10 結婚 ③
新しく住む家は、決して広い豪邸ではなかった。どちらかというと庶民的だったし、その家にダランの学長が住んでいるなどとは誰も想像できないような家だった。
シーナは特段期待を抱いていたわけではなかったが、イールスに連れられてやってきて最初に「意外だ」と感じたことは事実だった。
玄関に入って、向かって右手側に下駄箱があった。マンションやその他の場所でも靴を脱がなかったシーナにとっては新鮮だった。
「どうして靴を脱ぐの? ハルセロナの方だったらわかるけど」
「アールベストでも時々あるんだ、こういう家。だって、床が泥まみれになったら掃除が大変だろ?」
イールスは靴を脱ぎながら笑って答えた。シーナも真似してショートブーツを脱いだ。
左手側にある階段を登ろうとはせずに、イールスは一階奥のリビングに彼女を案内した。入ってすぐ右手側の部屋は客間だと理解したが、覗き込んだところ、まるで手入れされていないようで埃っぽかった。
「客間の掃除は?」
「もうしていないな。誰かが来るとなれば、ここじゃなくて学校に来る。ここの客間に最後に足を踏み入れたのがいつだったか、ということすら忘れた」
「もう……。ちゃんとしてよね」
イールスは「すまない」とだけ言いながら、リビングの扉を開いた。
こちらもやはりそれほど広くないが、奥にあるキッチンはカウンター型になっていて窓も大きく、全体的に明るくて良い部屋だ。今までここにイールスが一人で住んでいたかと思うと、贅沢だなと嫉妬したくなるものだった。
「まあ、まずは少し休もう。荷物はいつ届く?」イールスが紅茶を出してきた。シーナは促されるままソファに腰を下ろした。
「ありがとう。明日来る予定」
「そうか。なら、明日も学校は休んだらいい」
「そうする。普通に寝たいし」
シーナは紅茶を飲み、そっとテーブルに置いた。
「今日の夜は早く寝るといい。あと、これを飲んだら二階で休もう。夕食のときにはまた起こすから」
「ありがとう、そうする。……イールスはそれまでどうするの?」
「一度ダランに行く。何もなければすぐに戻ってくるよ」
「今日も行くの? 休めばいいのに」
驚いたシーナの言葉に、イールスは小さなため息をこぼした。
「学長ってのは、本当の休日がないんだよ。一番残念なところだよな」
彼は首を横に振って、また紅茶を口に運んだ。
もう外は暗くなっているというのに、イールスはローブを羽織って玄関に立っていた。しかし、どうしてシーナも玄関にいるか。
紅茶を飲んでから、「自分も一緒に行く」とシーナが言い出したのだ。イールスは何度も止めたが、一人で家にいても退屈だからとのこと。寝ていればいいと断ったが、初めての家で一人で寝るなんてできない、と理由にもならないことを主張するため、とうとう彼は折れることになった。
「こんな時間にすまないな。本当に、家で休んでおけばいいのに、来るのか?」
「うん、行く。暇じゃん」
私服のままのシーナの答えは変わらないようだ。仕方がなく、家の照明を消してイールスは扉を開いた。彼女を前に、二人は並んで家を出た。
夜のダランまでの道のりは暗かった。というのも、グランヴィルの中心から離れたこの家からは、街灯というものがほとんど立っていないのだった。
「マンションにいたときの方が道は綺麗だった」
「そうだな。あっちはグランヴィルの中心部に向かって歩く感じだったから。こっちは、もはやグランヴィルですらない」
「この辺の散歩スポットは?」
「そうだな……。今はこの道を学校に向かっているが、反対方向に行ったところに、小綺麗な公園があるんだ。田舎だから、それなりに広い公園で、大人でも歩けば三十分ほどかかる。学校の反対側だからあまり行くことはないかもしれないが、時間があるときに行けば気分転換になるだろうな」
シーナは歩いてきた道を振り返って見てみた。街灯が少なすぎて、本当に暗い夜道だ。一人であれば歩きたくないと思うのが普通だろうが、校外調査員としては一人でも堂々と歩けるぐらいじゃないとダメなのではないかと、心の中で葛藤が起こっていた。
イールスにそんな胸中が悟られないように、何事もなかったかのように前を向いて歩いた。
「この道を向こう側ね。じゃあ、子どもができたら一緒に歩こうかな」
「子ども?」
イールスは彼女の顔を見た。「急に子どもとは、どうした?」という目をしている。
「うん。昔から子どもがほしいと思っていたような気がして。あんまりはっきりではないんだけど、そういう気がするの」
「そうだったのか……」
イールスはぼんやりとシーナの話を聞いていた。
「ねえ、子どもができたら、名前は何がいい? 女の子だったら」
「名前? ……考えたこともなかったな」
「私も。どんな名前がいいかな。……アオイとかは? 最近よく聞く名前だし」
「うーん、どうだろう。近所に住む地方役場に勤めている知り合いが、自分の子どもができて女の子だったらその名前にしたいって言ってたから。被ってしまうし、第一、最近あちこちで聞きすぎて、聞き飽きた名前だ」
「なら、何か候補は?」
「女の子なら、アン、とかは?」
シーナは首を横に振った。
「可愛くないし、それもありきたりじゃん。他にはないの?」
「……ジェンナ、は?」
「あちこちで聞いたことはないか……。でも、何だか色っぽくない? もうちょっと、かっこよくてかわいいみたいな……」
夜空にダランの校舎が見えてきた。こうやって見ると、大きな学校だ。敷地も広く、校舎自体もそれなりに大きい。
「あ! ルーカス、はどう?」
「身近に聞いたことはないな……。いいんじゃないか? かっこいい感じだし、かわいさもあると思う」
「そうかな? じゃあ、女の子だったらルーカスだね」
「男の子なら?」
「それはイールスに一任します」
シーナは、それは知らないよ、という顔をした。これも可愛らしく見えてしまうのは、イールスの心が彼女に随分と歩み寄っていたことを表した。
「……それにしては、よく思い付いたな」
「何でだろうね。でも、急に頭に出てきた。……天才になったのかもしれない」
シーナは目を見開いて、彼の目を捉えた。その様子を見て、彼は思わず笑った。
「君は元々天才だよ。特に、魔法を扱う点においては」
そうかなあ、などと笑いながら、二人は残りの道を歩き進めた。
二人で歩けば楽しい夜道だった。いつの間にか結婚式疲れは感じなくなっていた。




