言葉足らず*
『酔っ払いの勘違い』
※未成年者の飲酒を推奨するものではありません。
※BLです。
樋口久遠は、俺が思っていた以上に俺のことが嫌いだったんだなあ。
初めて飲んだ酒による「酔い」も手伝ったのか、柄にもなく感傷的な気分になる。俺の視線の先で、派手髪の女子たちと楽しそうにお喋りしている、樋口。
お前誰だよ物静かで控えめな樋口久遠を返せよ偽物め、と喉元まで出かかったところで、グラスのビールを勢いよくあおって言葉を流し込んだ。苦い。まずい。あと、どっちかってーと、こっちが本物の樋口だろ。あれ、やばい。なんか泣きそ。なんで?
握りしめていた空のグラスの輪郭線が滲んでくる。
慌てて右手の甲で両目を拭って頭を上げる、と、クリアになった視界の真ん中で、樋口が俺を見ていた。
が、すぐに目線を逸らされた。両脇に座っていたチェリーレッドとターコイズブルーの2人組に何やら断りを入れて、樋口は席を立つ。無駄に長い脚。半個室からぎこちなく出ていく後ろ姿が、ふいに、出会ったばかりの彼の姿と重なった。
そう、あれは1年前の春、大学入学式の日。
『あなたは今、幸せですか?』
大学の正門からそこそこ離れた場所で、あいつは胡散臭い勧誘に捕まっていた。
新生活特有の不安につけ込んで妙な宗教に誘う類か、あるいは、怪しい商法に参加する仲間を探しているパターンか。なんにせよ、触らぬ神に祟りなし。スーツを着慣れていない感満載の新入生たちは、きっとそんな気持ちで、現場を足早に通り過ぎていくのだろう。
かくいう俺も、周りに倣って、見て見ぬふりを決め込むつもりだった。
クリップボードや書物を片手で抱え込んだ勧誘者の表情は、遠目からではよく見えないものの、息継ぎさえ惜しんで喋り倒している様子は、明らかに異常だ。声量もバグっている。普通に近所迷惑。
不憫にも絡まれていたのは、俺らと同じく真新しいスーツ姿の男で、後ろ姿からの判断にはなるが、恐らく彼も新入生なのだろう。
哀れな今後の同級生よ、俺はもうすでに入学式への緊張で吐きそうだから、どうかスルーを許してほしい。キャンパス内で教職員っぽい大人を見かけたら、それとなくチクっておくから。
などと、心の中でごにょごにょ言い訳しつつ、2人の真横を通り過ぎようとしたとき。
罪悪感と好奇心の綯い交ぜで一瞥した男の顔立ちが、あまりにも整っていて、思わず足が止まった。
艶やかな黒髪に、つり目がちで切れ長なダークブラウンの瞳。目尻にかけて下がり気味な眉も、筋の通った高い鼻も、真一文字に引き結ばれた唇も。顔全体のパーツが、驚くほど完璧なバランスで配置されていたのだ。
え、イケメン。めちゃくちゃイケメン。モデル? 俳優? つか腰の位置高くない? うわ、すごいな、見れば見るほどかっこいい。
このままずっと眺めていたいなあ、というトンデモ思考に至った瞬間、俺は唐突に我に返った。なんかいま死ぬほどきもいこと考えてたぞ、と。
虚無になった気持ちで再度、何食わぬ顔で前方に視線を戻したが、今度は男と向かい合っていた勧誘者の顔を認識してぎょっとする。
こ、こいつ! 俺が第一志望の高校に落ちて激病みしてたときに付きまとってきた奴じゃん! なんでここに!?
……ああそうか、思い出した。あの高校もここらへんにあるんだった。記憶封印してたから忘れてた。
人違いなわけがない。大本命だった高校の校門入ってすぐに張り出された合格者番号の紙、暗記さえしていた自分の受験番号が無慈悲に飛ばされている事実、人生で初めての絶望に打ちひしがれて帰路に就く、いたいけな15歳の俺。
の、俯いた顔を、無理やり覗き込みながら『幸せですか?』コールをやめず、俺がわざわざ交番の前を通る遠回りルートに変更するまでずっと、ぴっちり歩幅合わせて付きまとってきたのは! そう! 間違いなく! お前だ!
