10 黄泉の客(二) ②
二人は校門の前の噴水に並んで座っていた。時間が遅いこともあり、他には誰もいなかった。時折目の前を生徒や教員が横切っていった。
学校の敷地内は外よりもずっと安全だ。問題が起こることはほとんどないし、万が一何らかの問題が発生したとしても、すぐに教師たちが生徒を守ってくれる。生徒たちにとって、最も安全な場所だった。そのため、たとえ誰が話を聞いているかわからないとしてもダランの敷地から外に出ようとは思うこともなく、やはりここが一番安心できる場所ということだった。
「それで?」とフローラはシーナの顔を覗き込んだ。
「実はさ、……フローラは、ダランにいてて、おかしいな、と思うことはない?」
「……ないかな。どうして?」
「ごめんね、変な話で。……前に、ある先生がいなくなった、って話したじゃん?」
「ああ、あったね、そんな話」
「実は、その先生、遺体で見つかったの」
シーナが言うと、フローラは目を丸くした。
「本当に? どこで?」
「プラルの北部なんだけどね。……その先生、ずっといなかったけど、見つかったかと思えば遺体で……。それに、その先生が学校にいなかったことについて、リリアが自分のせいだって言ってたんだけど、それ以上はあまり教えてくれなくて。……私たちの知っていること以上に、ダランには何かがあるんだろうなと思ったの」
「それで、他に変わったことがないか聞いてきたんだね」
シーナは「そうなの」と答えて俯いた。
フローラが一体どんな顔をしていたのか、シーナは全く知らなかったが、きっと彼も悲しいような寂しいような顔をしていたのだろう。
「でも、おかしいと思ったことは特にないよ。役に立てなくてごめんね」
フローラは申し訳ないという声だった。
「いいの。むしろ、本当はない方がいいわけだし」
シーナはそう答えると、理由もなく空を眺めた。涙を流すことも顔色を変えることもない空は、彼女のことなどまるで知らないという顔をしている。
「それだけ?」
隣から小さい声が聞こえた。シーナの話題が想定と異なり、他の話題を期待したのだろう。
だが、シーナは他に話したいことがあるわけではなかった。さらに小さい声で「うん」とだけ答えると、フローラは何度か頷いた。
「前に、卒業したらイッサールに行きたいって話したの、覚えてる?」
「もちろん」
突然の話題にシーナは驚いた。彼がその話題をしたのは、一緒にエマーソンの花畑に行ったときだ。もう四年も前の話だ。
「それがどうしたの?」
「まだ覚えてくれているかなって思って。僕がイッサールに行ったら、シーナは後から来てくれる?」
要するに、フローラは、この歳になったシーナの答えを聞きたいのだろう。シーナの答えは当時考えていたことと一緒だった。
「行くよ。行かないと言うと思った?」
「いや、そんなことはないよ。シーナなら、一緒に来てくれると思った。ありがとう」
「フローラといたいから。これからも、この先もずっと」
シーナは艶笑してみせた。その眩しすぎる嬌態を見て、フローラは頬を赤くしていた。
二人が共にいる時間は、通算しても決して長くなかった。それでもシーナがフローラのことを心から信用しているのは、彼の人柄やシーナに対する優しい視線によるものだろう。
「シーナ、前と変わらないね」
「そう? そんなことないと思うけど」
「ううん、前と一緒だよ。前も今も、ずっと素敵だよ」
「そうかな。嬉しい」
彼女はまた微笑んだ。それがフローラを悩殺する。
いつの間にか、闇が空のすべてを覆っていた。次第に前を横切る生徒は減り、ダランの校舎も暗くなり始めていた。噴水の周りには薄暗い電球が光を放っているが、それもまた儚く、波打つ光は心を不安定にした。
「すっかり遅くなっちゃったね」とシーナ。
「だって、シーナといたら、時間を忘れてしまうから」
「嘘じゃん!」
「本当だよ」
「本当の本当?」とシーナはフローラの顔を覗き込んだ。
「本当の本当だよ」
「……ありがとう」
シーナの表情は闇に溶け込みつつあった。今どんな顔をしても、きっと闇が彼女の表情を覆い隠すだろう。
二人はゆっくりと立ち上がると、手を繋ぎながら寮へと戻った。この頃、誰かが自分たちのことを見ているかもしれないなどと、そんなことは考えることもしなかった。
ダランの寮は非常に大きい。寮は二つの棟に分かれており、それぞれ百以上の部屋がある。とりわけ、シーナやフローラのいるA棟は、B棟よりも大規模だ。三、四階はすべて生徒の部屋となっており、二階には総合指揮官室がある。総合指揮官室の奥には会議室があるようだが、生徒は入ることがない。対して、B棟はすべて生徒のための部屋になっている。食堂もあるが、やはりA棟の方が規模が大きいようだ。
シーナは一度は自室に戻ったものの全く眠気がなかったため、再び部屋を飛び出して、今度はA棟とB棟に挟まれた小さな噴水と池のある美しい中庭にやってきた。
夜風が彼女の髪を揺らす。ところどころの足元にある黄色の電球が、中庭を幻想的に照らし出している。
シーナは中庭中央にある小さな噴水の前に立った。昼間であればここは数名の生徒がいることが多い。だが、夜の今は彼女の独り占めだった。
後方の遠くから、突然女子生徒数名の話し声が聞こえてきて、シーナは驚いて振り返った。どこかから戻ってきたところなのだろう、彼女たちはすぐにB棟に姿を消し、シーナは胸を撫で下ろしてまた噴水に向き直った。
どうしてシーナはここにいるのか——明確な理由はなかった。ただ単に、安心するからという理由だった。水の近くにいれば心が安心する。ただそれだけだった。いつか、長閑な街でゆったりと自然の空気を感じながら、ゆっくりと生活をしたい。そんなことを考えていた。
彼女は噴水の水にそっと触れ、次は両手で少しだけ掬ってみた。指の隙間から少しずつ水が流れていき手の中からほとんどなくなるのを見ていると、なぜか次第に寂しく感じられてきた。
気が付けば、両目からほんの少しだけ涙が流れていた。どうしてそうなったのか、彼女は全く理解できなかった。これまでの何かを思い出してしまったのか、この先を思い描いてしまったのか。いずれにせよ、両手で支えているのに流れていく水を見つめていると、大事な何かが零れ落ちていくような気分がした。水の行く先は、冷たくて無感情なレンガの道だ。
シーナは、ベッドの中から美しく輝く星空を眺めていた。久しぶりにあんな気分になったと感じていた。
疲れた一日だった。それは、身体的にもそうだが、精神的な意味も含んでいた。
誰かが嘘をついている。誰かが何かを隠している。
そんなことが、頭の中をぐるぐると回りながら、落ち着かない気持ちで眠りに落ちた。




