1 芝居 ②
今のシーナにわかるはずもなかった。そこで、リリアから教わった「知らない人に声をかけられたときの対処法」を実践することとした。
「えっと、……私、今、忙しいんです。また今度ね」
それだけ言い残し、シーナは早足で自室へと戻った。
「危なかった……。知らない人から声をかけられたときの対処を聞いておいてよかった……」
シーナは自室でブラウスを脱ぎながらため息をついたが、先ほどの声の主はシーナの友人、アイリス・ブラーノだった。アイリスは、走り去っていくシーナの姿を、不思議そうに眺めていたのだった。
「それでは、実技の授業を始めますよ。今日は、今年度習ったことを、しっかり復習していきましょう」
翌日の実技の授業が始まったが、シーナは、これまで何もしたことがないのに、という気持ちでいっぱいだった。前に立っている教員が一体誰なのか、隣に座っている生徒が友達なのかそうでないのか、何もわからなかった。それでも、授業は淡々と進められた。
「それでは、次はシーナ・ベルリア。私と模擬戦闘としましょう」
突然呼ばれたので、シーナははっとして立ち上がり、教壇へと進んだ。教員はこちらを見て笑顔だった。
「みなさん、よく見ておいてくださいね」
シーナは一体何のことかと思ったが、要するに、目の前の教員と戦えばいいのだと理解した。
「それでは、これまで習ったことを使ってやっていきましょう」
教員が笑顔で手を叩いたが、直後シーナはナイフを袖から滑り出し、フォトンで教員の首めがけて投げた。教員は咄嗟にそのナイフを払い除けたが、その隙にシーナは教員の足元に潜り込み、足を強く蹴り上げた。教員は体勢を崩し、前に足を出して転けてしまった。
模擬戦闘は一瞬にして終了した。見ているだけの生徒たちの目にも留まらぬ速さで教員を負かせたシーナに、生徒たちから拍手が沸き起こった。
「まさか、しばらく弱かったのに……」
そう言いながら、教員は困ったような顔で立ち上がった。床に落ちているナイフを拾い上げると、シーナに手渡して告げた。
「もう卒業でもいいと思いますが、一応まだ一年間あります。しっかり成長して卒業してくださいね」
シーナはナイフを受け取ると、作った笑顔を見せて自席へと戻った。
「はい、それでは次——」
授業は続いていたが、シーナは前方で繰り広げられる戦闘には全く興味を示さず、生徒たちを見回していた。誰か知っている人がいるか、気になっていたのだ。
だが、もちろん、記憶のない彼女が知っている人など誰もいない。たまたま昨日出会ったアイリスもいるが、少し離れた席に座っている。
結局、シーナは退屈そうな顔をしながら授業を聞き流していた。
◇◆◇
シーナは高等部四年生になった。ダランのローブを羽織り、ある二人と共に廊下を歩いていた。ステラ・ミラージュとナッツ・マーシーだ。
「それじゃあ、ステラ、調べておいてね」
「わかってるよ、シーナ」
「あと、ナッツは私と一緒に来てほしい。あなたの魔法が役に立つと思うから」
「了解。僕にしか使えない魔法だからね」
ステラは廊下を図書館側に曲がり、ナッツはシーナと共に学校の校門へと向かった。
「まさか、シーナとこんな形で行動することになるとは思っていなかったよ」
「私も。というか、そもそもステラのこともナッツのことも何も知らなかったし」
シーナは笑った。ナッツも同じように笑い、二人は校門へと辿り着いた。
「アイリスとはうまくやってる?」
ナッツからの急な質問に、シーナは戸惑った。アイリスのことは顔と名前しか知らない。つまり、これまで自分とどのような関係性だったのか、全く知らなかった。
「アイリスと私って……どんな関係だったの?」
「え? 何言ってるの? 普通の友達でしょ? 違うの?」
ナッツも戸惑いを隠せない様子だった。
思えば、そもそもステラとナッツとの関係もあまりよく理解していなかった。突然彼らからシーナに話しかけてきたかと思えば、「今日の仕事は?」などと聞いてきたのだ。記憶を失う前の自分がどういった存在だったのか、シーナ自身も怖くなった。
「じゃあ、私たちはどんな関係だっけ?」
「えええ? 師弟関係でしょ?」
師弟関係、なるほど。要するに、魔法を使う実力においては圧倒的なシーナに、ステラとナッツは弟子入りを望んだということか。それであれば容易に理解できる。
「……様子がおかしいけど?」
ナッツは少々引いているようだったが、急にシーナは背筋をピンと伸ばし大股で歩いた。
「いや、理解したの、本当の私を」
「……大丈夫?」
「大丈夫よ。私は至って冷静。あなたよりも、圧倒的に」
「…………」
ナッツはとうとう声を出さず、黙ってシーナの後を付いてくるようになった。
二人が行き着いた先は、グランヴィルの街並みの端。ナッツは道路の脇にあるベンチに腰を下ろし、手に持っていた汚れた魚のぬいぐるみを足元に置くと、指示をくれというような顔をしてシーナを見つめていた。
「えっと、……家の金庫から金を盗んできてっていうことだっけ?」
シーナは何をするものなのか全くわからず、適当に思い付いたことを言った。だが、ナッツは「何を言っているの?」と首を傾げた。
「あ、そうだった。あっちだよね、えっと、困っている人を助けるっていう」
「……シーナ、大丈夫?」
違った。一体彼は何を求めているのか。
シーナはまた困ったが、とうとう諦めた。
「何してたっけ、私たち」
「グランヴィルの配管調査でしょ。排水がどこを流れて、どこから海に流れ着くかの」
「え? どうしてそんなことしているの? そんなことして何の意味があるんだろう」
「えええええ!?」
ナッツは驚いて立ち上がった。急に立ち上がられて、シーナも驚いた。
「あれほど張り切っていたのに、どうしたの? アイリスのためでしょ?」
「アイリスのため?」
「そうそう」
ナッツが言うには、数週間前、アイリスが大切にしていたネックレスを落としたという。それも、学校の近くの排水溝に落ちてしまったらしく、その後の行方を追うためにシーナに相談したとのこと。当時、すでにステラとナッツがシーナに慕っていたため、二人に協力してもらいながら調べているとのことだった。
さらに、グランヴィルにいる理由としては、ダランの近くの排水溝がグランヴィルに繋がっていることはわかっており、その後どのように海まで辿り着くかがわからないからとのことだった。排水溝が海に繋がっているとすれば、アールベストの海岸のどの辺りを調べればいいのかがわかる。海岸を調べることは現時点で予定していないが、そもそも海岸に辿り着くのか、あるいはどこかの川に流れてしまうのかといったことを理解するのが先だった。
「なるほどね。じゃあ、調査を始めて」
ナッツが何の魔法を扱えるのかも知らずに、シーナはとりあえず声を出した。心の中では「自分で探せばいいのに」などと思っていたが、喉で言葉を止めていた。
ナッツは数歩歩いて、地面に置いていた魚のぬいぐるみに手を伸ばすと、魔力を注いだ。次の瞬間、ぬいぐるみが本物の魚のようにばちばちと動き始めた。
「何!?」
驚いたシーナに、ナッツも驚いていた。
「えっ、もう何度も見てるじゃん」
「え? ああ……、そ、そうだったわね。ごめん、取り乱しちゃった」
「シーナ、おかしくなった……?」
ナッツが純粋に心配しているような顔でシーナの顔を見たので、彼女は恥ずかしくなった。
「いや、……早く始めよう、配管調査」




