1 芝居 ③
ナッツは近くにあったマンホールの蓋を開けると、魚のぬいぐるみを中に落とした。ぽちゃん、という音の直後、水の流れる音だけが聞こえてきた。
「それでわかるの?」
「もちろん。あのぬいぐるみに注いだ魔力が途切れるとき、ぬいぐるみの体験がすべてこっちに伝わってくるからね」
「なるほど……。そうだ、ステラは何を調べに行ったの?」
シーナは、ステラのこともよく知らなかった。なぜかステラが「今日は調べないの?」と言ってきたため、適当に「調べておいてね」などと言ったが、実際は何のことか全く理解していなかった。
「え? やっぱり今日のシーナおかしいよね」
「何だっけ?」
シーナが自分のことには何も知らないような顔をしているので、ナッツはため息をついて答えた。
「グランヴィルの配管設備について、本に何か載ってないか探しているんだよ。ダランの図書館ほど大きければ、役所の資料の一部ぐらい残っているかもしれないからね」
「なるほど……」
ということは、シーナたちは、アイリスの探し物のために全力で対応しているというわけか。
「じゃあ、今日でこの捜査終わりね」
「え? いいの?」
ナッツがキョトンとしている。きっと、ここしばらくはシーナ自身もやる気があって捜査していた案件なのだろう。ただ、そのシーナは過去のシーナだ。そもそもアイリスのお願いの重要度がわからないし、それに対して三人で対応しているなんてこと、あって良いのだろうか。
「うん。今日で終わり。もしナッツとステラががんばったのに新しい発見がなかったら、それはもうわからないんだよ。だから、今日で終わりね」
ナッツは小さく頷いた。そして続けた。
「ということは、ようやく魔法の練習に付き合ってくれるってことだね?」
「え、何それ……」
なるほど、とシーナはようやく理解した。
きっと、記憶を失う前のシーナも、アイリスのお願いに対してそれほど全力を注ぐつもりはなかった。そもそも、一度排水溝に落ちたものなんだから、こんなに時間が経っていれば、海まで流れてしまっているか深いところに沈んでいるに決まっている。そして、そうであるならば、シーナが今がんばったところで何も得られることはない。その程度のことならば以前にも理解できたはずだ。
ただし、厄介なことが起きた。ステラとナッツが、シーナの魔法の扱いに見惚れて弟子入りを申し込んできたのだ。
面倒だったが、特に断る理由がなかった、あるいは何らか受け入れざるを得ない理由があったのか、シーナは今回の仕事をさせるということで弟子入りを認めたということだろう。
「……過去の私、めんどくさいことを引き受けてしまっているのね……」
シーナが小言を呟いたが、ナッツには聞こえていないようだった。
ただし、いずれにせよ、彼らは師弟関係であると認識している。さらに、今回のアイリスのお願いを終了すれば、魔法の練習に付き合わなければいけないということだろう。——それは面倒すぎた。
「じゃあ、二人はもう私の弟子を卒業よ」
「えええ? まだ僕もステラも、何も教わっていませんけど」
「いいえ、二人のがんばりは認めます。だから、もう卒業ということで」
シーナは無理矢理結論づけた。要するに、面倒なことはしたくなかった。
「後でダランに戻ったら、ステラにも伝えるわ。だから、今日だけがんばるということで」
ナッツは悲しいような嬉しいような顔をしていたが、師匠に言われたからには反論できまい。ナッツは魚にかけた魔力が途切れるのを待った。
シーナはステラとナッツと共に、図書館の中の一室にいた。ダランの巨大な図書館には、生徒が自由に使える部屋がいくつかある。そのうちの一つだ。主にグループで何か作業をするときに利用する部屋だが、このように単に何かを話す程度であっても利用することが可能だ。
「今日の調査で、グランヴィルの排水管がここから西に行ったところの川につながっていることがわかったわ。もちろん、その川は海へと繋がっているわけだけど、下流はプラル地方に跨いだところにある。つまり、この件はアールベストから出ないと達成されない」
「なら、アールベストから出るってことか?」とステラが身を乗り出した。彼はアールベストから出たいのだろうか。それとも、単に事実を確認したかっただけなのだろうか。
「いいえ、今回はこれで終了」
「でも、アイリスからのお願いだったんだろ?」
ステラは何も事情を知らない。だから、こんな質問をしてきているのだ。
「そうであっても、私たち自身を危険に晒す理由にはならない。アールベストから出ることはしないわ」
アイリスには気の毒だが、これ以上時間を割いても好転することはないだろう。
シーナは立ち上がった。
「それと、二人には言わないといけないことがある」
ステラとナッツはシーナの顔を見た。ナッツは何を話すかわかっているが、何も知らないステラはとても緊張しているようだった。
「今日で私の弟子を終了することとします。二人とも、私に教わることは何もないわ」
「急だな……。今回の件が終われば、魔法の使い方を教えてくれるものとばかり思っていたけど……」
ステラは顔を曇らせた。シーナは、教員に教えを乞えばいいじゃん、と思っていたが、傷口を抉るように感じられたためあえて口にはしなかった。
「私も忙しいからね。今回の調査で、魔法の使い方も少しぐらい慣れたでしょ」
シーナは部屋から出て行こうとした。
「じゃあ、今日までお疲れ様! 明日からは普通の友達として、よろしくね」
「え?」
ステラとナッツは声を揃えた。思いもよらない言葉を聞いた、とでも言わんばかりの表情だ。
「何? おかしかった?」
「いや、シーナが男子に友達って言うのは珍しいなと思って……」
ナッツは瞬きしていた。
シーナは一瞬だけ足を止め、
「そう? 単に、これまでと変わっただけよ」と一言告げ、部屋を出ていった。