する要を担っている。

「聖光降臨祭」の運営もまた、この典礼省の管轄下にあった。

 典礼省の長官であるグレゴール枢機卿は、長年にわたり教会の祭儀を取り仕切ってきた。

 彼は信仰に篤く、伝統を重んじる敬虔な聖職者として知られているが、すでに八十を超えた今、その働きは次第に後進に委ねられつつあった。

 最近では、書類に目を通し、決裁し、若き枢機卿たちに実務を任せることが多くなっている。

 しかし、今年の降臨祭は、例年とは様相が異なっていた。

「今年の式典では、神の御業を示す」

 それが、グレゴールの言葉だった。

 彼は式典の場で「何かを発表する」と意向を示しており、それが「奇跡」と関係しているのではないかという噂が典礼省の中でも駆け巡っていた。


「枢機卿は、この機に何をするつもりなのか……?」

「もしや、典礼省の体制を変えるつもりなのでは?」


 上層部の間でも、その意図を図りかねていた。

 そんな中で、今年の降臨祭の実務を取り仕切っているのは、ユリウス・フォン・リヒテンフェルスだった。

 「優秀な改革派」として知られ、典礼省内での序列は5位。

 わずか17歳という若さで、典礼省の主要な業務を担っている。

 冷静かつ的確な判断力を持ち、彼の指揮のもと、降臨祭の準備は滞りなく進められていた。

 聖堂の装飾、祝福の儀式の準備、信徒の誘導計画——どれも完璧な段取りで進行している。

 典礼省の中庭に面した大部屋には、儀式の準備を進める聖職者たちの姿があった。金糸を織り込んだ白い祭服が並べられ、祭壇に捧げる聖具が慎重に磨かれている。陽光がステンドグラスを通して差し込み、床に美しい光の模様を描いていた。

 ユリウスは、祭壇に並べられた聖具の一つを手に取り、淡々と点検していた。

「グレゴール様は、本当に奇跡を起こすおつもりなのか……?」

 そんな中、側近のひとりが、ぽつりと呟いた。

 別の聖職者が声を潜める。

「もし、奇跡を起こせなかったら?」

「それこそ、教会の権威に傷がつくことになる」

 その言葉に、ユリウスは微かに微笑んだ。

 ユリウスは、典礼省の上層部とも、下層の聖職者とも適度な距離を保ち決して、自分の意図を明かさない。そんな彼の態度は、周囲からするとどこか掴みどころがないものだった。

