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短編集  作者: さんぱく
7/7

ヤンキーと強気*

『傷ついた分だけ不可解な今』

「ありがとう」

 間髪入れずに振りかざされた拳が、俺の左頬に勢いよくめり込んだ。

 熱いんだか痛いんだか、とにかく馬鹿みたいに強烈な衝撃を喰らった俺は、右半身から派手に地面に転がった。

 口には徐々に血の味が広がり、鉄の臭いがツンと鼻の奥をぬけて、瞬きするたび、俺の意志に反してぼろぼろ流れる涙が頬を伝っていく。

 クソ、クソ、クソッ。最悪だ。てかちょっとぐらい躊躇しろよ、こちとら一般生徒だぞ!?ヤンキーの矜持とかねえのかよねえんだろうなクソッ!

 頭の中で思いつく限りの悪態をつきながら、上半身を起こした。手の甲で雑に涙を拭う俺を、件の男、穂高敦美(ほだかあつみ)は、鬱陶しそうに見下ろしていた。

 穂高敦美。容姿自体は黒髪黒目でさして目を引く色合いでもないのに、そのスタイルの良さと端正な顔立ち、それに切れ長の双眸から放たれる鋭い眼光が相まって、彼の周りには、常に威圧的なオーラが漂う。

 まして、今し方暴力を振るったばかりの目の前の穂高からは、一介の高校生とは到底思えない、凄まじい迫力を感じる。

 肝心な暴力の内訳としては、まず、遅刻回避のために裏路地を使ったショートカットを試みた俺と姫野(ひめの)に、すれ違いざま、千鳥足で肩をぶつけ、酒臭い息とともに暴言を吐いて絡んできた大学生らしきチンピラに背後から蹴りを一発。

 ぶっ倒れて逆上しかけたチンピラが、穂高のガン飛ばしと舌打ちと次の打撃を加えるべく上げられた足にビビり散らかして、「覚えてろよ!」などとチンピラらしいセリフを残しつつ、俺たちを押しのけて裏路地から逃げ帰ったのち、助けてくれた穂高に対して「ありがとう」と礼を言った俺の頬に拳を一発。以上。後者が理不尽すぎて笑えてくる。否、笑えない。普通に痛いし腹立つ。

「……え?いま、一条(いちじょう)殴られたの?え?」

 横目でチンピラの後ろ姿を追っていたらしい姫野は、打撃音と同時にこちらに向き直ったようで、そのまま俺と穂高との不自然な構図を無言で眺め続けた挙句、状況を理解したのか、慌てた様子で俺のそばにしゃがみ込んだ。

 姫野の柔らかそうな猫っ毛の茶髪がすぐそばに迫り、印象的な丸目は驚きと混乱でぱちぱちとしきりに瞬きを繰り返しながら、俺の顔を、正確には俺の殴られた左頬を凝視した。間近で見ても、やはり女子に間違えられても不思議ではないほど、可愛いベクトルに顔が整っている。いわゆる「可愛い系男子」の具現化。

「うわぁ、腫れてる、痛そう。一条なにしたの、僕が見てない間に挑発したの?中指でも立てた?自発的?え、まって、もしかしてマゾ?興奮してたりする?僕、そういうの生理的に無理かもぉ」

 ただし中身は可愛くない。誰がマゾだこの野郎。

「っやめろ馬鹿、負傷部を指で突くな、てっ、いてぇっ!」

「これ青あざになるんじゃない?だいぶやられたね、学校着いたら保健室で冷やしたほうがいいよ」

「だから突くなって!そんなことしてる暇あるなら肩貸せよ!?」

「うん、いいよぉ」

 間延びした返事が妙に癪に障る。とはいえ、姫野は案外素直に俺の片腕を自分の肩に回してくれたので、ありがたく体重をかけさせてもらう。「重い」とかぶつくさ文句言うな、お前が非力なだけだろ。

 至近距離で言い合いをしつつ、何とか立ち上がると、意外にも、穂高は依然としてその場にとどまっていた。眉間に深い皺を寄せて、俺を睨みつけながら。

 不可抗力で蛇に睨まれた蛙のごとく硬直していると、やがて飽きたのか、険しい顔をデフォルトの無表情に戻した奴は、踵を返してさっさと立ち去っていった。緊張の糸が切れて危うくへたり込みそうになった俺の体を、姫野が支えた。そして、耳元で大きなため息。

「聞き間違いだったらあれだけどさぁ……一条、穂高君にお礼言った?だからブチギレられたの?…………沈黙は肯定と取るからね、あほ一条」

 再び大袈裟なため息をついて、「あの噂って本当だったんだ。意味不明」と半ば呆れ気味に呟く姫野に、俺は何も返せなかった。


「あっ、君が一条朋也(ともや)君!?その湿布ってまさか穂高に殴られたとこ!?穂高敦美の地雷は『ありがとう』って噂、本当だったの?ヤクザに絡まれて殺されかけたところを救ってくれて号泣しながら感謝したらぶん殴られたって本当!?」

