1. 異端なる調査官と生真面目な聖騎士
朝露の跡が石畳を濡らし、帝都グラン・エルデンの朝は静かに始まる。
石造りの建物が並ぶ通りには、ガス灯がまだ薄く光を灯している。市場の露店には香ばしいパンの香りが漂い、焼きたてのバゲットが積まれており、道端では新聞売りの少年が最新の事件を叫んでいた。
遠く、巨大な聖堂の鐘が鳴り響く。黄金の十字架が霧の向こうにぼんやりと輝き、人々は足を止めて短い祈りを捧げる。
そんな敬虔な街の空気の中で、ひとりだけ場違いな男がいた。
黒の生地に銀糸の教会の紋章が刺繍が施された服を着てはいるものの、襟元のボタンは二つも外れ、袖もいい加減にまくり上げられている。
ロングコートは、まるで風に乗せるように羽織っているだけで、端正に着る気配など微塵もない。
金の髪はうねるようなクセがあり、無造作にかき上げられてはいるものの、長い前髪が時折、鋭い碧眼を隠していた。
端整な顔立ちはどこか気怠げで、その唇には薄い笑みが浮かんでいた。長い指先には未点火の葉巻が挟まれ、軽く転がすように弄んでいる。
「さて、今日の神の奇跡は何だろうな?」
教会直属の神聖調査官、ミハエル・フォン・ヴァイセンブルクは空を仰ぎながら、皮肉めいた口調で呟いた。
日差しに照らされた制服の銀糸が仄かに光を反射し、彼の乱れた着こなしを余計に際立たせている。
そんな自分の姿を気にする様子もなく、ミハエルは怠惰な足取りで石畳を進んでいった。
まるで、この神聖な街の風景に対して「敬意など知らない」とでも言わんばかりに。
「お前な……」
隣を歩く男が、ため息混じりに応じる。
黒髪に鋼のような金色の瞳。整った彫りの深い顔立ちはまるで彫刻のようで、その表情には常に静かな緊張が宿っている。
彼の視線はまっすぐ前を見据え、一切の迷いがない。
コンラート・ハインリヒ・フォン・アイゼンシュタイン。
セラフィム聖教会騎士団の正式な一員であり、聖騎士のひとり。
腰には帯剣、軍服に似た端正な騎士装束を身にまとい、無駄のない動作で歩みを進めていく。
「そういう態度を取るから、異端扱いされるんだ」
「異端ねえ。俺はただ、目に見えるものしか信じないだけさ」
ミハエルは肩をすくめると、未点火の葉巻をくるりと指先で回した。
コンラートは、ミハエルの何気ない仕草を横目で見ながら、僅かに眉をひそめた。
「それより、何だって俺たちがこんな朝早く呼び出された?」
「教会本部が緊急の調査を命じた」
「緊急?まさか、聖女が空を飛び、パンがワインに変わり、神の声が三声目までハモったとか?それとも、ワインが水に戻ったとか?」
「ミハエル」
コンラートは一瞬、ピクリと眉を動かした。
だが、それ以上の感情を見せることなく、表情を固く引き締める。
「はいはい、真面目に聞くよ」
「修道院で奇跡が起こったそうだ」
「奇跡ねえ……で、どんな?」
「修道士が、神の声を聞いた。そして彼の姿は消えたそうだ」
ミハエルは歩みを止めた。
「……ほう?」
彼の碧眼が、わずかに興味を帯びた。
グラン・エルデンはエルデン帝国最大の都市であり、政治・経済・宗教の中心地でもある。帝国の皇帝が宮廷を構える王宮、貴族たちの住まう高級住宅街、学問と知識が集う大学区域、そして、何よりも目を引くのがセラフィム聖教会の巨大な聖堂群だった。
聖堂は、ただの礼拝所ではない。帝国の政治にも深く関与し、皇帝すらも無視できないほどの影響力を持つ教会組織の象徴だった。
帝国と教会――それは時に協力し、時に対立する関係にある。
皇帝は「神に選ばれし者」として統治を行うが、その正当性を裏付けるのは教会の承認だった。
一方で、教会は帝国の庇護のもとに広がり、信仰と法を盾に権力を維持している。
ただ、近年、魔道工学の発展により、奇跡と異端の境界が曖昧になりつつあった。
そのため、教会直属の調査官の役割は極めて特殊だった。
特に、この男――ミハエル・フォン・ヴァイセンブルク、彼は教会に所属しながらも信仰心の欠片も虔さの欠片も見せない。