『あの』
感情に任せて行動するとろくなことにならない。知ってるけど、でも、このろくでもない状況でなら、別にいいんじゃないか。
片手で持っていた黒い鞄を、勧誘者と男の間に滑り込ませる。そこでようやく、呪詛みたいに途切れなくまくし立てていた勧誘者が、口を閉ざした。今しかない、と思った。間近で見るダークブラウンの瞳は、やっぱり綺麗で、目を離すのが惜しかった。
『な、何です……?』
『幸せですよ、彼は。もし不幸だったら俺がこれから幸せにするんで結構ですハイさようなら!』
棒立ちしている男の腕に自分の腕を強引に絡ませる。正門に向かって引きずるように歩き出すと、次第に抵抗がなくなったので、するりと拘束を解放した。スピードを速めたにも関わらず、隣の男は悠然とした足取りで並走してくる。足長め、憎たらしい。
正門では新入生やらビラ配りの在学生らしき人やらで、相当に広いはずの通路がごった返していた。大学って、マジで人多いんだ。
呆然としていると、ふいに、前後左右から視線が突き刺さることに気づき、そういえば、隣の男はめちゃくちゃ美形なんだったと思い出す。没個性な容姿の自分が側にいてもみじめになるだけだし、こんだけ人がいるなら、もう会う機会もないだろうし。
しれっとした顔で集団内に溶け込もうとした俺の腕を、けれど男は控えめに引っ張った。横目で見ると、『ありがとう。俺、樋口久遠』と短く男が言う。少しハスキーだけど、聞き取りやすい声色。一拍置いて、『災難だったな、樋口。俺は雪村、雪村広志ね』と名乗り返すと、樋口は口の中で転がすみたいにして『ゆきむら……』とつぶやいた。
なんだか背中がこそばゆい。その感覚を紛らわせるようにして、俺はまた口を開いた。
『ガン無視して逃げればよかったのに。聞いてやる義理なんてないんだからさ』
『聞いては、なかった』
『え? じゃあ、なんで立ち止まってたの?』
樋口はきょろきょろと瞳を動かしたのち、俺を見据えて、『考えてたから』と答えた。『なにを』と間髪入れずに尋ねると、再び、逡巡していると思わしき沈黙が落ちる。
がやがやと騒がしく通り過ぎていくグループが、すでにちらほらといた。ぼーっと眺めて、俺もとっとと知り合い作らなきゃなあ、と何となく憂鬱になる。大学生って、どんな会話するんだろ。あ、バイトも始めなきゃか。まず求人アプリを入れるんだっけ?
ポケットからスマホを取り出そうとして、いつの間にか樋口がじっと俺を見ていたことに気づいた。視線を向ける。
『俺は今、幸せなのかどうかを、考えてた』
『……それ、真に受けなくていいやつだぞ』
真面目か。いや、馬鹿か。いずれにせよ、引きずってきて正解だった。
『まあ、樋口クンかっこいいしさ、きっと楽しいキャンパスライフが送れるよ』
『かっこいい……?』
『え、まって、ただの嫌味になるから不思議そうな顔しないで』
マイペースに首を傾げる樋口に対して、なんだかなあと思う。なんで俺はこんな変な男に惹かれてるのかなあとか、このままじゃ地獄のカタオモイコースまっしぐらだよなあ、とか。
だから、次の会話を展開しそうになる前に、意味もなく数回軽くうなずいて、『それじゃ、まあ』って曖昧な切り上げ方をして。
親指と人差し指と中指の3本だけしっかり立てて、ゆるく左右に手を振る。すると、まったく同じ手の形で振り返された。たったそれだけで胸の鼓動が早くなってしまったから、『友達待たせてるから急ぐわ』と早口で無意味な嘘をつけ足した。
去り際、『雪村くんが俺を幸せにしてくれるの?』と樋口が言った。俺は首だけで振り返って、『さっき言ったのが答えだよ』と言って笑った。胡散臭い勧誘セリフについて言ったのと同様、「真に受けなくていいやつだ」という意味で。
省略しすぎたかなとも思ったけど、当時は、あの発言の意図をきちんと説明できる気がしなかったから、言葉を濁すしかなかった。今にして思えば、「月が綺麗ですね」みたいな気持ちで口走ったのかなあ、とぼんやり思う。
自分のことなんて、よくわからない。
結局、樋口と会話を交わしたのは、あれが最初で最後になった。
きっと学部が違うのだと思う。ガイダンスや講義の教室で見かけたことが、一度もないから。そもそも連絡先だって交換してないし。もし仮に、同じサークルなんかに所属すれば、つながりができたのかもしれない。けれど俺は、進学を機に始めた1人暮らしとバイトをこなすだけで精一杯で、そこまで気が回らなかった。あ、でも、イケメンとつながりたくてサークル情報集めるとか、だいぶイタいか。いやでも、やっとけばよかった、かも。今更か。
ただ一方で、キャンパス内ですれ違うことは極まれにあった。一番最近だと、空きコマをつぶすために友人と連れ立って行った、学内カフェで会った。といっても、本当にカフェの出入り口付近ですれ違っただけ。いつもするように、無言で手を振り合って終わり。
そこで乱暴に腕を掴んで引き留めて、「何学部?」「サークルとか入ってる?」「今度ヒマなとき時間取って喋らない?」「てかそもそも俺のこと覚えてる? 妙に馴れ馴れしいモブだと思ってあしらってない? 雪村広志という名前に心当たりはありませんか?」と捲し立てられるほど、俺のメンタルは強くなかった。
いいんだ、これで。たとえ全く印象に残ってなくて、条件反射みたいに手を振り返してるだけなのだとしても。マジで嫌われてたら、無視されるだろうし。
そうやって毎度の如く、ねちねちと正当化を試みていた俺の耳に、
「あっれー、珍しい。久遠が無視した!」
友人こと颯が爆弾発言を落とした。
ぎぎぎ、と関節部分がさび付いたロボットのように首を回して隣を見る。能天気そうな面をして、颯はなおも「機嫌が悪かったのか? 気付かなかった?」と心底訝しげにぼやき続けている。
「……無視はしてない、だろ。俺が手を振ったら、振り返してくれたんだから」
かろうじて絞りだした俺に、颯はぽかんとして「一言も喋んなかったんだから、無視と同じでしょ」と言葉の刃を突き刺した。あっけらかんとした物言いがムカつく。それにこいつ、さっき「久遠」って言った? は?