「うるさい声でかい誰だお前」

 あと地味に誇張されてるのムカつくな。

 昼休みの教室、都合よく席が前後だった姫野と適当に駄弁っていたところ、全く見覚えのない、黒縁メガネをかけた男子生徒が突如視界に入ってきたと思えば、爛々と輝く目で矢継ぎ早に喋りかけてくるものだから、俺はひどく辟易した。

 さらに、そいつは、俺が露骨に苛立った声色で切り返したにも関わらず、大して気分を害したそぶりもなく軽い調子のまま「あ、初対面だから名乗らなきゃだったな、ごめんごめん。俺、C組の清水蒼(しみずあお)。よろしく!」などといけしゃあしゃあと宣り、空いていた俺の隣の席の椅子を引いて腰を下ろす始末。こいつメンタル強いタイプか、クソ厄介。

「はじめまして、清水君。ところで、もう少し声量を下げてもらうことって可能かな?」

 げんなりと閉口した俺の代わりに、姫野が穏やかな表情でもう一度、声のデカさを指摘した。すると、今度こそ調整したボリュームでメガネこと清水は平謝りして、そして、改めて頭を上げた先で姫野を2度見した。呆気に取られたようにポカンと開いた口から、「可愛い……」との呟き。まぁ、初見は大抵そうなる。

 当の姫野自身は、「そりゃどうも。姫野柚月(ゆづき)です、よろしくぅ」と手を緩く振って愛想をばら撒くことで、容姿称賛を簡単に受け流した。

「で、この嫌そうにしてる素朴な顔の少年が、まさしく渦中の一条朋也クン。今朝、穂高君の地雷踏んでパンチされて、頬に青あざつくったばっかり」

 振っていた手をくるりと回転させた姫野が、手のひらで俺を示せば、清水は好奇心を丸出しにして小刻みに頷いた。

「……てか、どこから話が広まったんだよ。道中で同じ制服なんて見かけなかったぞ」

「まぁ、大方、影から現場を覗いてたり、保健室で事情を話してるときに居合わせたりした生徒がいたんじゃない?穂高君って、だだでさえ入学当初から存在感強かったんだし、彼に関するゴシップならあっという間に広まってもおかしくないよ」

「ゴシップって響きが腹立つ。それにヤクザだの号泣だのは盛りすぎ」

「……え、てことはやっぱり、噂自体はマジだったってこと?」

「『ありがとう』でブチギレられたのは確かっぽいよぉ」

 「ねー」と同意を求められるが、黙秘。なぜなら、噂が確定することで際限なく尾ひれがつき、より信憑性のない過激なものになったら、収拾がつかなくなる可能性があるから。ついでに私情もある。

 だが、ここでも無言は肯定に変換され、感慨深げに「一条は見かけによらずチャレンジャーだな」と肩に手を置かれたので、すぐさま「馴れ馴れしいんだよ」とはたき落とした。

 その続きで、何も噂の検証のために礼を言ったわけじゃなくて前回言えなかった分も含めて自己満足のために感謝しただけだ、とまでは口にしなかったし、するつもりもなかった。   

「何にせよ、災難だったな。同情するよ」

「そういえば、清水君ってソレを確かめるだけのために、わざわざ他クラスに乗り込んで来て面識ない僕らに不躾な尋問したの?野次馬根性がたくましいね」

 明確な毒が込められた姫野の言葉に、清水がフリーズした。これもまぁ、初見なら大抵こうなる。

 だけど一応、俺の場合は例外で、むしろこの口の悪さを披露されたことによって、こいつに心を開けたまである。

 入学して新学期が始まった頃、愛嬌とコミュニケーション能力を備えて人懐っこく振る舞う姫野を、俺は無意識のうちに、自分の弟の姿と重ねてしまって、どうしようもない苦手意識をもっていた。1つ歳下で、俺よりも人に愛される才能があって、俺を踏み台にして悪びれなく周囲に甘える弟から、高校生になったこの春、せめて学校においては解放されたと思っていた矢先のことだった。

 姫野曰く、クラス内で自分にだけ過剰に媚びへつらう態度をとる俺が大層気に食わなかったがために、半ばヤケになって俺の前でだけ猫被りを解いて、好き勝手に嫌味をぶつけた結果、引くどころか安堵した様子さえ見せた俺に、彼のほうが逆にドン引いたらしい。

 俺にとっては、それがたまたま、「弟とは違う人間なのだ」という安心材料に繋がったにすぎない。一方で、一般的にはそれが、「可愛い顔で毒舌」というショッキングなギャップであることも理解できる。そう、たとえば今、放心の末に「ビビったわ……野次馬でごめん……」とだけ絞り出した清水の反応が如く。謝罪に対してにこやかな笑みを返す姫野は、それはそれは満足げであった。

