表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
36/52

信仰と数字

 セラフィム聖教会・会計局。

 窓の外には柔らかな陽光が差し込んでいたが、室内の空気は相変わらず冷ややかだった。

 リヒター・シュヴァルツは、帳簿をめくる手を止め、静かに顔を上げる。

 黒の背広に身を包み、隙のない整髪と細縁の眼鏡をかけた姿は、まるで計算されたように整っている。

 余分な飾りの一切ないその佇まいは、彼の性格そのものを映していた。

 対面に立つのは、神聖調査官の統括者——エリヤ・フォン・リヒト。

 聖職者の法衣をまとい、袖口には僅かに刺繍が施されている。

 紫紺を基調とした布地が静かに揺れ、柔らかな光を帯びているのは、職務柄もあるのだろう。

 その姿は威厳を保ちつつも、どこか人としての温かみを残していた。

「……久しぶりだな」

 リヒターは淡々と呟く。

「先日は、うちの調査官が世話を掛けました」

 エリヤは静かに言いながら、ちらりと机の上を見やる。

 そこには覚めたコーヒーと乾パン。

 整然とした合理と、聖なる象徴の対比。

 二人の存在は、まるで教会の“信仰”と“現実”を象徴するようだった。

「そんなことを言いに来たのか?」

 リヒターは無表情のまま尋ねる。

「ええ」

 エリヤは軽く肩をすくめながら、椅子に腰を下ろした。

「……貴方は、もう少し余裕を持って生きるべきじゃないですか?」

「余裕とは何のことだ?」

 リヒターは帳簿を閉じ、眼鏡のブリッジを軽く押し上げる。

「まさか、金の計算を疎かにしろとでも?」

「いえ、そうは言いません。ただ……今日の昼食もコーヒーと乾パンだったのでは?」

「合理的な選択だ」

「それが問題なんですよ」

 エリヤは深くため息をつき、書類を机の端に置く。

「貴方は優秀です。どんなに巧妙な金の流れも見逃さないし、不正を見抜く力もある。異端審問官の資金操作を嗅ぎつけ、貴族の不正を暴く。だからこそ、会計局長として誰からも一目置かれている」

 リヒターは何も言わない。

「……ですが」

 エリヤは薄く笑いながら、貴族らしい優雅な仕草で腕を組んだ。

「貴方のやり方は、あまりにも冷徹すぎる。信仰すら、数字で測ろうとするでしょう?」

「当然だ」

 リヒターはあっさりと認めた。

「信仰とは、教会を運営するための一要素に過ぎん。教会が存続するためには、資金が必要だ。その資金がなければ、神の教えを広めることも、聖堂を維持することもできない」

「それは理解しています」

 エリヤは頷きつつも、鋭い視線を向ける。

「ですが、教会とは本来、数字だけで片付けられるものではない」

「そうか? 私には、信仰もまた計算可能なものに思えるが」

「……冗談を言っているのですか?」

「冗談を言う趣味などない」

 エリヤは天を仰いだ。

「……教会に貴方のような人間がいること自体、奇跡かもしれませんね」

「皮肉か?」

「違いますよ。貴方のような人間がいるからこそ、教会は腐敗せずに済んでいる。ですが、時々思うんです」

 エリヤは組んだ腕をほどき、真正面からリヒターを見つめる。

「貴方は、本当に何も信じていないのですか?」

 一瞬、リヒターの指が止まる。

「何も、とは?」

「神でも、教会でも、人でも……貴方は何を信じているんですか?」

 短い沈黙。

 やがて、リヒターは淡々と答えた。

「数字だ」

 エリヤは再び、深いため息をついた。

「……やはり」

 だが、次の瞬間には薄く微笑んでいた。

「まあ、貴方がそう言うなら、仕方がありません」

「当然だ」

 リヒターは再び帳簿を開く。

 だが、ページをめくる手が、ほんの一瞬だけ止まったことを、エリヤは見逃さなかった。

(本当に、それだけでしょうか?)

 しかし、その問いは口にしないまま、エリヤは立ち上がった。

「それでは、会計局長殿。数字だけを信じるのも結構ですが……せめて、もう少しまともな食事をとってください」

「検討しよう」

 リヒターは相変わらず無表情で答える。


 エリヤはそのまま会計局を後にした。

 彼の姿が扉の向こうへ消えた後、リヒターは帳簿を閉じ、ふと机の隅に目をやった。

 そこには、教会の財政報告書と並んで、一冊の古びた祈祷書が置かれている。


 神学校時代を思い出す。

 机の上に無造作に積まれた書物。寝る間を惜しんで学問に励んだ日々。

 ——信仰とは何か?

 ——教会とは何のためにあるのか?

 ヴィクトールとエリヤと、夜が更けるまで議論を交わした記憶。

 あの頃の自分は、まだ「信じる」ということが何を意味するのか、理解しようとしていた。

 だが今はどうだ?

 信仰とは数字であり、資産であり、管理すべき計算の対象に過ぎない。

 それ以外の何かを求めることは、あまりにも非合理的だ。

 リヒターは静かに祈祷書を手に取る。

 指先でページをめくると、僅かに擦れたインクの跡が残る。

 神学生時代の筆跡——「信仰は人を救うのか?」と、若かりし頃の自分が書き込んだ文字がそこにあった。

 思わず苦笑する。

「……愚問だな」

 そっと本を閉じると、彼はそれを財政報告書の下へ滑り込ませた。

 そして、再び帳簿を開き、冷静に数字を追い始める。

 扉の外には、エリヤの足音がまだ遠ざかりきらずに残っている。

 ふと、先ほどの言葉が脳裏をよぎる。

 ——貴方は、本当に何も信じていないのですか?

 リヒターは眼鏡を押し上げ、筆を取った。

 そして、数字の羅列の合間に、誰にも読まれることのないように、そっと小さく記す。

 「信仰とは、計算できるものか?」

 インクが乾く前に、その文字を淡々と横線で消した。

 それきり、彼の筆は再び静かな数字の世界へと戻っていった。

ヴィクトールは次録に出てきます

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