「ユリウス様はどう思われますか?」

 側近が、ふと尋ねる。

「グレゴール枢機卿は、奇跡の後に何かを発表すると聞きました。」

 ユリウスは、静かに聖具を元の場所に戻すと、薄く笑った。

「それはグレゴール枢機卿閣下の御心次第でしょう」

 それだけを言うと準備室を後にした。

 冷静で、端正な微笑み。

 だが、その瞳の奥に何を考えているのか——誰にも分からなかった。



 陽が傾きかけた午後。

 大聖堂の奥深く、石造りの回廊を抜けた先にある一室で、二人の男が話を聞いていた。

 高い天井と小さな窓。

 古びた木製の机と、蝋燭の残り香が漂う書架。

 整然と並んだ分厚い文献たちが、室内に静かな重みを与えている。

 外の喧騒はここには届かず、空気はひんやりと静まり返っていた。

 その一角に腰かけるのは、神聖調査官を統括する男——エリヤ・フォン・リヒト。

 彼は机の上に一枚の羊皮紙を広げ、指先でその端を軽く押さえながら、静かに口を開いた。

「典礼省からの正式な依頼です。聖光降臨祭の警備を担当して欲しいとのこと」

 その声は穏やかだが、どこか緊張を孕んでいた。

 語られる言葉の一つひとつが、単なる「依頼」で済まないことを示していた。

 ミハエルは、気怠げに椅子の背にもたれたまま、葉巻を指で転がす。

「……また面倒ごとか?」

「聖光降臨祭は、セラフィム聖教会にとって重要な祭典です」

 エリヤは書類に目を落としながら、穏やかながらも静かな威圧感を放つ声で続けた。

「今回の式典では枢機卿グレゴールが奇跡を起こすと宣言しています」

 その言葉に、ミハエルは小さく鼻を鳴らした。

「それなぁ……いったいどこまでほんとやら」

 それは散々街でも噂になっている。

 エリヤは眉をひそめながらも、構わず続ける。

「式典には多くの要人や貴族が出席します。警備の失敗は許されません」

 コンラートが静かに頷いた。

「聖騎士団も、式典の警備に参加するのか?」

「そうです」

 エリヤは端的に返し、机上の書類を指先でなぞる。

「神聖調査官と神聖騎士団が合同で警備を担当する事になりました。お前たち二人には、儀式中の内部警備を任せます」

 ミハエルは葉巻を弄びながら、薄く笑った。

「どうせまた偽の奇跡で民衆を煽るんだろ」

 エリヤは特に否定も肯定もせず、ただ視線をミハエルに向けた。

「今回の仕事は、その真偽を確かめることではありません。警備です」

「へぇ、俺たち調査官は、真実を探るのが仕事だったと思ってたぜ?」

 エリヤはミハエルの皮肉を軽く受け流しながら、手元の書類をめくった。

「……それから、もう一つ伝えておくことがあります」

 その言葉に、ミハエルは適当に葉巻を転がしていた指を止めた。

「今回の式典には、皇帝陛下の代理として皇太子ルートヴィヒ・ヴィルヘルム・フォン・エルデン殿下が出席されます」

 瞬間、ミハエルの指がわずかに強張り、葉巻を弾き損ねた。

「……は?」

 声を上げたつもりはなかったが、言葉が勝手に漏れる。

 エリヤは書類から視線を上げ、静かにミハエルを見つめた。

 コンラートがそのやりとりを横で見ていたが、特に気にした様子はない。

「皇太子殿下が?」

 彼は純粋な疑問として問い返した。

「そうです。もともと皇帝陛下が参列される予定でしたが、公務のため皇太子殿下が代理を務めることになったと聞いています」

 コンラートは納得したように頷いた。

「……なるほど、皇族が関わるとなれば、式典の重要性はさらに増すな」

 彼の言葉を聞き流しながら、ミハエルは無意識に葉巻を転がした指を止めていた。

「おい、局長……」

 ミハエルが何かを言いかけたが、エリヤはそれを制するように目を細めた。

「お前が気にすることではありませんよ、ミハエル」

 それは、まるで「全て分かっている」とでも言うような口ぶりだった。

 コンラートが怪訝な顔でミハエルを見た。

「どうした?」

「……いや、なんでもねぇ」

 いつもらしくない態度にコンラートは疑問に思ったが、ミハエルは肩をすくめ、わざとらしく笑って見せた。

 エリヤは特に何も言わず、書類の束を静かに閉じる。

「では、式典当日までに詳細な警備計画を伝えます。それまでに準備を整えておきなさい」

 コンラートは真面目に頷き、ミハエルは少し遅れて適当に手をひらひらと振った。

 大きなため息とともに。


 夕暮れの光が、教会の回廊に長い影を落としていた。

 ステンドグラスを通った光が床に鮮やかな色彩を描き、神聖な雰囲気をさらに際立たせている。

 典礼省へ向かう途中、ミハエルは葉巻を指で転がしながら、どこか気の抜けた足取りで歩いていた。

 その様子を横目に、コンラートが呆れたように言う。

「……いつも以上にやる気がないな」

 ミハエルは肩をすくめ、適当に返した。

「あーー、うん、まぁな」

「珍しいな。お前がそこまで気乗りしないなんて」

「そうか?」

「いつもは「面倒くせぇ」とか言いながらも、それなりに興味を持ってるだろ」

「……今日の俺はちょっとばかし繊細な気分なんだよ」

 冗談めかして言ったが、その口調にはどこか気怠さが滲んでいた。

 コンラートはミハエルの顔をちらりと見たが、特に深く追及はしなかった。

「……まあ、いい。とりあえず行くぞ」

 ミハエルは気のない返事をしながら、再び歩き出した。

 典礼省では日も暮れ始めた中、聖職者たちが忙しなく動き回っている。

 ミハエルは壁に寄りかかり、ぼんやりと夕陽を眺めながら葉巻を指で回していた。

「去年は聖女の像が涙を流したって騒ぎになったが、結局は細工だったろ?教会ってのは、偶然に奇跡が起こる機関なんだよ。都合のいい時に神の意志が働くって? それ、笑い話だぜ?お前も知ってるだろ」