「……でもさ、噂が本当だったところで、穂高敦美の解像度は全然上がらないよな。登校してきても無表情で授業受けるだけで、気づけばいなくなってるってケースが多いらしいぞ。完全な不登校ってわけではないみたいだけど、かといって、まともに会話した生徒の話とかも聞かないしな……」

 「情報が足りないっていうか……」と思案げにぼやいた清水は、視線を下に落として顎に手を当て、考え込む様子を見せた。もうこのまま放置でいいかな、と斜め後ろの姫野に向き直ろうとした途端、しかし突然、「あっ!」と短い声が上がった。いちいちうるさい。

「情報で思い出した!俺のクラスに情報通の山田って友達がいるんだけどさ、そいつが、友達の知り合いのいとこから聞いた話らしいんだけど」

 死ぬほど又聞きじゃねぇか。

「そのいとこっていうのが、穂高と小学校が同じだったらしくて……」

 流暢に話していた清水が、言葉に詰まるそぶりを覗かせる。焦らすような間に耐えかねて、「早く言え」と早口で催促した。姫野の方から突き刺さる視線は無視する。

「……詳しくは分からないけど、なんか、端的に言うと、家庭環境とか学校の人間関係とかで、複雑なトラブルみたいなのが、色々あったっぽい」

「……へー。つまり、アレ?実は悪役にも悲しい過去があって、かわいそうだから全部許せちゃうよねぇってやつ?僕、そういう類いは好みじゃないなぁ」

 やけに棘のある言い方をするな、と思って姫野を見れば、剣呑な瞳とかち合った。

 僅かに眉根を寄せた姫野が、俺の左頬に手を伸ばす。そうして、今朝、そこに貼られたばかりの湿布に触れるか触れないかの距離で動きを止めてから、消え入るように、「普通にイカれてるよ、彼」と低く唸った。数秒遅れてそれが自分を思った発言だと気がつき、居た堪れない気持ちになる。

 対して、姫野の視線を追った清水が「あっ、いやっ、そうだよな!変に庇うつもりじゃなかったんだ、ごめん、悪かった!」などとコミカルに慌てふためいて目を泳がせたのは、少し愉快だった。

「そうじゃなくて、えっと、なんていうかな。よくさ、『傷ついた分だけ優しくなれる』って聞くだろ?自分自身が辛い経験をした分だけ、人の痛みがよくわかるからって文脈で。だから、穂高もそれに当てはまってもいいはずなのに、なんでよりにもよって真逆の暴力的な性格になったんだろうなって思ったんだ」

 「そんだけ」と肩をすくめて釈明を終えた清水に、俺はつい、

「やさしいって、なんだ」

 余計な一言を言った。

 後悔したが声に乗せた時点で手遅れだ。先に反応したのは姫野で、長い睫毛を上下に動かして何度も瞬きをし、「はぁ?なにそれ、哲学?」と言って小首を傾げた。俺が同じ仕草したら軽く事故だな。なんて現実逃避していたのも束の間、清水までもが、「やさしい、か……」とかほざいた上で、真面目くさって考え出した。またもや顎に手を当てている。癖か。

 そうこうして、俺たち3人の間には、昼食や談笑を楽しむ周囲のクラスメイトたちの喧騒からは孤立した、小さな沈黙空間が誕生した。けれど、早々に嫌気が差したらしき姫野が、がさごそと自分の鞄を漁りだしたことで、すぐに瓦解する。取り出されたのは、ラムネ。ビンを模した青い半透明の容器に入ったやつ。確か、食べると頭がよくなるんだっけか。

 未だにひとり頭を捻っている清水は放置して、姫野が自分の手の平にカラカラとラムネを落としたのに倣って、俺も姫野の机に手の平を乗せた。一瞥されたのを合図に、無言で少しずつ容器が傾けられていく。まぁどうせ途中で止める気だろうな、こいつ滅多に菓子分けてくれないし。止まったら手の甲にチョップ入れてやろ。

 だが、結果として計画を実行する手間は省けた。俺の隣から発された「あっ!?」という奇声にビビった姫野が、驚きで体を揺らしてしまい、手元がぶれた拍子に、数粒のラムネが俺の手の中に転がり落ちてきたためである。奪われる前に口の中に放り込んで噛み砕く。うまい。

「てっ、点と点が線で繋がった!」

「……ねぇ、急に大声出すのやめてくれる?清水クンは学習しないの?そのわざとらしい閃き顔もイラつくんだけど?」

「聞いてくれ!」

 姫野による私怨混じりの罵倒と睨みをものともせず、たったいま世紀の大発見をしたとばかりに興奮する清水は、勢いづいて話し始める。

「やさしいと聞いて、俺はまず人格者を連想した。続いて浮かんだのが、在校生の間で眉目秀麗かつ博愛主義だと評判な、我が高校の生徒会長。ほら、入学式でスピーチしてただろ?あの人だよ。でも俺、集会でしか見かけたことないし、とりあえずシュッとしたイケメンだったのは覚えてるけど名前が思い出せなくて、なに生徒会長だったかなーって頑張って記憶たどってたどって、で、やっと思い出した!」

 ずずいっと、こちらに向かって前のめりになる体。

「穂高!穂高和美(かずみ)生徒会長だよ!」

 ……あ?

