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短編集  作者: さんぱく
6/7

真面目と不良*

『鈍感なきみ』

 頭上から降り注ぐ陽光を片手で遮る。本格的な夏は終わったとはいえ、日差しはいまだに刺すような暴力性を秘めていた。この時期に屋上へ来たのは失敗だったか。熱を吸収する黒の制服を、今すぐかなぐり捨てたい気分になった。

 今にして思えば、そうやって訳もなく突っ立ってさえいなければ、僕は彼と出会わなかったのかもしれない。


「……とべ」


 ふいに背後から、扉の耳障りな開閉音が聞こえた。

 振り返った先にいたのは典型的な不良生徒だった。明るい金髪、着崩した制服、派手な装身具の数々。それらは全て、校則で禁じられているものだったはずだ。不良は何も言わず、ただ呆気に取られたような表情をしていた。僕の方も、無言で不良を見つめ続ける。

 破られる気配のない沈黙に嫌気が差してきた頃、ようやく相手が動きを見せた。不良は横を一瞥したかと思うと、入り口の隣に設置されている何らかの大型機械へと歩み寄って、器用によじ登り出す。ついぞ頂上に辿り着いた彼は、そこに我が物顔で腰を下ろした。満足げな顔には汗が滲んでいた。

 僕の両目は、そういった不良の一連の流れを惰性で追い続けていたが、上からの視線と絡んだことで、弾かれたように我に返った。だが僕が目を逸らすよりも早く、不良はこちらを見据えたまま、大胆不敵と形容するにふさわしい笑みを浮かべ、


「とべ!」


 と叫んだ。

 ……なんだこいつ。無反応の僕に、声が届かなかったとでも思ったのか、再び上から間髪を入れずに「とべ!」と発せられる。僕を見下ろす三白眼。まるで挑発するかの如くオーバーに広げられた両腕。さらに、追い討ちをかけるように何度も何度も「とべ」が降ってくる。

 呆れ果てた僕は、ついに我慢ならず、踵を返して校舎の中に戻った。なら、よかったのに。

 大学受験に向けて常に酷使されるのに慣れていた僕の頭は、こんな時でさえ、望んでもいないのに回転を始めていた。人気のない屋上という状況と、「とべ」イコール「飛べ」の変換結果、それに、僕がここにやって来る原動力となった自暴自棄な気持ちも掛け合わされた末に、弾き出されたひとつの結論。


「……君は、僕がここから飛び降りるさまを見物したいのか」


 告げた途端、奴はじわじわと目を見開いた。

 「図星だな」と確信したのと同時に、全身の血がカッと沸騰して。僕は衝動に逆らえず、素早く奴に背を向けるや否や、さびついたフェンスへと突進していった。

 走馬灯じみたものが断片的に眼前へ現れる。試験の度に成績表をせびる親、大学の偏差値と比例する志望度しか認めない塾、陽気な生徒たちを見て「学のない馬鹿ども」と嘲笑したのち、僕を見て「社会不適合のガリ勉」と冷笑するクラスメイトたち。

 他人にとってはきっと些細なことで、僕だけが苦しんでいるわけじゃなくて、世の中には僕なんかよりも不幸な人はたくさんいる。あるいは、こういう悩みは十代にありがちな思春期特有の鋭さに由来するものにすぎず、いつかは必ず落ち着くのだから、深く気にするべきではない、とか。そんなことで流す涙がもったいないとか、はたまた、多様性の時代なのだから寛容になって、自分のことだけに集中しなさい、とか。

 検索エンジンに放り込んだ本音に答えてくれるはずのそれらの言説は、けれども次第に、僕の心を死なせていった。

 だがそれでも、そのまま心地よいメランコリーに浸ってさえいれば、まだよかった。「この一連の流れも若者にありがちな失望なのだろうな」と意識してしまったのが運の尽きで、首の皮一枚で繋がっていた何かが、恐らく、アイデンティティか自尊心みたいなものが、プツリと音を立てて切れてしまった。今朝の出来事だった。