 コンラートは足を止め、静かにミハエルの横に立った。

「信仰を支えるのも、俺たちの務めだ」

 その言葉に、ミハエルは目を細めた。

「たとえ奇跡が真実でなくとも、それを信じる心がある限り——神は、我々と共にあるのだ」

 ミハエルは短く鼻を鳴らした。

「お前さ……そういうの、どこまで本気で言ってる?」

「……どういう意味だ?」

「信仰ってやつに、そうまでして縋る理由があるのか?」

 コンラートは、ミハエルを真っ直ぐに見据えた。

「人には、心の拠り所が必要だからだ」

 その声には、迷いはなかった。

「それを否定することは、信仰を守る者のすることではない。それにお前も言ってただろう、信仰は拠り所であるはずだと」

 ミハエルは葉巻を指で転がしながら、深く息を吐いた。

「……ったく、真面目な騎士様だな。まあ、俺は俺で真実を確かめるけどな」


 聖光降臨祭の準備が進む中、大聖堂の奥深く、典礼省の辺りまで来ると石造りの回廊にはひそやかな声が響いていた。

 聖職者たちが歩く白い大理石の廊下、その一角——典礼省の関係者たちが、小声で何かを話し合っている。

「今回は〈神聖なる血の杯〉を用いるらしい」

 低く、慎重に告げられた言葉に、周囲の空気が僅かに張り詰める。

「儀式の場に神の証が現れるのだ……」

 まるで奇跡を確信しているかのような、恍惚とした声音。

「……ほう?」

 回廊の影に身を寄せながら、ミハエルは軽く眉をひそめた。

 指先で弄んでいた葉巻を転がしながら、小さく息をつく。

「なるほどな……〈神聖なる血の杯〉ねぇ……」

 言葉を転がしながら、脳内で記憶を辿る。

 過去の記録、調査報告、そして“奇跡”の噂——かつて、幾度となく聖遺物の奇跡と称されたものの中に、その名はあった。

「もしそれが本物なら大した奇跡だけどよ、あれは厳重に保管されてるって話だしな……まぁ典礼省なら保管庫から出す事も可能だろうが……」

 問題は、それが本物かどうかって話だった。

 過去に起きた類似の事例は、教会が後々になって「偽物だった」と発表したものがほとんど。

 だが、そのたびに信者たちは熱狂し、教会の影響力は増していった。

「……過去に似た手口があったはずだ。あれは……確か聖遺物の奇跡とされた事件だったか」

 ミハエルは静かに呟く。

 彼の隣では、コンラートが険しい顔をしていた。

「それでも、枢機卿が不正をするとは思いたくない」

 その声には、迷いが滲んでいる。

 コンラートの瞳は、どこか遠くを見ているようだった。

 彼は、まだ奇跡を信じていた。

「確かに、人の手で奇跡が演出されることもある……だが、枢機卿がそんなことをするとは……」

 ミハエルは、コンラートをじっと見つめた。

 そして、乾いた笑いを漏らす。

「お前な、そんなこと言ってるといつか痛い目見るぞ?」

 冷ややかな目を向けながら、肩をすくめる。

「信仰ってのは、時に人を狂わせるんだぜ?誰かが『奇跡を起こさねばならない』と考えた時、それは信仰か?それとも……」

 ミハエルの言葉は、そこで止まった。続く言葉を、あえて飲み込むように。

 コンラートは答えなかった。

 ただ、剣の柄を握りしめながら、遠くを見つめていた。

 そして、静かに目を伏せる。

(……それでも俺は、信じたい)

 そう思う自分がいることを、彼は否定できなかった。



 帝都の夜は静かだった。

 大聖堂の尖塔が月光を受け、銀の輪郭を描いている。その麓、典礼省の一角では、聖職者たちが祭典の準備に追われていた。

 広場では、信徒たちが集い、祈りを捧げている。

 しかし、その喧騒とはまるで別世界のように、典礼省長官の私室はひどく静かだった。

 重厚な書架に囲まれた一室で、枢機卿グレゴールは、机上に広げられた羊皮紙にゆるやかに指を滑らせている。深く刻まれた皺がその手の歳月を物語り、揺れる燭台の炎が、書類の影を壁に投げかけていた。

