おやすみなさい。
人間には本能というものがある。
そのうちの一つである食欲が満たされた今、俺の求める欲求は唯一つ……。
睡眠である!
今日一日いろんな出来事がありすぎた。いや、今だってその出来事は現在進行形で進んでいる。
食事の後片付けを終えた鷺ノ宮は自分のカバンの中から布団と毛布を取り出した。まさにこいつは四次元カバンとしか形容の仕様がないといえよう。
「どうやって、この中に布団を詰め込んだんだ……」
「それは乙女の秘密なのよ」
真顔で答える鷺ノ宮だったが、確実に嘘だった。
乙女の力で、ものをコンパクトにまとめれるならば、世の中のあらゆる問題点が乙女パワーで解決してしまうに違いないからである。
土地不足も乙女パワーで解決。エネルギー問題だって乙女パワーで解決。乙女万歳、ビバ乙女。
まぁ、そんなことについて言及しても仕方がないことは、すでにわかりきっていたので、俺は流すことを学習していた。
「しかし、あれだな、一つ屋根の下に、若い男女が二人きりって奴は」
「それは間違っているわ。若い女と、中年にリーチがかかっている男というのが正確ね」
一刀両断、俺のナイーブな心はバッサリと切り裂かれてしまった。
「すまない、少し泣いてきていいか」
俺は畳に這い蹲りながら、左手をプルプルと震わせていた。
「うっとおしいから、泣くならトイレの中で声を押し殺してお願いしてもらえるかしら」
優しさという言葉の意味を、こいつの頭に叩き込んでやりたいと思った瞬間だった。
そして、俺はトイレに篭ると、約3分間涙を流しはしないにしても、人生という長い道のりを振り返ったりなんかしてみるのだった。
ジャージャーと勢いよく水洗トイレの水が流れた。
俺はトイレに備え付けられているタオルでよく手を拭きトイレを後にした。
いつもならば、手を吹くなどということを気にも留めはしないのだが、今のこの状態で、手を拭かないでトイレから出てきたならば、どのような罵詈雑言を浴びせられるかわかったものではないのだ。
俺がトイレに行った間に着替えていたのだろうか、そこにはパジャマ姿に着替えた鷺ノ宮が居た。
ゆったりとした犬の模様の入ったパーカーを着た鷺ノ宮は、さらに子供っぽさを増していた。
ああ、そう言えばこいつは口調と態度だけは大人びていても、実際はまだ高校生なんだなぁと思い起こさせた。
「ちゃんと手は洗ったんでしょうね?」
予想通りの言葉に俺は思わず、ニヤリと笑みを浮かべてしまう。
「ふふふ、そう言う事は予想済みなんだよ! 見ろよ、この見事なまでに洗浄された手を!」
俺はそう言って、鷺宮の前に両手を差し出した。
「悲しいほどに、知能線が短いわね」
鷺ノ宮は俺の手のひらを見て、こう呟いたのだった。
なにをどうしようとも、こいつは悪態を返すことのできる力を持っている。これはもう能力というべきでだ。
そして、その恐るべき能力は、俺の精神を蝕んで崩壊させていくことだろう。
――負けちゃダメだ! がんばれ俺!