 フェンスの網目が認識できるほど近づいていく。屋上に来たからといって、当初は本当に実行するつもりはなかったのだけど。もしこうなると知っていたなら、感傷的な置き手紙でも残してみたかった。いや、それだってありがちだな。ところで、どうして僕は「ありがち」を気にするのだろう。「自分は特別な存在でありたい」という願望の裏返しか。だとすれば、そんなのは、あまりにも――。

 無理矢理に思考を打ち切って、苦く笑った。僕は最後まで、このグルグルと生産性のないことを考えてしまう性質を変えられなかったらしい。仮に来世があるなら、そうだな、次はもっと。

 鈍感な人間になりたい。


「——待てっつってるだろっ、戸部大雅とべたいが!」

「……うっ!?」


 なになになに!? 息が苦しい! 死ぬ! やめろ放せ僕の襟から手を放せ!

 目を白黒させながら一息で捲し立てれば、首元の圧迫感がなくなって呼吸が楽になった。が、束の間、つんのめってコンクリートの地面に衝突しかけ、その直前で後ろから伸ばされた腕に抱えられた。

 ぎこちなく首を回すと、例の不良だった。

 抱え続けるにはさすがに無理があったのか、不良は腕の中から僕を解放し、雑に地面に放ってから、自身の額の汗をこれまた雑に拭って、微妙な面持ちでぱかりと口を開いた。 


「お前、特進クラスの戸部大雅だろ? 戸部。俺、前に窓の外から見たけどさ、お前ってアホみたいに高くジャンプするよな。あの、なんつったっけ、体育の棒のやつで。だから俺、お前が跳ぶとこもっかい近くで見てみたくてよ、わざわざ待ち構えてやってたのに、お前、よくわかんねえこと言って急に走り出すじゃん。怖かったわあ」


 やれやれと言わんばかりに肩をすくめる不良。急速に頭の熱が引いていくのを感じる。頼りない手つきで胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出し、『「とべ、とべ」=「戸部、ここまで跳んでみろ」』という方程式を書き付け、「こうか?」と不良の前に掲げてやると、奴は「だから最初からそう言ってんだろ」と心底呆れた口調で言い放った。


「なんだよお前、俺の学年の首席なんだろ? てことはめちゃくちゃ頭いいんだよな? それとも秀才ってのは一周回って馬鹿になるのか?」


 色々と言ってやりたいことは山積みだったが、彼のそのどこまでも澄み切った瞳で顔を覗き込まれたことで、悔しいことに、僕は毒気を抜かれてしまった。

 心臓の早鐘がなかなか鳴り止まないのは、単なる体力不足のせいだと思いたかった。だって、人から久々に褒められて嬉しくなっただなんて、あまりにも惨めじゃないか。

 とはいえ実際、僕の視界にはほんの少し、薄い水膜

が張っていた気がする。


***


 その後、日差しの強さに耐えかねた僕たちは、屋上につながる階段の踊り場付近へと退避した。

 腕時計に目をやると、もうすぐ昼休みが終わりそうな時間だった。今日は夏休み明けで最初の模試だから、途中放棄するのはまずい。だけど。と、二の足を踏んでいると、すでに悠然と階段に腰掛けていた不良が、片手でいじっているスマホからふいに目を離して僕を見上げ、「座らねえの?」とぶっきらぼうに言った。


「す、座る」

「そ」


 反射的に頷いてしまった。だが不良はそれ以上会話を続けようとせず、興味なさげに一音だけ呟いて、再びスマホへと視線を戻す。僕は彼の斜め後ろに腰を下ろした。

 数秒後、午後の授業開始を伝えるチャイムが鳴った。それは、二年半の高校生活においてすっかり耳馴染みのものになった響きだったけれど、こうやって教室以外の場所から聞く機会はほとんどなかったので、普段の何倍も新鮮に感じた。今頃クラスでは模試の続きが始まっているのだろう。紙を捲る音とシャープペンシルを走らせる音が場を支配するあの教室に、僕の空席のみがぽつりと存在するのをぼんやり想像する。