 典礼省の長として数十年、信仰の象徴であり続けた男。その背には、静謐と重厚が同居していた。

 だが、机に積まれた報告書が告げるのは、かつてとは違う現実だった。


 ——信徒の数が減っている。

 ——奇跡を疑う者が増えている。

 ——教会よりも、魔導技術の方が信頼され始めている。


「……また、か」

 静かに呟き、報告書の束を閉じる。

 もはや、この手の報告には慣れてしまった。

 いや、慣れざるを得なかった。

 魔導工学の発展によって、かつて「神の御業」とされた現象が説明されるようになった。

 聖堂に満ちる神聖な光は、精巧な魔導灯の輝きに取って代わり、

 祈りによって治癒される奇跡は、魔導薬によって補われるようになった。

 神の奇跡は、もはや不要とされつつある。

「愚かしい……」

 口にしたのは苛立ちか、それとも焦燥か。

 信徒たちの信仰が揺らぐことは、すなわち教会の権威が揺らぐことを意味する。

 そして——……。

「奇跡を起こせないなら、あなたは不要だ」

 誰もそうは言わなかった。

 だが、若手聖職者たちの視線が、それを雄弁に語っていた。

 老いた者は、ただ消え去れと。

 グレゴールは瞼を閉じた。

 まぶたの裏に浮かぶのは、若かりし頃の記憶。

 人々が心から神を信じ、聖堂に集い、奇跡に涙を流した時代。

(……あの頃の信仰は、どこへ消えたのだ)

 それは神がいなくなったからか?

 それとも、神が語りかけなくなったからか?

 最近、神の声が聞こえない。

 どれだけ祈りを捧げても、沈黙は破られない。

 かつては信徒たちに語った。

「神は、いついかなる時も、我々と共にあります」

 だが今、その言葉は自分にとっても虚しい。

 本当に、神はまだこの地にあるのか。

 その答えを得るために、奇跡を起こさなければならない。

 グレゴールは、机の端に置かれた〈神聖なる血の杯〉を見つめた。

 その縁をなぞるように、皺の刻まれた指がゆっくりと動く。

 あの日、この杯を持ってきた者の顔が脳裏をよぎった。


「グレゴール様」

 静寂を切り裂くような、しかし不思議と心地よい声が、書斎の扉の向こうから響いた。

 振り返ったグレゴールの視線の先に、少年が立っていた。

 漆黒の祭服を纏い、夜の影のように滑らかに室内へと入り込むその姿。

 ユリウス・フォン・リヒテンフェルス。その容貌は、まだ若さを残しながらも、どこか常人とは異なる気配を纏っていた。

 淡い金の髪は揺れるたび、燭火の下で柔らかな光を跳ね返し、まるで神の祝福を受けているかのようにも見える。長い睫毛の奥に覗くのは、透明な水晶のような瞳——凍てつく湖面のように冷たく、何も映さぬようでいて、すべてを見透かしている。

 しかし——その微笑みはあまりに整いすぎていて、まるで仮面のようだった。

「神の御業を、確実に示す方法がございます」

 絨毯の上を歩む足取りは軽やかで、しかし迷いの一切を感じさせない。 手には、銀の盆。 その上に、静かに置かれていたのは——〈神聖なる血の杯〉。

 グレゴールの喉がかすかに鳴った。

「……まさか、これを……?」

 指先が杯の縁に触れた瞬間、ひやりとした感触が指を這う。 それは杯から発せられる冷気か、それとも——この少年が纏う空気そのものか。

「グレゴール様はご存知のはずです。これは、かつて幾度となく神の奇跡を示した聖遺物です」

 囁くようなその声音は、まるで甘い毒だった。 敬意を装いながらも、どこか導こうとする、誘惑のようなものを孕んでいた。

「……これは、神のものか、人のものか」

 問いかけた老聖職者の声には、わずかな迷いがあった。

 ユリウスはその迷いを楽しむかのように、唇の端をゆるやかに吊り上げた。

「それを決めるのは、信仰です」

 恐ろしい確信だった。 まるで、神すらも自分の語りで定義できるとでも言うように——その言葉は、静かに、しかし抗いがたくグレゴールの胸に食い込んだ。

「……お前は、優秀だな」

 老いた枢機卿が微かに呟くと、ユリウスは首を傾げ、まるで慈しむような声音で囁いた。

「あなたの導きがあってこそ、私はここにおります」

 温もりを与えながら、抜け出せぬ深淵へと誘う——まるで、魂を鎖で繋ぐような優しさだった。

 彼の姿が去った後も、グレゴールの胸には、その言葉の余韻がいつまでも残っていた。


 ユリウスの言葉を思い出しながらグレゴールは震える手で杯を持ち上げ、天を仰いだ。

 神は、そこにいるのか。

 それとも、すでに去ったのか——。

「……今年の祭典では、神の御業を示さねばならぬ」

 それが、枢機卿グレゴールの決断だった。

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