11 スプラー山脈の麓の町(一) ③
少し前まで目の前に見えていたスプラー山脈の中を走る馬車は、辛そうに山道を進みながらも着実に前進していた。アールベストやプラルよりもずっと涼しい空気がシーナたちを歓迎している。森の妖精は彼女らを温かく迎え入れ、行先への期待を高めるのに一躍貢献している。
獣道のような細い道を走り、木々の間を駆け抜け、ようやく目前にはスプラー山脈の向こう側が見えてきた。天気がいいためか、ずっと遠くにはイルケーの中心市街地が見える。港をはっきりと見ることはできないが、地平線の先には海があるのだろうと想像すると心躍った。
「フローラ、見て。綺麗だよ」
いつの間にかうたた寝しているフローラを揺すり起こして、シーナは前方を指差して伝えた。
「んん……。わあ、本当だ。とっても綺麗だ」
たった今まで寝ていたことが嘘のように、フローラは目を丸くしてシーナの指の先を眺めた。
木陰から見える色鮮やかな世界は、二人がこれまで見た景色の中で最も美しいもののうちの一つだった。エマーソンの花畑で見たような華やかな美しさとは異なり、こちらはもっと穏やかで、将来への希望を願っているような平和な世界だった。
馬車に並ぶ二人は、その眩しい世界に完全に見惚れていた。しばらくの間、時間が止まったかのような気分に浸っていた。
◇◆◇
馬車がゆっくりと停車した。空は澄み渡り、陽の光が真っ直ぐ地面を照り付けていた。町の境界をなぞるように建てられた低い壁の向こう側には、広大な草原が広がっていた。
スプラー山脈の麓に位置するこの美しく穏やかな町では、人々はゆったりと動き、にこやかに談笑し、自然な物音が心地よく耳に響いてきた。
「やっと着いたね」
馬車から降りながら、シーナはフローラに告げた。フローラは彼女に続いて馬車から降りてきた。
「美しい町だ。アールベストにはない、本当に長閑な場所だね」
シーナの艶のある美しい瞳に、町全体が映っていた。その景色がこれほどまでに輝いているのは、単に瞳の水分によるものではない。
「とっても、とっても綺麗だね。……ここに来てよかった」
シーナがフローラに艶笑して見せれば、彼も同じようにして答えた。
「シーナがそう言ってくれて嬉しいよ。そう言ってくれなかったらって心配だった。あまり興味がなさそうに思えたから」
バレてた……? とは言わなかった。笑って誤魔化すのみに留めた。
二人の他にこの町で降りる者はいなかった。御者に手伝ってもらいスーツケースを受け取ると、馬車はすぐにその場を背に走り去っていった。
この小さい町に来る人などほとんどいない。ただ単に、スプラー山脈を超えた時点にある町だからという理由で停留所があるのだ。
「さて、宿はどこだったかな」
フローラは、ポケットから、何度も折られてシワが目立つ地図を取り出して眺めた。彼が地図を見ているのを横目に、シーナは町の景観をその目に焼き付けていた。
グランヴィルのように建物が乱立しているのではないし、アールベストの田舎のように畑が広がる農村でもない。程よく建物が並び、人々が道を行き交い、石造りの壁で囲まれた端正な町だ。何度見ても目が喜ぶ。
「あ、あっちだ。荷物を置きに行こう」
フローラが先導し、二人は村の奥へと入っていった。
二人が立ち止まった場所の目の前には、白い壁で赤い屋根の二階建ての建物があった。可愛らしい見た目で、やはり目が喜ぶ。入り口の横には白の筆で「宿」とだけ書かれた深い赤色の布が飾られていた。
「いらっしゃい。アールベストからだね。遠くからようこそ」
入って正面奥には暖炉があるが、その手前に宿主と見られる老婆が立っていた。老婆は、フローラが書いた予約票を見ながら、ゆっくりとゆっくりと話した。これほどまでにゆっくり話す人を、シーナはかつて見たことがなかった。
「一泊だけです。部屋は二階ですか?」
フローラが問うと、老婆は笑った。
「な、何かおかしかったですか?」
「いいや、部屋は二階でもあるし、一階でもあるのだよ」
「えっと……」
困惑した二人の様子を見て、再び老婆は笑った。
「この建物そのものがあんたたちの部屋だよ」
「……貸切、ということですか?」
フローラが疑うように尋ねたが、老婆は深く深く頷いた。シーナは、これほど深く頷いている人を見たことがなかった。……いろいろと特徴的な老婆だった。
「そういうことだい。この町にはあまり観光客が来ないからね。一室ということは、一棟なのだよ」
「なるほど……」
シーナとフローラは顔を見合わせた。言っていることは理解するが、アールベストでは見ることのない形態だ。そもそも、こんなに小さな宿すら存在しない。
「この辺りだと、少し遠いが、やはりベル・ヴィラージュが強いんだよ。こんな小さな町、名前すら知られていないんだ」
こんなに綺麗な町なのに——シーナは声に出そうとしたがやめた。そんなことを言っても、この老婆の心には「そうなんだよ」という言葉が残るだけで、それ以上何も好転することはないからだ。
結局、シーナは小さく頷くに留めた。フローラも彼女を真似するように同じことをした。二人の様子を見て、老婆は「まあ、楽しんでいきな」とだけ告げると宿から去ってしまった。
火のない暖炉を横目に、シーナとフローラは二階へと登った。奥にダブルベッドが置かれているだけで、それ以外は殺風景で何も面白くない部屋の隅に、二人はスーツケースを並べた。どこに置いてもよかったのだが、部屋の中央ではなく隅に置いた方が安心できた。
さらに、続けて一階へと降りた二人は、部屋の中を歩き回った。部屋の中には何も期待していないのだが、外に出る前にまずは室内を探索してしまう。
「こっちにキッチンがあるよ」
玄関から部屋に入って右奥にある扉の先に行ってみたシーナが声を出した。それを聞いて、数秒後にフローラもキッチンに現れた。
「本当だね。それに、その奥の扉はシャワー室とトイレかな」
「だね」
シーナはキッチンのさらに奥にある扉を開きながら答えた。
どこを見ても至ってシンプルで、何の面白味もなければ問題点もない。キッチンには何も備えられておらず、もし野菜や肉を買ってきたとしても使い物にならない。元々は宿ではなくて、誰かの家だったりしたのだろう。空き家になったから宿にして金儲けをしているというところか。
二人は退屈になり、とうとう外に出ようと決めた。
「やっぱり、観光は歩かないとね!」
気を持ち直すようにシーナが手を合わせた。フローラは彼女を見てようやく笑った。
「そうだね。いっぱい歩き回ってみよう」
フローラが開いた玄関の扉の隙間から、町を照りつける陽の光が眩しいほどに室内へと差し込んできた。