「は、颯、樋口と知り合いなの?」
「ん? ひぐち? ……あっ、久遠のことか! そういえばそんな苗字だったなー、忘れてた!」
いちいち癇に障ることを言うな。
「どこで知り合ったんだよ。まさか、樋口も文学部?」
「え? 久遠は経営だよ。知り合いっていうか、普通に友達。イケメンでコミュ力おばけって最強だよなあ、距離の詰め方が上手いのなんのって。この前、たまたまサークルの飲み会で隣り合っただけなのにさ、あれよあれよと話が弾んで、次の日、カラオケオールしたんだぜ? しかもサシで。女子にモテるのも納得だわー。なのに全然……」
「颯」
「あ?」
腕を組んで目をつむり、訳知り顔で饒舌になっている颯の両肩を掴む。無理やりこっちを向かせて、俺は言った。
「それは樋口のドッペルゲンガーだ」
「真剣な顔して何言ってんの? てか、そういや、広志も久遠のこと知ってんだっけ。手ぇ振ってたとかなんとか」
「そうだ。俺と樋口は、かれこれ1年前からすれ違いざまに手を振り合う間柄だ」
「えっ。1年前から知り合ってんのにいまだに苗字呼びで、すれ違いざまに世間話のひとつもしないの? あの久遠が相手なのに? そこまで進展しないって……」
一言一句が致命傷すぎる。オーバーキル状態になりながら、両手で颯の肩に全体重をかけて、何とか体勢を持ちこたえる。だがしかし、悲しきかな。この颯という男は、デリカシーのデの字も持ち合わせていないのだった。
「広志お前、久遠に嫌われてんじゃね?」
高校受験に失敗して以来、人生2度目の、圧倒的な絶望感。
両手で顔を覆う。指の隙間からうめき声がもれる。そんな俺を憐れむのでもなく、「早く中入ろうぜ、コンセントある席うまっちまうかも」と自分のスマホのバッテリー残量を気にして、俺の背中をぐいぐい押してくる颯。お前には人の心がないのか? 文章の読解力だけは無駄に長けてるのに?
それでも俺が即座に膝から崩れ落ちず、カフェの席に辿り着くまで歩くことができたのは、ひとえに、ある可能性を捨てていなかったからだ。ずばり、颯がめちゃくちゃ話を盛っている、という可能性。
百歩譲って、颯と久遠が実はサークル仲間で、一緒に飲み会に参加して仲良くなって2人きりでカラオケでオールした、ということが事実だとしよう。だめだ、かなり傷つく。だってそれが本当なら、酔っ払った樋口とか、持ち歌を披露する樋口を見たってこと? 見たっていうか歌に関しては独占? なに? は?
違うそうじゃない、落ち着こう。
「やべっ、充電コード忘れた! 広志、持ってない? 貸してくんね?」
「家に置いてきたからない」
「うわあ、5%切ってんのになあ。まずったー」
考えるべきはそう、単純に颯と樋口の相性がよかっただけという可能性だ。
先程の颯は、樋口がまるで、万人とすぐに打ち解けることができる、積極的なコミュニケーション能力に長けた人物であるかのように語っていた。だが、それはあまりにも俺の樋口像とかけ離れている。ならば、こうも考えられないか。颯が話す樋口の人物像は、あくまでも対颯に向けられた樋口の態度を、そのまま一般化してしまったにすぎないのではないか、と。
この可能性を検証するために、俺が取るべき行動とは?