 何気なく視線をずらすと、思いがけず不良と目が合った。不良はぱちりと瞬きをしてから、


「戸部お前、ぼっちだろ。可哀想だな」


 脈絡もなく言葉の刃を突きつけてきた。

 何か言い返そうと思うのに、唇がわなないてうまくいかない。不良は僕から目を逸らさないまま、片眉を少しだけ釣り上げる。ああ、どうしよう。何か、なんでもいいから、声を。早く。何を言われても傷つかない人間なのだと認定されてしまう、その前に。


「……ば、ばかに、」

「俺もハブられててぼっちなんだわ」

「……え?」


 ……唐突になんだ。予想外の発言に遮られ、頭が真っ白になった僕を気にすることなく、不良は自分の話を展開する。


「んだっけ、ノンデリつったっけ? 俺がソレだから愛想尽かしたんだとよ。思ったこと言って何が悪いんだか。大体あいつらだって俺と似たようなもんだろ、何がちげえんだよ。まじうぜえ」


 苛立たしげに吐き捨てて、痛みぎみの金髪をがしがしと掻く不良。僕はそんな様子を前にしても、正直なところ、「だろうな」という冷めた感想しか浮かばず、彼の告白に対して、これといった親近感も同情心も抱けなかった。

 けれど。


「……それはひどいな」

「あ?」

「今まで仲が良かったのに、些細なことがきっかけで手のひらを返して嫌ってきたんだろ? 一対多で、それに自分たちの振る舞いは棚に上げて。それって、ひどいじゃないか」


 僕が君の立場だったら、きっと同じように腹を立てるよ。

 苦笑しながら言い切ると、胸の奥に仄暗い満足感が広がった。本音は隠しながらもセオリー通りに対応できた、という満足感だった。不良は先程までの険しい表情を崩し、無防備な雰囲気で不思議そうな顔をしていた。僕は彼からの反応をじっと待った。


「……お前、やっぱ意味不明だな。お前が俺の立場になるとか無理だろ、俺の体でも乗っ取るつもりか? つか大体、お前、あいつらと話したことあんの? 面と向かったこともねえくせに、よくもまあそうペラペラと妄想できるもんだな」


 てかその顔なんだよ? 鳥肌立つんだけど。

 思考の停止。放心状態の僕を横目に階段から立ち上がった不良は、億劫な様子で階下へと向かい出す。彼の背を眺めること暫く。ふいに意識を取り戻した僕は、不良の言葉を反芻するにつれ、顔に熱が集まっていくを感じ、恥ずかしさのあまりに消えたくなった。

 僕は今、何をした? 勝手に妄想して、勝手に共感を期待されていると勘違いして、勝手に嘯いた挙句に「セオリー通りに対応できた」と自己陶酔して?

 顔から火が出そうだった。いてもたってもいられなくなった。消えられないなら、せめて気を紛らわせたかった。そのためには無様な弁解がちょうどいいだろうと判断した。慌てきった拙い足取りで階段を駆け降りていくが、当の不良はすでに下の階に着いていて、今にも角へと姿を消そうとしていた。とても焦った。

 ので、僕は残りの数段をジャンプで下った。


「待て!……っぐ……!」


 ダンッ、と地面に着地した途端、両足の裏からびりびりとした痺れが這い上がってくる。僕が俯いたまま唸り声を漏らしてそれに耐えていると、ふと、頭上から短い吹き出し笑いが降ってきた。勢いよく顔を上げれば、


「ははっ! やっと俺のとこに跳んできたな、戸部!」


 上機嫌に大笑いしている、同学年の青年の無骨な手によって、頭頂部の髪をぐしゃぐしゃと乱された。

 いまだに足の痺れは治らなくて、きっとそのせいで引き起こされている不整脈が煩わしくて、笑いかけてくる青年から、どうにも目が離せなくて。離したくなくて。クラクラするのを我慢しながら、僕はかろうじて青年に名前を尋ね、そうして、目の前で不自然な煌めきを溢れさせる金髪の彼は、「朝霧龍生あさぎりりゅうせい」とだけ口にした。

