8 最初の任務(三) ②
その後は沈黙のまま、二人は宿の部屋へと戻ってきた。部屋の窓際にあるダイニングテーブルに紙袋を置き、食器棚からマグカップを運んだ。シーナはそのマグカップに紅茶を注ぎ、イールスは紙袋の中からパンを取り出した。
二人は向かい合って座った。二人がダイニングテーブルを挟むのはこれが初めてだ。
「……初めてだね、こうやってするの」
「本当に、ほとんど何でも初めてだな。さっきのようにパンを買いに行くことすら、最近全くしていなかった」
彼はそう答えると、パンを一口かじった。
「美味しいな。何パンだっけ?」
「それは塩バターパン。こっちが、チョコレートパンだったかな。……本当に美味しい」
シーナも同じパンをかじってみた。バターの甘みが口いっぱいに広がり、塩が優しく舌を刺激する。考えるより先に「美味しい」という言葉がこぼれた。
「あそこに時計台が見えるだろう? 今日はあの近くに行くんだ。ここから見ると近そうだが、実は結構遠い。あの時計台がかなり巨大なんだ」
イールスは指を差しながら説明を始めた。その指先に、確かに、とても大きな時計台が立っているのが見えた。あの時計台の上には登ることができるのだろうか、などとシーナは考えていた。
「ケルン地方は、あの時計台のおかげで観光産業が成り立っている。あの時計台の歴史を知りたいか?」
いつの間にか、彼はチョコレートを包んだパンを食べていた。シーナはぼんやりと景色を眺めていたため、まだ塩バターパンのままだ。
「知りたい。時計台、行ってみたいな、……次に来たときには」
「いいや、大丈夫だ、今日でも」
イールスが即座に返事をしたので、シーナは顔を彼に向けた。
「どうして? もう予定があるじゃん」
「予定は夕方からだ。それまでは自由な時間ということだ」
「なるほど。じゃあ、行きたいな」
シーナは塩バターパンの最後の欠片を口に放り込み、急いでチョコレートのパンも食べた。
「よし。なら、シーナがそれを食べ終わったら、アイリスを起こそう。それで、夕方からの準備をした上で行こうか。ここに戻ってくる時間はないからな」
イールスの言葉にシーナは黙って頷いた。そして、慌ただしく食べ終えると、アイリスを起こすため部屋を移動した。
◇◆◇
ローブを羽織り、綺麗に髪を整えたシーナたち三人は、学長用の馬車に乗り込んだ。馬車は近くの馬小屋に預けていたらしい。
「アイリス、予定より少し早く起こしてごめんね」
「ううん、大丈夫だよ。もう十分寝たし」
「そうかな……」
シーナは半ば心配だったが、アイリスが元気そうだったため、それ以上心配することのないよう努めた。
「ケルンのあの時計台は、足元が地方役場になっている。今日の目的地はその向かいにある場所だが、せっかくここまで来たんだから、時計台にも行ってみよう。開いていれば、時計台に登ることも可能かもしれない」
「時計台は登れるの?」
シーナは内心楽しみにしていたことを尋ねた。
「ああ、時々な。常時解放しているわけではなくて、月に数回だけだ」
「今日がその日だったら、運が良かったということね」と言い、シーナはアイリスの顔を見た。
「運が良ければいいね、私たち」
そうして馬車に揺られて数十分、ある曲がり角を曲がったところで、目の前に時計台がちょうど綺麗に見えるとこまでやってきた。随分と近付いたようだ。
地方役場の前には多くの人々が集まっていた。何やら、続々と人が集まってきては、役場の中へと入っていく。
その周りでは、複数の屋台が並び、野菜や果物のほか、クッキーやジュースなどが売られていた。ポストカードを売っているような店もあった。
「お祭りかな?」
シーナが窓の外を眺めながら呟いたところ、後方からイールスが返事をした。
「今日は運が良かったんだ。時計台に登れるということだ」
「本当に!?」
シーナは振り返って、顔を輝かせながらイールスの目を捉えた。
「本当だ。ほら、あそこに、今日は登れるって書いているだろう?」