颯以外の誰かと、気軽に話せる場で接している樋口の様子を、俺の目で確かめることである。気軽に話せる場といえば、どこだろう。あ、そういえば、颯は飲み会で樋口と仲良くなったんだっけ。なら、そこか。よし。
「……颯っ、頼みがある。今度、俺とお前と樋口とその他数人が参加する飲み会をやらせてくれないか?」
「え、なに急に。こわ」
勢いよく顔をあげて頼み込んだ俺に対し、目の前の颯は眉間にしわを寄せ、渋い顔のまま、右手に持っているチョコチップマフィンを一口かじった。いつの間に買ってきてたんだ、それ。
上半分が食い尽くされたマフィンの包み紙を、面倒くさそうに指先ではがしていくのを眺めて、「先に紙全部はがして、横から食えばよかったのに」と言うと、「俺はー、まあるい頭からかぶりつきたかったから、いーの」と間延びした調子で返された。てかこいつ、姿勢わる。体が斜めになりすぎて、椅子の背に肩しか接していない。
「広志さあ、妙なとこでマジメちゃんだよあ? 俺が1年のときから飲みいこーぜーって誘っても、ぜってえ来なかっただろ。俺が何度さみしー思いをしたことか」
「変な姿勢で食ってると喉詰まらせるぞ。ちゃんと背筋伸ばせよ」
「ほら。そーゆーとこ」
颯はこれ見よがしにため息をつき、「どっこらせ」という掛け声とともに姿勢を正した。
「俺が急に酒の席に行きたがったのには、しっかりとした理由がある」
「なにさ?」
包み紙を半分程はがした左手が止まり、アーモンド型のたれ目が俺の様子を窺う。
「昨日、20歳になった」
「まじ!?」
ガッターン! と派手な音を立てて椅子が倒れた。突然立ち上がって目を真ん丸にした颯が、わなわなと震えながら見下ろしてくる。
……いや、そんなオーバーリアクションされるのは予想外なんだが。周囲の学生たちの反応が気になってあたりを見回したが、幸いにも彼らは、ワイヤレスイヤホンをつけながらのパソコン作業に集中し続けているようだったので、とりあえずホッとする。
謎にハイテンションになった颯が、テーブルをはさんで座っている俺の隣まで回り込んできて、「おめでとう! めでたい! なんで昨日言わなかったんだよー!」と何度も俺の背中を叩いてくる。痛い痛いっ、手加減をしろ! だが、喜色満面で「ようやく一緒に飲めるんだな!」とはしゃぐ颯を見ていると、何も言えなくなる。主に罪悪感でいっぱいで。
なぜなら、本当の俺の誕生日は昨日どころか、まだ数か月先だから。
とっさに思い付いた嘘ではあるが、我ながら虚しい嘘だなと思う。そもそも俺の誕生日は、夏休み真っ只中の期間と被るため、基本的には、家族以外に祝われないまま過ぎていくことが多かった。別に俺もイベント事に熱心なタイプではないし、夏休みの最後の数日という貴重な時間を、わざわざ俺のために割いてもらうのもなんか違うなと思っていたし。
それに、甲斐甲斐しい友人が学校の始業式の後に祝ってくれたこともあったから、そこまで悲観的にはならなかった。ならなかったけど、でもやっぱり、ほんの少し寂しかった。だからいつしか、俺は自分の誕生日をあまり人に教えなくなったのだった。
……しかし、あれだな。
「よっしゃ、講義終わったら、さっそく飲み行こうぜ! まずはビールからな!」
「あ、うん。ありがと」
「やべー、すげー楽しみ! 広志って酔ったらどうなるんかなあ!」
ここまで盛り上がってくれてるの見ると、さすがに良心が痛むな。
どうしよ、やっぱ嘘って言うか? いや無理、気まずい。まあ、本当の誕生日が来る前に機会を見計らって訂正するか。そうしよ。
複雑な心境になっている俺をよそに、颯は右手で持っていたマフィンの残りを、ばくりと一口で食べ、丸めた包み紙を、ゴミ箱へと上機嫌に投げ入れた。そして、満面の笑みで椅子を起こして席に戻ると、おもむろにスマホを取り出す。
「えーっと、何だっけ。俺とお前の2人きりじゃだめなんだっけ? なんで久遠も?」
スマホに視線を落として操作し始めた颯が、ちらりと俺を一瞥した。
咄嗟に言葉が出ないでいると、颯は一瞬、柔らかく目を細めてから、「好意を持ってた相手に実は嫌われてたかも、なんて、ショックだもんな。かといって、不確定のまま宙ぶらりんなのもしんどい。まあフォローはしてやるし、あとで俺んちで飲み直すのもアリだぜ」と言った。俺は何も言えずに、ただ頷いた。
なんだ。やっぱり、聡いじゃないか。変に虚しい嘘ついて損した。
「他に誰誘おうかなあ。うーん……あっ、増田と米沢は? ほら、去年の演習のとき一緒だった。あの子ら意外と面食いだから、イケメン来るって聞いたら乗ってくれるかも」
「あー……うん、いいと思うな」
「おっけー」
増田さんと米沢さんといえば、明るくて気さくな性格ではあるが、わりと人見知りするタイプでもあったはずだ。と、考えて、もし仮に俺の樋口像が正しくて、樋口がコミュ強でもなんでもなかった場合、たいぶ気まずい思いをさせてしまうのでは? と思い当たる。その疑問を口に出すと、颯は目を瞬かせ、「嫌ってる可能性が高いお前が来る時点で、十分、気まずいだろ?」とさも当然のように言った。え、こいつ、わざと俺を刺しに来てるの?