「ほだかって……」

「そう!あの穂高!ヤンキー穂高の2つ上の兄が、穂高生徒会長なんだよ!……うわまって、しかもそうだ、前に山田も言ってたわ!正反対な穂高兄弟っつって!でもちょうどその時、3年の屈強な強面先輩が通りかかって、『会長にとって迷惑な話を流布させるな』って釘刺されてさ。しかも舌打ち付きでだぞ?完全なトラウマだわ。んで、強制打ち切り。あー、そうか……だから今の今まで、兄弟情報と一緒くたにして記憶の彼方に封印してたんだわ……いやぁ、ガチであの先輩怖くてさー、目もガンギマリっていうか」

 いつの間にか別の方向へとシフトしていった冗長な喋りが、右から左へと流れていく。穂高和美、兄、同じ高校、生徒会長。断片的なキーワードが頭の中をぐるぐると巡る。

 姫野に肩を叩かれて我に返り、5限の予鈴とともに、清水がけたたましい音を立てて椅子を引き去って行くまでの間、加えて授業が開始したあとでも、俺は、連鎖的に浮かんできた回想に気を取られ続けた。それから、なるべく意識せずにいた左頬が、呼応するかのように鈍い痛みを訴え始めたのも、俺の気を散らすもうひとつの要因となった。


 俺が以前、穂高に助けられたときのこと。

 中学3年の夏休みで、奇しくも、現在通っている高校の学校見学にきた日。一通りのカリキュラムや施設の説明を聞き終わって、体験授業にも参加し終えた頃には、体がだるく、度を超えた暑さと制服だらけの人混みに疲れ切ってしまっていた。

 これから駅まで歩いて地下鉄に乗る体力はとても残っておらず、持参した水筒でちびちびと水分補給をしながら歩き、人気が少ない中庭の端っこ、ちょうど校舎の影になっているところを見つけた。そして、同様に休息を取っているらしき長身の男子生徒からは、十分な距離を取りつつ、真似るように地面に腰を下ろした。のが、失敗だった。

「……え、来てたんだ」

「ん……?誰?知ってる人?」

「いやいや、ウチらと同じクラスじゃん?悠也(ゆうや)君の……」

「あー!はいはい!存在感なさすぎて忘れてたわ」

「ちょ、やめなってー!」

 最初は囁き声、次第に遠慮のない声量に。仲間との絆を重んじて、その構成員以外は人間と見なさないやつらが、後者に対してよくとる態度。あまりにもありふれたことだ。だだ、その時はいかんせん、俺の心の余裕がなかった。

 項垂れていた頭を持ち上げる。会話の内容通り、俺と同じ中学の制服を着た生徒たちが、遠巻きに俺を眺めていた。偶然通りかかったのだろうか。運が悪い。とはいえ、この場から逃げようにも、重い体をうまく動かせる自信がない。だから、飽きるのを待つしかない。苛立ちだけが募る。

「兄弟なのに、ここまで違うんだね」

「まぁ顔は似てるっちゃ似てるけど、ねぇ?」

「むしろ下手に似てるだけ、劣化版ってのが際立つっていうか?」

「やだっ、ひどーい!」

「事実だろ。能力しかり、コミュ力しかり」

「あはは!全然取り柄ねぇ!かわいそ!」

「あーあ、でもほんとさ……」

 ふいに、ボスポジションに立っていた野郎が、芝居がかった身振りをして間を置く。締めに入ると思われた。長かった。でも、まぁ、これで解放されるなら、

「いちばん可哀想なのは」

 なんでもいいや。

「こんな不出来な兄弟を持った悠也く、っぅひ!?」

 けれど瞬間、俺のごく間近で、というか真上から、ドンッ!!と何かを強く殴りつける音が響いて、反射的に首をすくめて。情けない叫び声をあげながら、我先に逃げていったやつらが釘付けになっていたのも、やはり俺の頭上付近で。

 恐る恐る見上げた先に。壁に拳を当てた、制服姿の、息を呑むほど綺麗な顔立ちの少年がいた。しかも、わかりやすく不機嫌な雰囲気を纏っている。

 これは、一体。……さっき見た男子生徒?いつの間に近づいてたんだ、背たけぇかっけぇ、いや、てか壁殴った?なんかあいつらがいた場所睨んでるし、え、まさか、威嚇して追い払ってくれた?助けられた?なんで……?