*** 

 結局、朝霧は僕の髪を好き勝手に荒らすだけ荒らして、あっさりとその場から立ち去っていった。残された僕は、どこか夢見心地で自分の頭に手を乗せつつ、背後にあった階段に腰掛け、体ごと斜めに傾けて、白い壁にもたれかかった。

 あさぎり、りゅうせい。口の中で曖昧に転がした名前は声には乗らず、代わりに、たゆたいながら自分の中心部へと溶けていった。

 瞼を閉じてしばらくすると、人肌温度の紺碧の液体に、長い時間をかけて沈んでいくような感覚が訪れる。そういう時は大抵、液体の上では、真っ暗な空にぽっかりと歪な形の月が浮いているはずだったが、今回ばかりは場違いにも、まんまるな太陽が、我が物顔で夜空の大半を陣取っていた。


***


「あ、見て。今日もどっか行くんだ」

「あれってさ、昼休みにまで教室こもって勉強してる俺たちへの当てつけだよな?」

「性格終わってんな。勉強だけできてもアレじゃ、社会に出たら苦労するだろうなあ」

「言えてる、明らかに人生詰んでるよな」


 ——どうして彼らは、僕を同じ人間として見てくれないのだろう。

 昼食のパンを抱えている手に汗が滲んで、少しでも気を抜けば足がもつれて転びそうになる。進行方向に視線をやった。彼らもこちらを見ていた。悲鳴と歓声の中間のようなものが、その集団から小さく上がった。苦しい。歯を食いしばって俯く。早足で教室のドアを目指した。

 けれど、出口まであと一歩のところで肘をドア枠にぶつけてしまい、手からパンが滑り落ちた。拾うために床にしゃがみ込んだ。だが、僕よりも先に誰かの手が伸びる。


「はい、戸部君。肘、大丈夫だった?」


 集団の構成員だった女子生徒が、微笑んでパンを差し出してきた。

 心臓が軋む音。

 礼を言って受け取ると、周囲にいた彼女の仲間たちが弾んだ声でガヤを入れ始める。さすがシイナ、尊敬する、ねえ固まってるよ、シイナに惚れたんじゃね、あはは、あり得るから怖いわ。項垂れている僕の耳にも、きちんと届くよう配慮された声量だった。

 なぜ。脳内がその二文字で埋め尽くされ、無力感に苛まれて、グルグルと思考が巡り続ける。

 終わりのない言葉が渦巻く感覚は、随分と久しいものだった。そういえば、以前これに飲み込まれたのはいつだっけ。……そうか、あの時だ。屋上でフェンスに向かって走っていった時。やけになって飛び降りようとして、辿り着く前に止められて、後ろを振り返って、それで、呆れた口調で言われたんだ。なんだっけ。そう、確か、

 ——お前、よくわかんねえこと言って急に走り出すじゃん。怖かったわあ。

 再生された無愛想なセリフが、いまこの瞬間、妙に腑に落ちた。


「……戸部君、どうしたの?」

「え? だんまり決め込む気?」


 ああ、なるほど。目の前の人々と自分自身に対して問い続ける必要など、僕にはないのだ。仮ごしらえの「答え」をつくる努力もいらない。


「ほんとにシイナ好きになっちゃった?」

「やだっ、縁起でもないこと言わないで!」


 だってそれは、たぶん。

 僕には「よくわからないこと」なのだから。


「……戸部君? なんか言ったら……あ、」


 膝を伸ばして立ち上がり、背後から追いかけてくる声には反応せず、今度こそ、教室のドアを通って廊下へと出た。

 あとはひたすらに階段を上る。上る、上る。次第に息が上がる。それから期待が膨らむ。体格が良くてぶっきらぼうで猫気質の気まぐれな彼は、今日は屋上に来ているだろうか。一緒に時間を過ごせるだろうか。