俺は俺自身にエールを送った。
そんなことをしている自分がたまらなく悲しくなった。もう何もかも忘れて眠ってしまいたかった。
「もう、眠ってしまいたい……」
俺は自然と口に出していた。
「そうね、私もいくらか疲れてしまったので、眠りたいものだわ」
初めて二人の意見が一致した瞬間だった。
「じゃあ、私はこの部屋で眠らせていただきます」
「おう!」
そう答えて数秒、俺は今の言葉に違和感を感じた。そしてその意味に気がつくのに更に少しの時間を要した。
「ちょっと待て」
俺は、すでに自分の用意した布団の中へと潜り込もうとしている鷺ノ宮を呼び止めた。
「いったい何かしら? 眠りを邪魔されるというのはとても不快なことなのだけれど」
「この状態はどういうことだ?」
俺はこの部屋の中央にドーンと敷かれている鷺ノ宮の布団を指差した。
「和久の言いたい言葉の意味が理解できないわ」
「わかった……。回りくどい言い方はやめよう。これじゃ、俺の布団を敷くスペースが何処にもねぇじゃないかよ!」
「そうね。部屋が狭いのだから、そうなってしまうわね。仕方の無いことね」
平然と答えた鷺ノ宮は、そのまままた布団の中にもぐろうとする。
「なら、俺は何処に寝ればいいって言うんだよ!」
――まてよ。
俺の思考はこのとき、フル回転していた。
部屋に敷くことができる布団は一つ。そして、それは仕方ないことだと鷺ノ宮は認めている。すなわち、一つの布団で眠らなければならない。しかし、二人居る。ならば、一つの布団で二人が一緒に眠るしかない。そう、そしてそれも仕方ないことなのだ。そうだ! 俺の部屋が狭いのが悪いのであって、俺は何も悪くない、そう女子高生と一緒の布団で眠りたいとか言うわけなのではないのだ、仕方なくなのだ。第一、俺は巨乳好きなのだ、豊満な胸に顔をうずめたいのだ。なのに、こんなまったいらな女と一緒に眠りたいはずなのありはしないのだ。しかし、しかしだ、仕方がないのだ。仕方がないのだから仕方がないのだ。
「勿論、この部屋の外に決まっているでしょ。そうね、台所で眠ればいいと思うわ」
「ああ、そうだよな。そうだとは思っていたんだよ……」
俺の妄想はあっけなく砕け散った。
だがこれでいいのだ。俺はこんな平べったい胸の女になど全く持って興味が無いのだ。それに歳だって一回り以上離れている。そんな女に興味をいだくことなどあるわけが無い。
俺は台所に自分の布団を移動させて、そこで眠ることにした。
時折、玄関から冷たい空気が差し込んできては、俺の背筋を震え上がらせた。
「そこの襖は閉めてくれるかしら」
「ああ、わかったよ」
俺は軽く手を振りながら、台所と部屋をつなぐ障子を閉ようとした。
「あと、私に対して変な気を起こしたりしてはいけないわよ」
「な、何を言ってやがる! この俺がそんなことするわけないだろ!」
「いいえ、わかっていればいいのだけれど、もし何かするようなことがあれば、覚えていてもらいたい事があるの」
「なんだよ!」
鷺ノ宮は、布団の中をもぞもぞと探ると、一つのものを取り出した。それは俺にとって見覚えのあるものだった。
そして、それは俺が恐怖するものだった。
「お、お前、それ……」
「そう、スタンガンよ」
鷺ノ宮はスタンガンのスイッチをいれた。バチバチと電流が流れるのが目に見えてわかった。
「あの時、拝借しておいたの。何かあったときに、便利だろうと思って」
「何かって何だよ」
「そうね、三十前のうだつの上がらない男が、夜這いをかけてきたのを撃退するときなんかに便利だろうと思って」
「どんだけ、具体的な使用例なんだよ! てか、そんな事しねえよ! 誰が、そんな色気の欠片もないようなお前を襲ったりなんかするもんかよ!」
「あら、急にこのスタンガンの威力を試してみたくなったのだけれど、どうすればいいかしら……」
「お、おやすみ!!」
俺は逃げるように、慌てて襖を閉めた。
「和久、おやすみなさい」
障子の向こうから、鷺ノ宮の声が聞こえた。
そして、その声と同時に部屋の電気が消えた。
いつも一人でいるはずなのに、なんだかとても寂しい気持ちに襲われたのだが、これはあいつの顔が見られなくなったからではない。