 自分でも滑稽なぐらい狼狽えていたと思う。そうやって、俺が口を開けては閉じるという無意味な行為を繰り返しているうちに、その人物は緩慢な動作で体勢を立て直して、真正面から俺を見下ろした。無表情の美形という威圧感の塊に、ますます頭が回らなくなる。が、その表情は咄嗟に、苦虫を噛み潰したような、ひどく人間らしいものに変化して、次いで、おもむろに開かれた口から「間違えた」とだけ短く発された。

 ワンテンポ遅れてから、俺が「間違えた……?」と躊躇いがちにオウム返しすると、無言でこくりと頷かれる。その後、「知らねぇやつらだった」「殴ってから気づいた」「あいつの信者どもかと思った」「いつものきめぇ煽り」などと、切れ切れの独白が続いて、それが途切れたのを合図に「要は、自分の陰口を叩かれてるかと思ったら違くて、間違えて威嚇したってこと?」と問えば、首肯された。

 ……なんだか拍子抜けした。衝動的というか、短気な性格なのだろうか、この人は。胸のうちにぼんやりと抱いていたヒーロー像が、瞬く間にヤンキー像へとすり替わって行くのを感じた。

 けれど、結果として助けられたのは事実だ。一応、礼を伝えるために、まず立ちあがろうとすると、何気なく手が差し伸べられた。

「まぁ、間違えてよかった」

 素直に手を重ねて引っ張り上げられる間、幾分か柔らかい口調の呟きが、俺の耳朶を打った。

 地面を足で踏みしめて、彼を仰ぎ見る。そして、俺を見据えた彼は、途方もなく不器用に、俺に笑いかけた。

「うぜぇ、よな」

 その一言で、その表情で。

 俺の胸には、骨の髄まで救われるような、痛痒くて全身を掻きむしりたくなるような、そんな、曖昧で煩雑で矛盾した、不可解な激情が押し寄せた。

 結局、俺が意識を取り戻した頃には、その人は既に姿を消していて、それ以来、一縷の望みを原動力にして、この高校に合格して。そうして知れた「穂高敦美」という名前は、しかし同時に、得体の知れない噂にがんじがらめになった状態で吹聴されているものだった。


 穂高に殴られてから数週間が経過したある日、廊下ですれ違った担任に教材運びを押し付けられた俺は、指示された教室を探して彷徨った挙句、自分の現在位置がわからなくなり、1人で立ち尽くすはめになっていた。学校で迷子とか。いや、担任の指示が適当だったのが悪いのであって、決して俺は方向音痴などではない。断じて。

 そう自分に言い聞かせつつ、仕方がないから通りがかった生徒か先生にでも道を聞こう、と嘆息する。壁に寄りかかって、ぼーっと人を待つ。やがて、教材を抱えている腕が若干痺れてきて、やっぱり自力で探してみるかなと考え直したとき、ようやく前方から人影が見えた。安堵して壁から背を離す。

 しかし、いざ相手の容姿を認識できる距離になったところで、言葉を失った。

「……あれ。君、1年生?こんなところで何をしているんだい」

 黒目黒髪は同じで、だけど目つきはそれほどキツくなく、全体的な顔立ちも、綺麗というよりは柔和な印象を与える。整った容姿であることは変わりないのに、特有の威圧感よりも親しみやすさが勝つような。一方で、その隙のない雰囲気が、一種の無機質さを感じさせるような。

 とはいえ、やはり、似ていた。

「……穂高和美、生徒会長、ですか」

「お。俺のことを知っていてくれたのか。嬉しいな」

 そう言って、穂高の兄である生徒会長は笑った。作り笑いとは思えないほどの説得力があるそれを、俺はなぜか、薄ら寒く感じた。 

「それで、君はここで何を?」

「……先生から教材を運ぶように言われたんですけど、肝心の教室がわからなくて」

「あぁ、なるほど。教室名は?」

 聞かれるままに答えれば、知らぬ間に顔を覗き込まれていたらしく、穂高と同じ色をした瞳と目が合った。思わず顔を背ければ、「緊張しなくても大丈夫だよ」と心底楽しそうに含み笑いをされる。教室への道を説明したあと、生徒会長は「口頭の説明だけだとまた迷ってしまうかも知れないから」との理由をつけて、俺を先導するように歩き出した。

「そういえば、君の名前はなんていうのかな」

「……1年A組の一条です」

「一条君か。1年生だったら、まだ学校の施設を把握できていなくて当たり前だな。俺がたまたま通りがかってよかったよ」

 それに対して小さく会釈を返すと、少し間を空けてから、「本当に」と何オクターブか低くなった声で付け足された。

 できることなら聞き流してやりたかったけれど、根っこに長年培われた服従精神があるがために、俺の口からは、「助かりました、ありがとうございます」と感謝の言葉が勝手に転がり出た。すると予想通り、食い気味に「いいんだ、大したことじゃない」と弾むような声色で返されたので、俺はひっそりと奥歯を噛み締めた。

 以降も、生徒会長が学校生活のアドバイスや効率の良い勉強法などを澱みなく俺に教授し、それに対して、俺が相槌と同等の頻度で礼を言う、という定型化されたやりとりが、目的地に着くまでに何度となく繰り返された。