 呼吸を整えることさえ忘れ、無我夢中でノブをひねって扉に体重をかけた。


「朝霧!」

「……なんだ。いねえと思ったら来たのかよ、戸部」


 朝霧は意地悪っぽく口の端を吊り上げた。高鳴る鼓動。なんだか、彼と会う時はいつも脈拍が安定しない。

 フェンスを背もたれにし、片膝を立てて座っていた朝霧は、僕が近づくと気持ちよさそうに大きく伸びをした。本当に猫みたいな仕草だな、と思わず頬が緩み、誤魔化すように口元を片手で覆いつつ、僕は朝霧の隣で崩れた体育座りをした。パンの袋を左右に引っ張って開けると、小気味いい音が響いた。


「……朝霧」

「あ?」

「わからないからこそ、わかることってあるんだな」

「……は?」


 普通に矛盾してるだろ、それ。馬鹿か?

 眉間に寄った皺とポカンと開いた口。次の瞬間、どうしてだか僕はたまらなくなって、鋭い歯がのぞく大きな口に、衝動的に自分の食料を突きつけた。そうして齧られた一口は想像以上に豪快で、やっぱり僕はたまらなくなって、暫くの間、くすぐったい気持ちで笑い転げ続けた。


***


 段々と減っていた蝉の鳴き声は、ついぞ耳にすることがなくなって。屋外で身動きするたびにまとわりついてきた暑苦しさも、今ではすっかり控えめになり、比較的涼しい気候の中で、日没時間も早まっていく。

 季節は秋を迎えていた。


「髪、いつの間に切ったんだよ」


 昼休みの屋上、いつもの定位置に並んで座って空を眺めていると、ふいに、前髪を二本指で摘まれた。覗き込んでくる朝霧の顔が思っていたよりも近くて、咄嗟に距離を取ろうとした。が、無言の圧で阻まれる。口をもごつかせながら、やっとのことで「先週、切った」と言えば、へえ、とも、ふうん、ともつかない気の抜けた返事をされた。

 質問には答えたはずなのに、しかし、鼻と鼻がくっつきそうなほどの至近距離は、依然として改められる気配がない。少し前の僕なら無理矢理にでも離れただろう。朝霧の近くにいると、運動した直後でもないのに心臓の音がうるさくて敵わないから。けれど今では、朝霧のそばを離れるのが惜しいという気持ちのほうが勝って、すんでのところで踏み止まれるようになった。とはいえ、やはり、この早鐘にはいつまで経っても慣れない。いつか明確な原因が判明するといいのだけれど。


「……へ、変?」

「あ? ……髪か? 別に。野暮ったかったし、ちょうどいいんじゃねえの。お前の顔もよく見えるし。それよりお前さ……、」


 ようやく身を引いてくれた朝霧は、彼にしては珍しく逡巡する様子見せたのち、


「今日の午前、校庭でお前にべったりくっついてた女いただろ。長髪で、大人しそうな。誰だあいつ」


 と、幾分か不機嫌になった声色で続けた。


「校庭?……あ」


 挙げられたキーワードを頼りに記憶をたどると、確かに心当たりがあった。


「体育の終わりにクラスの女子に話しかけられたな。それのことか?」

「……お前の腕に絡みついてただろ、そいつ」

「そうだっけ」

「そうだ」


 あまり身に覚えがなくて目を瞬かせたが、すぐさま念を押すように低く唸られた。

 朝霧が先ほど並べた特徴は、数ヶ月前に教室で僕のパンを拾い上げた女子生徒と一致して、実際に今日接触してきたのも同一人物だから、彼女だと捉えてほぼ間違いないだろう。

 思い返してみれば、相手のパーソナルスペースはやたらと狭かった気がする。「放課後に校庭の同じ場所で待機していてほしい」というのが用件だったらしいが、耳打ちしてきた後もなぜかあとについてきて、一方的な視線を熱心に僕の顔に注いでくるものだから、ひどく居心地が悪かった。