「てか普通に、メンバー見て嫌なら断るだろ。……お、前園と米沢、来るって。んじゃ、久遠にメッセして……っと。まあ、久遠抜きにしたってみんなで飲むの楽しいしさ。つーか、米沢って……」
そこで突如、颯の言葉を遮るようにして、スマホから着信音が鳴り響いた。
「あ。久遠だ」
「え」
止める間もなく、流れるような動作で通話ボタンが押され、スピーカーがオンにされる。そして、テーブルの上に置かれたスマホから聞こえてきたのは、
「ねえ、颯くん!? どういうこと、俺、聞いてないんだけど!? なんで雪村くんが……ちょっ、返事してよ! そこにいる!? 俺、無理だよ! 雪村くんと一緒の空間なんてっ……」
流暢で、親しげで、困惑してて、少しハスキーな。
俺を拒絶する、樋口久遠の声だった。
「……あー。うん。聞こえてる、聞こえてる。悪いけどさあ、今日の話はナシで。じゃあな」
肩を叩かれる。体を乗り出してきた颯が、テーブルに置かれたスマホを指差す。俺は首を横に振った。スマホを手に取った颯が画面を操作しようとして、「あ」と拍子抜けした声を上げた。スマホの充電が切れていたらしい。通話後に切れたのか、颯が喋っている時に切れたのか、定かではなかった。
スマホを裏返しにして置いた颯が、「やめとく?」と軽い調子で尋ねてくる。重ねて、「来るかどうかもわかんないし」と付け足される。
俺はかなり迷ってから、口を開いた。
「いや、行く」
声に出してから、胸の中にじわじわと、馬鹿だなあ、という思いが広がっていく。
馬鹿だ、全部。
整った顔立ちに見惚れて足を止めたこと。感情的になって、許可も得ずに腕を掴んだこと。ほんの少し会話しただけの相手に対して、一方的に好意を寄せたこと。たかが手を振り合うだけの関係に、ロマンを感じていたこと。言葉がなくても、自分の存在が認識されるだけで、満たされていたこと。
挙句、この状況は何だ。同じ空間にいることすら受け付けないほど、明確に嫌われているのだとわかったのだから、勝手に自滅した気分になって終わればいいだけなのに。最初から接点などないに等しかったのだから、何の支障もない。俺が手を振らなければ、きっと相手も、無駄な対応をせずにすんで、ストレスなく通り過ぎていくに違いない。
わかってる。自分のことを分析すればするほど、滑稽でならない。
なのに、俺は。
俺は、樋口に拒絶された事実よりも先に、スマホ越しに聞こえた樋口の声で、その声でまた、自分の名前が呼ばれたことに、たまらなく心を奪われてしまったから。
その瞬間、俺はとっくに手遅れだったのだと悟った。胸中で際限なく渦巻くのは、自己嫌悪の皮を被った自己陶酔だと、気づいてしまった。あーあ、ほらな。自分のことなんて、「よくわからない」で済ませておくべきなんだよ、始めから。
ヤケになった。ついでに、無性に悪いことをしたい気分になった。だから、樋口が来ても来なくても、酒を飲もうと決めた。20歳を迎えたふりをしたまま。どうせ他人からしたら大したことないんだろうけど、いいんだ、別に。
こうなったら、俺はとことん、俺に酔ってやるまでだ。
そうして、独りよがりな覚悟を決めて赴いた居酒屋の半個室に、樋口はいたのかどうか。結論から言うと、彼は来ていた。正確には、
「増田さんと、米沢さんね。覚えた! 俺のことは、樋口でも久遠でも、好きなように呼んでほしいな。よろしくね」
颯が主張していたほうの、もとい、俺が知らないほうの、樋口久遠が来ていた。
6人掛けの半個室の入口、樋口からは死角になるはずの位置で突っ立って、しばし呆ける。
背後で飛び交う陽気な笑い声や甲高い声、店員によってリズミカルに復唱されるオーダー、薄暗い橙色の照明、あちこちから漂ってくる揚げ物と酒の匂い。外はとっぷり夜の帳が下りていたというのに、ここはあまりにも活気に満ちていて、なんだか、実世界と隔離されたように感じる。自分が朝型の人間だからか、余計に。
「……ありゃ? 雪村、そんなとこで何やってんの?」
何となく入っていくタイミングを見失っていたら、俺から見て奥側にある3人席の一番外側、樋口の右隣りに座っていた女子に声をかけられた。
さくらんぼを連想させるような、鮮やかで深みのあるウルフカットの赤髪と、ぱっちりと見開かれた大きな瞳が印象的な人。最後に会った時と髪色が違いすぎて、一瞬、誰かと思ったが。
「ああ、米沢さんか。だいぶイメチェンしたなあ」
「そ! かわいいでしょ!」
