2. 神の声を聞いた修道士
重厚な扉が静かに開かれると、冷えた空気が二人を迎えた。
壁には金色の装飾が施された聖具が並び、祭壇には精巧な彫刻が刻まれた銀の燭台が鎮座している。
大理石の床には深紅の絨毯が敷かれ、窓から差し込む光が神秘的な輝きを放っていた。
その荘厳な空間の中心に座る男――神聖調査局の局長エリヤ・フォン・リヒト。
帝国教会本部の高官であり、ミハエル直属の上司でもあり、依頼を出す立場の人物だ。
年齢は三十代半ば。柔らかな甘栗色の髪は緩やかなウェーブを描き、前髪が僅かに額を覆っている。温厚そうな顔立ちに優雅な物腰。
一見すると信仰に生きる穏やかな聖職者のように見えるが、その灰色の瞳には深い知性が宿り、どこか達観した色を帯びていた。
机の上には開かれた聖典と、山積みになった公文書。
エリヤは細い指でページをめくりながら、静かに二人を見上げる。
「ようこそ、我が教会の問題児たち」
淡々とした口調だったが、僅かに苦笑が滲む。
彼はかつて「奇跡の解明」を専門としていた。
神の御業とされる現象を、科学と理論で紐解くことに情熱を注いでいたが、今は管理職となり、机の上で報告書に目を通す日々。
組織の腐敗を目の当たりにしながら、それでも信仰を捨てることなく、できる範囲で“正しさ”を模索していた。
だからこそ、彼はミハエルを 「異端審問官ではなく調査官」 として使う。
組織の論理や権威ではなく、真実を求める存在として。
ミハエルの推理力と観察眼を誰よりも高く評価しているが、彼の破天荒さには毎度、頭を悩ませていた。
「また何か面倒ごとを起こしていないでしょうね?」
エリヤは軽くため息をつきながら、手元の書類を閉じた。
それを見て、ミハエルは肩をすくめる。
「そいつはどうかな?俺はただ、頼まれた仕事をしているだけさ」
「お前の仕事が、時に異端審問よりよっぽど騒がしいのが問題なのですよ」
エリヤは静かに呟き、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「二人を呼んだのは、我らが教会にとって、極めて重要な奇跡が起こったからです」
エリヤは机の上の書類に目を落とした。その指先は、微かに書類の端をなぞるように動いている。
「奇跡ねぇ……」
ミハエルは気だるげに葉巻をくるくると指で回し、つまらなそうに笑う。
「で? どんな奇跡が?」
エリヤはわずかに息をつき、一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。
彼の表情には、どこか腑に落ちないものを感じる影があった。
それでも、ゆっくりと語り出す。
「ある修道士が、神聖なる血の杯に触れた後、神の声を聞いたのです」
「神の……声を?」
エリヤは小さく頷く。
「彼はその夜、こう告げました――選ばれし者は、天へ召されると」
ミハエルの眉がわずかに動いた。
葉巻を転がす指の動きが、ぴたりと止まる。
「……で、その修道士は?」
エリヤの口元が僅かに強張る。
「ラウルという若い修道士です。彼は2年程前に南部のオルシエル修道院から帝都へ出てきましたが、翌朝には姿を消しました。数日後、最後に目撃されたのは、元いた南部の修道院でした」
「彼はなぜ南部へ?」
ミハエルが眉をひそめる。
「分かりません。彼は『神の声に導かれた』と言い、オルシエル修道院へ戻ることを決意したようです。同じ僧房の修道士が止めたにも関わらず彼はここを出て行ったと。だが、そこで失踪したのです」
「神の声に導かれた、ねぇ」
ミハエルは呆れたように葉巻を回す。
「それだけではありません」
エリヤは低い声で続けた。
「オルシエル修道院に用意されたラウルの部屋には、血文字が残されていました」
エリヤはそっと懐から一枚の紙を取り出した。
「これは写幻紙といって、一度目にした光景を魔力で焼き付けて記録できる紙です」
エリヤが軽く指を弾くと、紙の表面に淡い光が走り、ぼんやりと影が浮かび上がる。
一枚には、柔和な笑みを浮かべた若い修道士の姿。もう一枚には、乾いた血で書かれた文字が映し出されていた。
「……神に選ばれし者は、天へ召される」
ミハエルは静かに呟いた。
「まるで自分で書いたかのように見えるが……血の乾き方が不自然だ」
写幻紙に映し出された文字を見ながら呟く。
「まだ新しい血で文字が書かれているように見えるが、よく見るとその下に乾いた血の色が見える」
コンラートが険しい表情で腕を組む。
「つまり、誰かが証拠を隠滅しようとした……?」
ミハエルは薄く笑った。
「それを確かめに行くのが、俺たちの仕事ってことだろ?」
エリヤは静かに頷く。
「オルシエル修道院付近では最近、神の声を聞いたという報告が相次ぎ旅人や浮浪者の失踪が頻発しています。同様の事例が続いていること、それにラウルが消え、それを知った友人から嘆願の手紙が神聖調査局に届きました」
エリヤは机の上の手紙を手に取る。
「「神聖なる血の杯」を手にした者が神の声を聞くという伝承は以前からありますが……しかし、私は懐疑的です。神聖なる血の杯は、通常は教会の保管庫で厳重に保管されています。その管理は、信仰部門のごく限られた聖職者のみに許されています……それとは別に、帝国内で密かに流通している「神の血」の影響ではないかと……」
「神の血?」
コンラートが反応する。
エリヤはゆっくりと頷いた。
「少量ならば、恍惚感と多幸感をもたらすとされています。しかし、一定量を超えると……人は幻覚を見て、時に神の声を聞く」
ミハエルが葉巻を指で弾く。
「なるほどな……つまり、神の血ってやつは神の奇跡じゃなくて薬かもしれないってことか?」
エリヤは慎重に言葉を選んだ。
「ただ、教会内の聞き取り調査も曖昧な部分が多く、今回の件は何らかの思惑が働いている可能性はあります」
コンラートが視線を細めた。
「つまり、神の声を聞いたとされるヤツらは、薬物に冒されていた可能性がある……?」
エリヤはそれには答えず、静かに言った。
「その真偽を確かめるために、南部へ向かってほしいのです」
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