 回想したせいで、意図せず当時の苦々しい心境に引きずられかけていると、ふと微かな笑い声が耳朶を打ち、肩に腕が回される。もう片方の手を僕の頭に乗せ、「すげえ嫌そうな顔」と呟く朝霧には、先刻までの疎ましげな雰囲気は完全になくなっていた。高めの体温があたたかい。ふいに、会話の中での疑問がぽっかりと頭に浮かぶ。


「それにしても、朝霧はどこから僕たちを見ていたんだ? 辺りの木陰にでもいたのか」

「……あ? ああ。こっから見下ろしてたらお前が目に入ったんだよ」


 そう言って、朝霧は僕の頭から手をどけて、校庭に面しているフェンスを指差した。


「屋上からか、気づかなかった。視力がいいんだな」


 納得して頷き、再び斜め上を見れば、彼の瞳の中に自分が映り込んでいた。かと思えば、「別に。お前だったからだろ」と早口で言われ、ふいっと目が逸らされた。投げられた返答をゆっくりと咀嚼し、僕はまた、小さく頷く。


「僕も朝霧のことだったら、どんなに遠くからでも見つけられる気がする」

「ハッ、そりゃあ俺の髪色は目立つもんな」

「いや。仮に君が校則通りの格好をしていても、見つけられるよ」


 意外そうに見開かれた双眸が、もう一度、僕の姿を捉える。


「最初は朝霧の言う通り、君が金髪だから眩しく見えるのだと思ってた。でも違った。君自体が眩しいんだ。だから、君を見つけるなんて造作もないよ。意識しなくてもそうなのに、まして、変な話だけど、僕は日頃、暇なときには朝霧のことを考えがちだから、きっと誰よりも先に、君、を……」


 言葉が強制的に途切れさせられる。やや頬を紅潮させた朝霧が、片手で僕の口を塞いでいた。


「……恥ずかしいこと言ってんじゃねえよ」

「……あ」


 じわり、と顔が熱くなるのがわかった。つい感情的になって長々と話してしまったが、いざ冷静になると、得体の知れない羞恥心が湧いてくる。


「ごっ、ごめん。思ってたことが、そのまま口に……じ、自分でも、なんで朝霧にだけこんな現象が起こるのかわからなくて、でも、君がどこにいて見つけられるってのは、嘘じゃ、なくて……」


 朝霧の手の下で声をこもらせながら言葉を重ねたが、途中から、むしろドツボにはまりつつあるように感じ、最終的に失速していく。朝霧も朝霧で、神妙な面持ちで何かを考えているようだった。

 奇妙な沈黙が落ちる。


「…………戸部」

「あ、うん」

「例えばの話だぞ。いいか、お前のことじゃない。例え話だ。……例えば、だな。ある奴が、俺にあからさまな特定の感情を抱いてて、俺もそいつに同じ感情を抱いていたとする。俺はそれを自覚してるが、そいつはてんで無自覚だ。……その場合、お前ならそいつにどんな対応をするんだ?」

「……やけに抽象的だな。特定の感情って何なんだ? せめてもう少し具体的に、」

「いいから!」

「っわ、わかった! わかったから、これ以上は近づかないでくれ!」


 むやみに顔を寄せてくる朝霧から逃げるようにのけ反りつつ、要領を得ない質問の意味を必死に考えた。互いに抱く可能性がある、特定の感情? 嫌悪とか、あるいは親しみの類いだろうか。なんにしろ、相手と朝霧に共通の感情ならば、無自覚の相手にも気づいてもらったほうが双方の利益になりそうだ。片方だけが自覚的では、釣り合いが取れずに摩擦を生むだろうから。

 しかし、あの朝霧がこれほど回りくどい聞き方をするぐらいだから、事態の解決はさほど容易ではないのかもしれない。ありのまま直接話して相手に確認するのは鬼門とみた。と、なると。