はにかみながら、凝ったネイルが施された指先で髪を撫でつける米沢さんに、「イメージに合ってて、いいね」と素直な感想を述べると、これまた嬉しそうに「でしょでしょ!」と笑みが深められた。
相変わらず、元気そうで何よりだ。自然と口元が緩む。と、手前側の3人席に座っていたらしい颯が、上半身を斜め後ろにねじるような形で身を乗り出してきた。「遅いぞ、広志」と不満げな顔で俺を見上げた颯が、両腕で突き出して立ち上がり、俺の胴体を拘束する。俺はそのまま、半個室の中へと足を踏み入れた。
颯は、さりげなく俺を一番奥の席へ押し込み、自分はその左隣に腰を下ろした。
気を遣わせてしまって申し訳ないが、向こう側に座っているはずの樋口と、真ん中の席同士で向かい合うのが回避できて、正直ホッとする。
代わりに俺の正面には、爽やかな雰囲気を感じさせる青緑色のセミロングと、切れ長でグレーがかった瞳が印象的な女子が座っていた。こっちは、前に会った時と同じだ。
「増田さんも、久しぶり」
「うん。雪村くん、変わりない?」
「おかげさまで」
「そっか、よかった」
言って、増田さんはゆったりと微笑み、輪切りのレモンが浮かべられた炭酸水みたいな飲み物を、一口飲んだ。
「それ、レモンサワーってやつ?」と俺が聞くと、増田さんは虚を突かれたような表情をしてから、「そうだよ」と小さく笑ってグラスを揺らした。続けて、「雪村くんはお酒飲んだことないんだっけ」と首を傾げられたので、頷いて答えようとした俺の目の前に、黄金色の液体が入ったグラスが、左からぬっと差し出された。
「お前の分、もう用意しといてやったぞ。あ、空きっ腹はまずいから、適当に食ってからにしろよ」
「へー、そういうもんか」
「あ、じゃあ、この唐揚げ食べる? 塩味だよ」
「ありがと、もらう」
増田さんが手で示した唐揚げをつまんで、口に放り込む。うまい。もぐもぐと咀嚼しながら、颯から手渡されたビールを受け取る。
ふと視線を走らせると、米沢さんと楽しそうに会話している樋口が視界に入った。
俺につられて横を向いたらしき増田さんが、「樋口くん、ちょっとビックリするぐらいイケメンだよね」と僅かに苦笑して言うと、反応した樋口がこちら側を向いた。
俺の方に、視線が向けられた。
「雪村、くん」
が、微妙に目が合ってない感じがする。そりゃそうか。
「あー、樋口……昼の学校ぶり、だな」
嫌な胸騒ぎを覚え、俺は衝動的に、手元のビールを口に含んだ。
嚥下する。
思わず「にがっ!」とこぼせば、颯が「だろうな!」と愉快そうな声を出して、肩を組んできた。罪悪感を抱く隙もないくらい、あっけないものだった。なんだか肩透かしを食らった気分になる。
颯は、俺が来る前にそれなりの酒を摂取していたのか、「まー、慣れるって!」と言いながら、いつにもまして距離感近く顔を寄せてくる。う、ちょっと、酒臭いかも。
最早くっつきそうなぐらい近づいてくる颯の横っ面を、遠慮なく手のひらで押し返していると、斜め前から感じていた視線が消えた。見ると、樋口は、増田さんも加えた3人で会話を再開したようだった。俺は眼中になしってか。
……いや、まあ、心の準備はしてたはずだけど。
樋口久遠という男は本当に、むしろ俺が想像していた以上に、俺のことが嫌いだったんだなあ。
グラスに並々と注がれていたビールを一気飲みして、滲んだ視界が疎ましかったから乱暴に目をこすって、頭を上げたら、せっかく視線がかみ合ったのに、また目を逸らされる。
「雪村?」
立ち上がって出ていった樋口の後ろ姿を眺めながら、1年前のあの日、この後ろ姿を見つけなければ、素通りしていれば、こんなことにはならなかったのに、なんて、感傷的になって。
「ゆーきーむーらー?」
「……えっ?」
耳元で名前を呼ばれて、ハッと我に返る。左手で押しやってたはずの頬の感触がなくなってる、と思ったら、今度はすぐそばに米沢さんの顔があり、思わず「うわっ!?」と素っ頓狂な声を出してのけぞった。
「『うわっ』、とはなんだ。『うわっ』、とは」
「まあまあ、よねちゃん。そりゃ、急に後ろから回り込まれて至近距離から覗き込まれてたら、誰でも『うわっ』の1つや2つや17つくらい出るよ」
「まーちゃん、どっから17持ってきた?」
米沢さんは呆れたように肩をすくめ、俺と颯の間に強引に割り込んで、赤みが強いオレンジ色の液体が入ったグラスをテーブルに置いた。酒と思わしきそれは、グラスの半分くらいまで飲まれている。
