【短編】 働きアリのイチ
朝日が地平線を越え、まだ薄暗い中でアリの行列が忙しそうに動き出す。小さな足音が、泥の上をかすかな振動として伝わってくる。アリたちは決して立ち止まることなく、決まったルートを行き来する。ひときわ小さなアリがその中にいた。名前は「イチ」と言った。
イチは、他のアリたちと比べて若干小柄で、初めて働き始めたばかりの見習いであった。アリの社会では、年齢や大きさに関係なく、みんな一様に働くことが求められる。大人になったその日から、イチもまたその一員として毎日を過ごしていた。
「今日も仕事だ。」イチはひとりごち、足元を見ながら決意を新たにした。
アリの仕事は多岐にわたる。巣を守る警備隊から、食物を運ぶ隊、巣の中を掃除する隊、そして最も重要な役割を担うのは、女王アリに仕える隊だ。イチはまだ食物を運ぶ隊の一員として働いていた。今日は特に、周囲に何かがありそうだと感じ取った。地面に散らばる食べ物が目に入り、それを巣に運ぶ任務を受けていた。
その途中、イチはいつもの道を外れ、少し違った場所に足を進めてしまった。そこには、巨大な木の根元が広がり、まるで壁のように立ちはだかっていた。普段は通ることのない場所だったが、何か特別な匂いが漂ってきた。その匂いに誘われるように、イチは一歩一歩と木に近づいていく。
突然、足元がわずかに揺れた。イチは振り向く間もなく、その動きが何か異常だと感じ取った。巨大な影が迫ってきて、次の瞬間、何もかもが激しく揺れた。巨大な足が地面を踏みしめ、その衝撃でイチは思わず転げ落ちた。
上空には見上げるほど大きな影が広がり、その正体は人間だった。人間はアリにとっては巨大な存在であり、あまりにも大きな力を持っていた。イチの心臓が早鐘のように鳴り響き、体中に冷や汗が流れた。もう後戻りはできない。逃げる暇もなく、人間の足が迫ってくるのを感じた。
その瞬間、イチは自分がどれほど小さな存在であるかを実感した。今までアリの社会の中では、食物を運ぶ仕事をこなすことで自分に意味があると信じていたが、その意味はこの一瞬で無価値になってしまった。
人間の足が地面に降り立ち、その一歩がイチを踏み潰す。音もなく、イチの小さな体は、泥の中に押しつぶされていった。彼の命は、ほんの一瞬の出来事で終わった。
周囲では、何も変わらないかのようにアリたちが働き続けている。イチが踏み潰される瞬間も、他のアリたちはひたすらに働いていた。彼の死は、アリ社会の中では何の影響も与えなかった。イチが命を落としたその瞬間も、他のアリたちはそれぞれの役目を果たし、ただ前に進んでいく。
だが、イチの心の中では、ほんの少しだけ異なる気持ちが芽生えていた。命の儚さ、そして一瞬で過ぎ去る運命への無力さ。それを感じることができたのは、あの一瞬だった。
人間が足をどかすと、イチの小さな体は地面に残された。もはや何も感じることはなく、すべてが終わった。
だが、アリ社会の中でそのことを知る者は誰もいなかった。イチの死は、まるで風に吹かれた葉のように、誰にも気づかれることなく消えていった。
(終)