「……僕だったら、相手が自分で気づくのを待つかな。それとなく働きかけたりしながら。もし本当にどうしようもなくなったら、その時はとりあえず、朝霧は朝霧の気持ちに従って行動すればいいと思う。もちろん、相手を尊重した範囲内でだけど」

「…………そうか」


 独り言のような諦念まじりの呟き。やはり朝霧にとって難しい問題なのだろう。いつになく悩ましげな横顔をぼんやりと見つめる。が、突然、「よし」という謎の決意に満ちた掛け声が降ってきたかと思うと、回されていた腕に力が込められ、するとあろうことか、勢いあまって首を絞められた。


「え、あ、あさぎり、」

「そうだな、お前が気づくまで気長に待ってやるか。俺から言うのもやっぱちげえし」

「え? なんの話? てかそれより、首、首……!」


 結局、決意に浸りきっていた朝霧が彼の腕を引っ剥がそうとして懸命にもがく僕に気づくまでには、かなりの時間を要したのだった。


***


 通常の授業に加え、受験本番に向けた補講も終了する頃には、太陽は西へと傾き、大半の生徒はすでに下校し終えている。

 一方で僕はといえば、夕日に照らされた校庭にて、件の女子生徒と向かい合っていた。


「急に呼び出してごめんね。あの、その、伝えたいことがあったから……」


 永久にも思える長い沈黙を経た末に、女子生徒はそう言って上目遣いで僕を伺う。応えるために首を軽く横に振ると、瞬間、落ち着きなさげな雰囲気は一変し、彼女は教室で仲間と話しているときの姿勢になったので、僕は密かに「失敗した」と悟った。

 そこからは、女子生徒の独壇場だった。

 「戸部君の彼女になってあげる」という一言を皮切りに、僕が自分に惚れているのは知っていたとか、その根拠はこれとあれだとか、顔に関しては大いに許容範囲内だったとか。とにかく、そういった「よくわからないこと」を飽きることなく喋り続けていた。

 右から左へとすり抜けていく声に退屈し、何となしにそばに植えられていた木を見上げると、一羽の鳥がとまっていた。暫し観察してから、視線をさらに移動させる。校舎を眺めて、正門を見遣って。さまよった果てに、正面に戻って真っ直ぐ上を見ると。

 フェンスから身を乗り出して、こちらを注視する男がいた。

 心臓がどくりと脈打つのとほぼ同時に、僕は、男の口が二パターンの動きを繰り返しているのに気が付いた。

 ——とべ。

 タイミングを見計らったとしか思えない鳥が、翼を広げてばさりと空に羽ばたくのが視界の端に映った。その途端、僕の胸の内に芽生えたのは。

 激しい激しい、嫉妬だった。

 ——ああ! 僕にはどうして翼がないのだろう!


「……べくん、戸部君!? ねえ聞いてる、」

「ごめん、どうでもいい!」


 いつの間にか肩に乗せられていた手を払いのけて、一目散に校舎の階段へと駆けていく。一分一秒が惜しかった。屋上に近づくほどに鼓動が速くなっていく。当然だ。あそこには朝霧がいるのだから。なんだ、単純な理由だったじゃないか。

 ノブが回って扉が開く。飛び出した僕を、彼がしっかりと受け止めてくれた。


「おい、よかったのかよ? あいつ、」

「朝霧、僕、いま、告白されたんだ」

「あ? おいまて、お前に恋人なんて俺が、」

「やっと気づいたんだ!」


 腕の中で朝霧を見上げる。ああ、本当に、どうして今まで気づかなかったのだろう。

 大きく息を吸う。


「僕は君が好きだ、朝霧!」


 肺を空っぽにする勢いで叫ぶと、赤く、柔らかい夕陽に染め上げられた朝霧は、深々とため息をついて、そして、笑った。


「戸部、お前さ。肝心なところで鈍いんだよ」


 あたたかい手が、僕の頭を乱暴に一撫でした。


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