一方、外側へと追いやられた颯は、肩組みを外された形のまま固定された腕をぶんぶんと振り、「割り込み禁止だぞお、よねざわあ」と怪しい呂律で抗議を繰り返していた。が、米沢さんに横から軽く押されると、そのまま座敷の上にこてんと上半身を倒した。
……う、動かなくなった? 恐る恐る耳を澄ましてみると、規則正しい呼吸音が聞こえてくる。
「……え? 寝た? 嘘だろ?」
「颯はあれだね、ダル絡み始めたと思ったら、すーぐ眠くなるタイプ。まあ、心配せずとも、帰る前に叩き起こしてやれば大丈夫だよ」
「そ、そっか……」
酒って、なんかすごいな。普段なら、手で物理的に口ふさいでもベラベラ喋り続けるのに、こいつ。何となく同情的な気分になっていると、米沢さんは「よいしょ」と呟いて俺の左隣に腰を下ろした。颯の席、完全に取られたなあ。
「雪村、大丈夫? さっき上の空っぽかったけど。気分悪かったら言いなよ」
心配そうに俺の顔色を窺う米沢さんの瞳は、これまた酒の効果なのか、どことなく潤んでいるように見えた。俺が「だいじょぶ、だと思う」と返すと、米沢さんは真面目な顔つきになったのち、「なにそれー?」と気が抜けたように破顔した。コロコロと変わる表情が面白い。
何気なく視線を下げると、米沢さんがまるで包み込むかのように、グラスに両手を添えているのが目に入った。「これ」と指をさす。
「なんていうお酒?」
「あ、これ? これはねえ、カシオレ。カシスオレンジ。甘酸っぱくて美味しいから、あたし、好きなんだ」
「へー」
「私、そういえば、よねちゃんがカシオレ以外頼んでるの、見たことないかも」
「いやいや。まーちゃんだって、いっつもレモンサワーばっかじゃん?」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
やいのやいのと会話を始めた女子2人の声をBGMに、カシオレとやらをぼんやり眺める。こういう、可愛い系の酒もあるんだなあ。酒に可愛い系とかいうんだっけ? 知らないけど。というか、改めてみるとこの色。
「米沢さんの髪色と、ちょっと似てるなあ」
「へっ!?」
……あれ? やば、声に出てた?
BGMがピタリと止み、米沢さんと増田さん、両者の視線が俺に向いた。まずいことを言ったのかも、と変な汗が出てくる。焦りながら、「ごめん、他意はなくて、ほんとに似てるなと思ってだけで……」と弁解すると、米沢さんは「いや、うん……」とぎこちなく笑みを作って、俯いた。
冷や汗をかきながら、正面に座っている増田さんに、アイコンタクトで「まずいですか?」と審判を投げかけてみたが、肯定も否定もされず、曖昧に首を傾げられただけだった。その、意味深な微笑を、やめていただきたい。
「……ゆ、雪村さあ」
「えっ、はい何でしょう」
黙ってうつむいたまま、米沢さんは両手でグラスをぐるぐると回し続けてる。ま、回すとおいしくなるのか? 妙に緊張して次の言葉を待っていると、目の前にずいっとグラスが差し出された。あれ、デジャヴ。
「た、試しに飲んでみなよ。ジュースみたいで、飲みやすいからさ」
「え、うん」
おすすめしたくて、迷ってたってことか? まあ、味の好みって人によってマジでそれぞれだし、食べ物系は勧めにくいよな。わかるわかる。多少、強引に納得した気もするが、問題ないだろう。
素直に受け取り、グラスを口元に運んでいざ傾けようとしたところで、米沢さんの様子を見て、動きが止まる。
顔が、というか何なら、耳まで赤い。酒を飲むと顔が赤くなるというのは本当だったのか。いや、にしても赤すぎないか? もしや米沢さんのほうが具合悪いんじゃ?
「あの、米沢さん、顔赤いけど……」
「へっ!? あ、ううん、大丈夫だから!」
「でも……」
「だ、大丈夫、大丈夫だって! だから、その、の、飲んでみてよっ! いいから! 早く! 飲んで! いますぐ!」
「なんでそこまで頑なに!?」
戸惑いを隠せない俺の耳に、「ぶはっ!」と堪えていた何かを吹き出すような音が聞こえた。
反射的に音がした方を向くと、増田さんが爆笑していた。普段の増田さんからは想像できないほど、これ以上ないくらい、腹を抱えて笑い転げていた。
え、怖い。なに。そんで、なんで米沢さんは「飲め」っていう無言の圧をやめないの。
混沌とした状況から脱出するため、一縷の望みをかけて、奥の方にいる颯の方に顔を向ける。くそっ、寝てる! 増田さんがこんなに馬鹿笑いしてんのに!
……あれ、なんだ? 颯の向こう側に人影が……え、まさか、うるさいって苦情きた!? いやだ! 怒られたくない!