 賜った話の内容なんて、瑣末なものだ。なぜなら、生徒会長である彼にとって重要なのは、ただひとつ、「出会ったばかりの後輩にさえ尊敬され、感謝され、慕われる自分」という理想像だけなのだから。だからこそ、「ありがとうございます」を一度でも欠そうとすると、意識的に声を低くして念を押し、俺の「間違い」を間接的に指摘するのだった。それも、どこまでもさりげなく。恐らく、ある程度の過剰な猜疑心をもっていない限りは、気づかないほど。

 だからといって、穂高はこの人を反面教師にした、なんて単純化できないことは、経験上から身に染みてわかっている。それでも俺は、穂高の兄は紛れもなくこの人なのだと納得せずにはいられなかった。

「……さぁ、着いた。ここだよ」

 件の教室の前で立ち止まり、上機嫌に微笑まれる。これで最後なのだと思うと、「案内して下さってありがとうございました、生徒会長」という一言は、存外、心に従ったかたちで出てきた。

 両手が教材で塞がっている俺の代わりに、教室の扉を開けようとした生徒会長の手が、ふいにピタリと動きを止める。

「……嫌な記憶を思い出させてしまったらすまない。だが、これは君を心配して言うんだが」

 自身の左頬をトントンッと軽く指で叩いて、彼は言った。

「その湿布の下にあるであろう痛々しいあざは、誰につけられたんだい」

 思いきり舌打ちしてやりたい気分だった。

「……いえ、些細な喧嘩の際にできてしまっただけで、相手にも悪気があったわけでないので。大丈夫です」

「……君が心優しい生徒なのは十分に伝わった。けれど、無理に庇う必要はないんだ。君のためにも、……その相手のためにも。正直に言ってしまうと、俺の耳にもあの妙な噂は届いているんだよ。だから、ね。心配せずとも、俺は理解のある人間だと自負している。寛大に対処すると誓うよ」

「すみません、でも本当に何ともないんです。あざもほぼ黄色くなって目立たなくなってきたし、この湿布も一応貼ってるだけで、今日にでもやめようと思っていましたし。とにかく、生徒会長の心配には及ばないんです。ご心配、どうもありがとうございます」

「一条君。わかってほしい、遠慮なんてしないでくれ。そうだ、その生徒会長呼びもやめてくれよ。もっと気軽に、穂高先輩とでも……」

 残念ながら、先に限界を迎えたのは俺の方だった。

「いえ、お断りします。俺にとっての穂高は、生徒会長のほうではないので」

 何を意味するのか、すぐには理解できなかったらしい。完璧な微笑みを讃えたまま静止して、徐々に目が光を失っていって、排他的な雰囲気を纏って。

「……なるほど」

 侮蔑を微塵も隠そうとしない底冷えした声で呟き、生徒会長は速やかにその場を後にしていった。

 眼前の開けられないまま放置された教室の扉は、俺が彼の「博愛」対象から除外されたことを、如実に表していた。


 あぁもうどうしてこうも同じ日に面倒な出来事が連続するんだよ、俺が何をしたって言うんだクソッ!

「おい聞いてんのかァ!?忘れたとは言わせねぇぞ、このガキィ!!」

 事の始まりはこうだ。幸運にも担任の気まぐれで授業がいつもより早く切り上げられ、他生徒の集団に揉まれず帰れることに足取りが軽くなっていた俺は、束の間、いつしかの裏路地の入り口に差し掛かったところで、突然、横から首根っこを引っ掴まれた。そして、抵抗する暇もなく路地に引き摺り込まれた俺は、現在、見覚えのありすぎる若いチンピラに恫喝されていた。

「黙ってんじゃねぇぞ!!なんとか言えや!!」

 掴まれたままの襟首を支点にして体が壁に押し付けられる。喋れったって、どうせお前、俺が何か言った瞬間に殴りかかるつもりだろうが。クソ外道。

 もし仮に2対1だったらどうにか撒けたかもしれないが、あいにく、一緒に帰路についていた姫野はついさっき、学校に忘れ物を取りに引き返したばかりだった。こんなことになると知っていたら死ぬ気で引き留めたのに。

 さらに分が悪いことに、今回のチンピラは完全なシラフらしく、判断力が鈍っていない分だけ、報復と称した暴力行為をまともに受ければ、致命的な傷を負わされると予想できた。つーかそもそも報復ってなんだ、元はと言えばテメェが酩酊状態でぶつかってきていちゃもんつけてきたのが発端だろふざけんなよクズ。

 実際に口に出したら半狂乱になってボコボコにされそうなことを頭の片隅で考えつつ、次に通行人がきたら大声をあげようと決めて視線を横にずらすと、チンピラの青筋がひとつ増えた。やべ、しくった。

「よそ見たぁいい度胸だな……いっぺん痛い目見ねぇとわかんねぇみたいだなァ!?」

 胸ぐらをグンッと掴み直され、息苦しさを感じたかと思えば前に引っ張られ、拳を握った奴が斜め後ろに振りかぶる。目の前の現実がスローモーションになり、殴られたら痛くて嫌だな、とぼんやり思って、俺はなすすべなく目を閉じ、