彼が指差した先には立て看板があり、そこに確かにそのように記載されていた。
馬車が役場の近くで停められると、シーナは上機嫌で客車から降りた。そして、子どものように二人を先導して、前を歩き進めた。
「イールス、アイリス。早く早く」
時計台の展望台まで登るには、内部にある螺旋状の階段を登る必要がある。螺旋階段は二重になっており、一つは登り用、もう一つは降り用となっている。
シーナたちの他にも時計台を登る人はたくさんいた。そのため、階段を登り始めるまでに十分程度待つ必要があった。その間もシーナたちは談笑していたが、ようやく階段を上り始めてからしばらくすると、疲れが溜まっていき、次第に交わす言葉は減っていった。アープなど魔法の力を使えば一瞬なのだが、他の全員が階段を一段一段登っているところを横目に進むなどできなかった。ここでは階段を使うこと自体が風情の一つでもあるのだろうとも感じられた。
「あと……ちょっと……だね……」
先頭を歩くシーナの言葉は途切れ途切れだった。息が切れている。
そのような調子で進み、あと一周で展望台のところまでやってきた。頭上の床の向こう側から、楽しそうな声がいくらも聞こえる。降りてくる人の顔も、一番下の人たちよりもずっと明るい。期待に胸を膨らませ、シーナたちは最後の一周を歩き進めた。
「わあ……。綺麗……」
シーナの口から、思わず感嘆の言葉が漏れた。
目の前にはたくさんの人が群がり、その向こう側には時計台の窓から見えるケルンの街並みが広がっていた。
彼女は人混みを縫って歩き、窓の目の前までやってきた。窓から顔を出すと、空から地面まで、さらに右から左まで見渡し、後方からやってきた二人に笑顔を向けた。
「スプラー山脈までしっかり見えるよ。それに、ほら、ここ、時計の真上みたい。見てよ、地方役場があんなに下に見える」
地方役場の屋根を指差して、シーナが二人に告げた。本当に子どものように目をキラキラとさせていた。
「本当だね。とっても綺麗。遠くまでよく見える」
横にアイリスが並んだ。イールスは二人の後ろから景色を眺めている。
シーナの視線の先に、スプラー山脈が見える。その麓には、小さくてどこなのか全くわからないが、いくつか小さな村が点在しているのがわかった。その景色を眺めて、彼女はどこか懐かしい気持ちに浸っていた。
この時計台からは、ケルンの西側はもちろん、イルケーの南西部もよく見える。おそらく、南側の窓から眺めればベールのほぼ全体が、東側から眺めるとエニンスル半島の東海岸が、北側にはケアノス海峡までは見えるだろう。今日が天気の良い日だったのが幸いだった。
三人は西側からの景色を楽しんだ後、一周するように景色を見て回った。最後の北側に立ったとき、シーナはある違和感を感じた。
「……向こうに立っている。あの、背の高いのは?」
「どれ? 何か見える?」
「うん。向こう側の、ケアノス海峡の向こう側。ほとんど見えないけど、何か、背の高いもの見えない?」
シーナはケアノス海峡の向こう側を指差していた。が、横に並ぶアイリスには見えていないのか。かなりぼやけており、シーナの目にもはっきりとは見えていなかった。
「うーん、何も見えないな……」
「でも、この時計台と同じように、背の高いものが立っているよ」
「本当に? 何かの間違いじゃない?」
アイリスは目を細めていた。
シーナは後ろに立っているイールスを見た。
「ね、見えるよね? ケアノス海峡の向こう側」
「……いや、わからないな。どれのことだ?」
イールスも何も見えないような顔をしている。あるいは、あえてそのような顔をしているのか。
「えー! 私にだけ見えてるなんて、そんなことあり得ないよ!」
そう言って、シーナはもう一度視線の先を眺めた。本当に何かがあるのか、あるいは雲の悪戯なのか、あまりはっきりせず少しの間だけ眺めてみたが、とうとう窓際から離れた。