「ま、増田さん、いったん、一旦落ち着いて……」
「雪村くん!」
「あ?」
騒音の発信源をなだめようとしてると、突如として、俺の手の中からカシオレが消えた。
消えた? 違う、取られた。上から伸びてきた手によって。ぽかんとした表情の米沢さんが、上を見ている。俺も見上げる。
そこには、俺のカシオレを持った樋口が立っていた。
「…………樋口?」
「雪村くん、これ! お水もらってきたから、飲んで!」
素早い動作で俺の側に膝をついた樋口が、カシオレを失って空想上のグラスを握っていた俺の右手に、すぽっと新たなグラスをはめ込んだ。中身は、まごうことなき水である。
「……樋口が? 俺のために? 水を?」
「チェイサーとも言うよ。樋口くん、結構前からそれ持って立ってたのに、一向にこっちにこないんだから。イケメンの不審者って需要あるのかな?」
「雪村くん、ほら、飲める?」
「あはっ! 無視されたあ!」
増田さんがなんか辛辣なこと言って、また一人でゲラりだした。もう放置でいいか。米沢さんは米沢さんで、樋口のことをめちゃくちゃ睨んでるし。颯は起きない。そして樋口はしきりに水をすすめてくる。
しょうがないから、俺は手元の水を一気に飲み干した。ぷはっと息を吐いて、綺麗な顔の男をじっと見つめる。
全然逸らされない。それどころか、瞳の奥を覗き込むように顔を寄せてきたかと思えば、「大丈夫?」と優しく声をかけてきて、頬をそっと撫でられる。畜生、思わせぶりなことすんな、イケメンめ。
俺は知ってんだぞ。
「お前、俺のこと嫌いなんだろ」
「…………え!? だ、誰が誰を……」
「久遠っ、てめーこのやろー! ゆーだけゆって通話切りやがって! 性悪男があ!」
「ええっ!?」
やっと意識を取り戻したらしい颯が、活舌悪く樋口を罵った。いいぞ、もっとやれ! と、思ったら、また寝息が聞こえてきた。この場にまともなやつは誰もいないのか、俺含め。
「ま、待ってよ! こっちが喋ってる途中で通話を切ったのは、むしろ颯くんで……」
「俺と一緒の空間にいるのも無理なら、帰れよ」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。樋口がゆっくりと目を見開く。
傷ついたってか? ふざけるな。もとはといえば、お前が、お前がな。
「お前が、手を振り返すから、悪いんだ」
一度は収まったはずの涙腺がまた緩んできて、俺は意味もなくうめいた。みじめだ。すごく。
ぼうっとした意識の中で、米沢さんのドスを利かせた声と、増田さんの至極冷静な声と、樋口が何かを言い募る声が、遠くから聞こえてくる。仲がよさそうで羨ましい。ため息をついて、どうすれば涙が止まるのだろうかと考える。ああ、まずは、グラスを置かなきゃ。
だが、グラスとテーブルの距離感を計りかねたのか、水滴を垂らしたグラスは座敷の上に転がっていった。延長線上にいた颯がおもむろに身を起こし、グラスを拾い上げる。米沢さんと樋口の体越しに、「帰ろうか?」と問われる。俺は、「そうする」と呟いた。
立ち上がった拍子に、少しよろけた俺を、しかし、樋口が支えた。
「雪村くん、待ってってば」
「迷惑かけて悪かったな。もう関わらない」
「聞いてよ、俺が言ったのは……」
「十分だ。帰る」
「だからっ!」
ふいに、両頬が体温の高い手に包まれた。自然と視線が上がる。吸い込まれそうなダークブラウンの瞳が、頼りなさげに揺れていた。
「雪村くんと一緒の空間なんて、その、緊張しすぎて無理だってこと!」
「俺のメンタルをズタボロにするのがそんなに楽しいのか?」
「曲解しないで! なんで伝わらないの!?」
「なんでかって?」
思わず、笑みがこぼれる。
「俺が、酔ってたからだろうな、ずっと。お前に、こいし……っ」
中途半端なところで、頭がフラッときて姿勢が崩れる。
よりにもよって前のめりに倒れて、樋口の肩に俺の額が乗った。最悪、最悪。力を振り絞り、樋口の両肩に手を置いて、体を離そうとしたら、肘を伸ばしたタイミングで、樋口の両手が俺の両手を掬い取った。指と指が丁寧に絡められる。……いま、この繋ぎ方を、するか?
「雪村くん、酔いすぎ。ていうかだめでしょ、飲んだら」
「は、なんでお前の許可が……」
「未成年飲酒」
心の奥底で怯えていた単語を、樋口が困ったように囁いた。
体がこわばる。「なんで」と蚊の鳴くような声で呟くと、「雪村くんの誕生日は、8月30日でしょ?」と樋口がいとも簡単に言った。ますます混乱する。だって。
「俺、大学入ってから、誰にも誕生日言ったことないんだけど」
「そこはほら。俺って人脈づくりが大得意だから?」
そういう問題か? と思ったが、自分だけに向けられた照れ隠しの笑みを見てると、さらに頭がぼんやりして、正常な判断ができなくなってしまう。これでは、あまりにも、分が悪すぎる。
汗ばんだ手を、こわごわと握り返す。
せめてもの抵抗で、俺は口を開いた。
「これからは、俺の情報は、直接、俺に聞け」
俺も樋口に聞きたいことが、たくさんあるから。