「あーっ!」

 ようとした。

「……あぁ?」

 俺の顔に激突する寸前、俺が引き摺り込まれたのとは反対側の通路から場違いに明るい声が響き渡り、チンピラは気を削がれた様子で、その拳を止めた。思わずホッとして声のした方向を見る。と、再び体が硬直した。収まったはずの冷や汗が背中を伝う。

 軽快な足音を立てて駆け寄ってきたそいつは、人懐っこい笑顔で俺たちを見比べた。

「よかったねぇ、(とら)君!やっと兄ちゃんに会えたんだ!」

「……ったく、悠也ァ。お前タイミング悪すぎんだろ」

「えぇっ!?僕、ふたりの邪魔しちゃった!?」

 俺よりも少し目が大きくて、少し鼻が高くて、そういう少しが積み重なって、俺よりも圧倒的に人好きする容姿に恵まれた弟、悠也は、両手を顔の前で合わせて「ごめんねぇ」といかにも申し訳なさそうにチンピラに謝って、虎君と呼ばれたチンピラも、満更でもなさそうに頰を緩めて乱入者の頭を撫でた。

「……な、んで」

「んー?」

 掠れた声で呟いた俺に、見慣れた顔が振り向く。ちらりとチンピラ一瞥して、俺と似た声質が、「えっとねぇ」と至極のんびりした口調で話し始める。

「この前、僕が学校帰りにここを通りかかったときにね、虎君がいきなり僕に怒鳴ってきたんだ」

「あのときはすまなかったなァ、悠也」

「ううん、気にしないで!だって、そのおかげで超かっこいい虎君と友達になれたんだもん!あ、でねでね、僕、びっくりして固まっちゃって、代わりに一緒にいた友達が事情聞いてくれて、あ、今日は僕ひとりで帰ってたんだけど、それで、よく話を聞いてみたら、僕と兄ちゃんを勘違いしてるんじゃん!ってなって!」

「おう。今にして思えば、この冴えない地味モブ顔と悠也を見間違えたのが不思議で仕方ないぜ」

「誰にだって間違いはあるよぉ。それにほら、こうやって兄ちゃんに会えたんだし、結果オーライじゃん!」

「だな。けどなァ、悠也。お前はちょっばかしちょっとばかし席を外さなきゃなんないぜ?なんたって、俺は今からこいつに報復すんだからな」

 こいつ、という部分で、悠也に向き合ったまま、チンピラは親指で背後の俺を指した。呆然と棒立ちしていた俺は、ここでようやく我に返り、踵を返すために片足を一歩下げて後ろを向こうとして、

「兄ちゃん?」

 腕を掴まれた。「あ……」としゃがれ声をこぼした俺に、悠也は咎める表情をして、「悪いことしちゃったんだから、しょうがないでしょ?」と常識を説くように言い放った。頭が、どんどん、回らなくなる。

「あのね、虎君。僕、こう見えてサスペンス映画とか結構好きでね、だから、暴力描写?とかにも耐性あるから、大丈夫だよ!」

「本当かァ?なら今度、ウチで鑑賞会して確かめてやらねぇとなァ」

「わーい!行く行く!」

「よし。んじゃ、すぐ終わらせっから、俺の後ろに隠れてな。危ねぇから顔出すんじゃねぇぞ?」

「はぁい!」

 俺が殴られるのを前提に、彼らだけの世界で着々と話が進んでいく。

 この、頭が鈍くなる感じ。口論や対話といった次元ではない。同じ土俵にすら立てない。通じないのだ、根本的に。何度も何度も体験してきた感覚。あいつが絡むと、いつもこうなる。

「歯ァくいしばれよ、雑魚が」

 振り翳される拳。激しい動悸と裏腹に、諦念と無力感に苛まれた体では、咄嗟に受け身を取ることすらできない。殴られるのか。このまま。でも、どうしようもないのか。そう、どうしようもない。

 だが、振り下ろされる直前、切れ長の瞳が脳裏をよぎって。

 俺は、「うぜぇ」と思った。

「一条っ、しゃがんで!!」

 背後からの叫びに、体が反射的に従った。直後、激しい打撲音とともに前方から呻き声が上がって、よろめきつつ立ち上がった俺に、倒れてきたチンピラが覆い被りそうになったが、後ろから誰かが俺の肩を抱え、力尽くで下がらせてくれたので、事なきを得た。

 カラン、と音を立てて地面に転がったのは、柄が折れたほうき。

「ち、近くの家から、借りてきたんだ……ギリギリだけど、間に合って、よかった……」

 息も絶え絶えになった姫野が隣に並んで、ほうきを指さす。聞けば、忘れ物を取りに行く途中、道行く人々が「裏路地で不良が大人しそうな高校生相手に因縁をつけている」とに噂しているのを耳にして、もしやと思って引き返してきたのだという。ちなみに、被害者が俺かどうかに関係なく突撃するつもりだったらしい。