いや、それどころか、まるで信仰を嘲笑うような態度すらとる。
しかし、彼の発言には奇妙な整合性があった。
ミハエルは「信じない」と言うが、盲目的に否定しているわけではない。
彼は信仰を疑うことで、真実を暴こうとしているのではないか――
そんな考えが、コンラートの脳裏をよぎる。
何故、自分がこんな男の護衛を任されているのか。
コンラートは、前を飄々と歩くミハエルを見た。
美しいはずの金髪はくしゃくしゃに乱れ、少しばかり皺のついた服。
――また風呂をさぼっているな。
苦々しく思いながら、コンラートはため息をついた。
※
帝都の中心にあるその大聖堂は神の威光を映し出すかのようにそびえ立っており、陽光を浴びた壮麗な石造りの建築は、まるで天へと続く階段のようだった。
黄金の十字架が空高く掲げられ、広場に集う巡礼者たちは膝を折り、静かに祈りを捧げている。
セラフィム聖教会の象徴にして、帝都の心臓とも呼ばれる大聖堂。
その扉がゆっくりと開くと、漂ってくるのは甘い香の匂い。
荘厳なフレスコ画が壁一面に描かれ、天井には天使たちのモザイクがきらめく。
赤や青のステンドグラスを通した光が神秘的な帯を作り出し、信者たちの肩に降り注いでいた。
この大聖堂は単なる祈りの場ではない。
ここは帝国の精神の支柱であり、皇帝の戴冠式を司る場所。
また、奇跡を検証し、神の名のもとに裁きを下す異端審問の拠点でもあり、帝国に生きる者の魂の安寧を見守ると同時に、教会の戒律と権威を示す場でもあった。
聖堂の奥では、白衣の司祭たちが聖典を紐解き、神託を記す。
そのさらに奥、誰もが足を踏み入れることを許されぬ神聖なる間では、帝国の未来を静かに見据える存在があった。
そこに座するのは、この世にただ一人。
教皇――〈聖座〉に就くことを許された唯一の者。
皇帝ですら、容易にこの場へ足を踏み入れることはできない。
帝国と教会の均衡を守るため、皇帝が教皇と謁見する機会は限られていた。
それは、単なる礼儀や伝統ではなく、この国の支配構造そのものを象徴する秩序だった。
「何度来ても見事なもんだ」
ミハエルは軽く口笛を吹き、悠々と天井を見上げる。
堂内を埋め尽くすフレスコ画や黄金の装飾が、朝の光を受けて静かに輝いていた。
「この場所に足を踏み入れるたびに、己の小ささを感じるな」
隣でコンラートが厳かな表情でつぶやく。
「へえ、俺はただ教会の懐の深さを感じるけどな」
ミハエルは片眉を上げ、皮肉げに笑う。
コンラートが一瞬だけ視線を向け、僅かに眉をひそめた。
「お前には畏敬の念というものがないのか?」
「俺にあるのは、疑念だけさ」
ミハエルは肩をすくめながら、ゆっくりと聖堂を見渡した。
赤い絨毯が中央にまっすぐ敷かれ、その上を修道士たちが静かに歩いていく。
彼らは黒や白の修道服に身を包み、祈りの言葉を紡ぎながら進んでいた。
すれ違いざま、僧衣の裾がふわりと揺れるたびに、香の甘い匂いが微かに漂ってくる。
厳かな雰囲気の中、二人の足音だけが、広大な聖堂の空間にやけに響いた。
コンラートは静かにため息をつき、ミハエルを横目で睨む。
「やれやれ……いつものことながら、お前と一緒にいると、聖堂の空気が悪くなりそうだ」
「お前が信仰心に溺れすぎてるだけだろ」
ミハエルは楽しげに笑い、足を止める。
目の前には、大聖堂の奥へと続く階段がそびえていた。
磨き抜かれた大理石の段が、まるで天へと至る道のように続いている。
その先には、聖職者たちしか立ち入ることを許されない「神の座」がある。
ミハエルは一歩足を踏み出し、長い階段をゆっくりと見上げた。
「神の座か……」
ミハエルはそう呟くと肩をすくめ、指先で葉巻を転がした。
1話、読んでくださってありがとうございました♪はじめてのオリジナル小説になります。楽しんでいただけたら嬉しいです。
初心者なのでサイトの使い方がいまいちわかりません