 そこでふと、背中の体温に意識が向く。話の流れからして、姫野がチンピラの脳天をぶっ叩いたのかと思っていたが、だとしたら位置関係がおかしい。姫野が横に立っているのを確認してから、ぐるりと首を回す。

 無表情の穂高が、じっと俺を見ていた。

「……やっぱ穂高ってヒーロー気質?」

「は?きめぇ」

 無愛想に吐き捨てて、顔を歪める穂高。交番に人を呼びに行ってくれた姫野を待つ間、背中を預け切った状態で、「お前が俺を殴ったのって、俺が『ありがとう』って言ったからなの?」と尋ねた。

 足元のチンピラは、呼吸はしているものの意識は失っているように見える。一方で、チンピラを盾にしていたはず悠也は、騒動に紛れてとっとと裏路地を抜けたらしかった。

 それから、交番へと駆けていく直前、悠也を静かに観察していた様子の姫野が、俺からの礼にひとつ頷いたあと、いっそ清々しいほどわざとらしく、「ねぇ一条、あのレベルの顔面偏差値の奴を僕と重ねてたとか嘘でしょ?ありえないよ」と的外れな暴言を吐いてくれたことは、記憶に新しい。ぶっちゃけ、かなり嬉しかった。

 そうやって、状況を頭の中で整理する目的もかねて様々なことに思いを馳せていると、頭上から「わからない」と声が降ってきた。

「……お前は俺と同じだと思ってた。クソみたいな兄弟がいて、クソみたいに屈折して。初めてだった。意味わかんねぇ感情が湧いて、学校でお前を見かけたらまたそれが湧いた。次にお前を見たのはここだった。クソ酔っ払いがムカついたから蹴っただけなのに、お前は礼を言った。俺が無意識に感謝を強要するような態度をとってたからだと思った。あいつみたいに。同じ血だから。他の奴にはガンつければ収まったけど、お前だけはダメだった。俺と同じお前に、あいつと同じことをしたんだと思ったら、目の前が真っ暗になって、お前を殴ってた」

 論理関係がめちゃくちゃで、もはや説明とも言えないような、長い告白だった。けれど、俺にとってはそれほど不可解なものではなかった。ただそれが、俺と穂高が「同じ」ゆえなのか、もしくは、単に3回も助けられたことで情が湧いて、不健全なフィルターがかかっているためなのかは、定かではない。

 ふいに、左頬に手が伸ばされて、湿布をぺりりと許可なく剥がされた。視界の端で白い正方形がぐしゃりと握りつぶされるのが見え、次いで、同じ手の指先で、ほんの一瞬、触れる程度に頬を撫でられる。

「悪かった。ごめん。ごめんなさい」

 ぽつりぽつりと平坦な調子で重ねられる謝罪が、どうしてこうも、俺の心を掻き乱すのか。

「殴るべきじゃなかった。自分を殴るべきだった。今さっきお前の代わりに殴られるべきだった。謝って済むと思ってない。何でもする」

「……じゃあ、とりあえず、抵抗しないで受け入れて欲しいんだけど」

 肩に乗せられていた腕を解く。対峙した穂高は、平坦な口調からは想像できなかったほど、苦しそうな顔をしていた。きっと、これが本来の表情なのだと思う。

 ゆっくりと息を吸う。

「助けてくれてありがとう、穂高」

 言い切ってからバッと腕で顔を覆う。が、懸念していた衝撃はなかった。内心、結構びくつきながら様子を伺ったが、特段変化なし。そうして、苦い顔の穂高が、必死に絞り出すようにして、「あぁ」と答えた。

「……やればできんじゃん」

「根性で耐えただけ。腹は立ってる」

「……それでいいんだよ。ちょっとずつで」

 とりあえず、文脈を意識させるところから始めるべきだろうか。時間ならたっぷりある。でもその前に、言質とっておきたい。

「穂高」

「あ?」

「俺さ、これから穂高に積極的に付き纏うつもりなんだけど、いい?俺たぶん、穂高のこと好きだわ」

 ギュギュッと限界まで顰められる形のいい眉を眺めながら、「何でもするって言っただろ」と念を押してみる。拒否されたら拒否されたで、もう関わるのはやめようと思った。ただし、視界に入らない範囲では付き纏うと思うけど。

「……アツ」

「は?」

「穂高じゃなくて、アツって呼べ」

「……なにがどうやって飛躍したんだ。由来は?」

「アツミ、カズミ。だから、アツ」

 ……あぁ、そういうことか。

「じゃあ、俺のことはトモって呼んでよ。トモヤ、ユウヤ、だから」

 そう言うと、きょとんとした顔をしていた穂高ことアツは、「トモ」と小さく口にして、続けざま、照れを押し殺しながら「今後ともよろしく、アツ」と言った俺に、初めて自然な笑みを見せた。

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