この家の主だというのに、台所で眠らなければならないという、この事実に寂しい気持ちになったのだ……。
背中が痛い、首も痛い……。
俺に痛みを感じながら目を覚ました。
俺はまだ目を瞑ったまま、パソコンの電源ボタンを探した。
起床とともにパソコンの原電を入れるのが、俺の日課となっていたからである。
しかし、どれだけ腕を伸ばせども、パソコンの電源ボタンには届きはしなかった。
――何故だ……。
俺は仕方なく、上半身を起き上がらせた。背中の筋が吊る感じがしたので、大きく背伸びの運動をした。
「うーーん」
その時になって、初めて気がついた。
俺の目に入ってくる風景が、いつもと違っていることに。
「何で俺、台所にいるんだ……」
いまだ眠りから覚めやらぬ俺の思考は、昨日の出来事を完全に思い出せないでいた。
いや、昨日の出来事自体が、すべて夢であったのではないか? そんな思いにとらわれた。
なぜならば、すべてが非現実的すぎるからだ。
俺の目の前に現れた謎の少女。
そして、俺に死を告げる。
その予言は的中する。
そして、さらに俺の命を奪おうとする、謎の男。
救いに現れる謎の少女。
そしてそして、その謎の少女と一緒に住むことになる。
全く持って、リアリティがない。嘘くさい。
そうだ、俺はきっと昨日酒でも飲んで、意識が混濁していたに違いない。
それで、何故か台所で寝てしまったのだ。
謎の少女云々の話は、酔ったときにした妄想か、今さっきまで見ていた夢の中の話に違いない。
それならば納得がいく。
「はははっ、小説なんて書いてると、つまらない妄想をしちまうもんだぜ……」
俺は、少しばかり寂しげにそう呟くと、パソコンの原電をつけるべく、自分の部屋へと続く襖を開けた。
「さてと、パソコンをつけて、いつもの様にメッセ友達に挨拶でもっと……」
ちなみにメッセとは、パソコンで登録した相手と文字で会話ができるツールであり、俺はこれを使ってネットで知り合った仲間と交流をしている。
襖を開けたその先に、布団が敷かれてあるのを発見した。
――あれ、俺は布団は一組しか持っていなかったはずだぞ……。
頭を捻りつつも、俺はその布団をまたぐように移動して、パソコンの電源をつける。
その時、布団の中から、なにかうなる様な声が聞こえた。
一体なんだろうと、俺は布団の端を少しめくってみた。
「ぐわっ!」
俺は声を上げかけて口をふさいだ。
俺は見た、布団の中から姿を現した、細くて白い足を……。
どうみても、女性の足だった。
――どういう事なんだ、落ち着け、落ち着くんだ。もしかすると、俺はまだ夢の続きを見ているのかもしれない。うむ、そうに違いない。夢なんだ!
俺は自分にそう言い聞かした。
それでいて、俺の心の中の探究心というものに火がついた。
スケベ心ではない、探究心だ!
俺は恐る恐る、脚が見えた布団を、更にめくっていく。
そうすることにより、何か発見があると思ったからだ。確実にスケベ心などではないのだ。
白い足からさらに、太ももの辺りが俺の視線に飛び込んできた。
肉付きのあまりない、ほっそりとした太ももだった。
――なるほど、こいつは寝相が悪くて、パジャマがずり上がってしまったんだな。
俺は納得した。
さらに、俺の探究心はメラメラと音を立てて燃え出した。
その刹那。
俺の眼前から、白くて細い物体が姿を消した。
「色気の欠片もない女に、手を出すはずがないと、仰っていた人がいたはずだと記憶していたのだけれど、記憶違いだったかしら」
かわりに、俺の背後に、禍々しいオーラを発して立っている少女が一人存在していた……。
「いや、あの、これは、その、違うんだ! 夢だと思っていたんだ! そう、きっと夢だ! これも夢に違いない!」
「そう、なら夢から覚ましてあげるわ」
俺の身体に電流が流れるのを感じた。
その後数秒、俺の記憶は途切れていたことを付け加えておこう。
「はぁはぁ、死ぬかと思ったわ!」
俺は瀕死の虫のごとく地べたに這いつくばったまま、声を荒立てた。
「大丈夫よ、電流を一番弱くしておいたから」
「あらそう、それはありがとうございました。 っていうと思うか!」
姿勢をただした俺は、鷺ノ宮に向かい怒りをあらわにして、自分の腿を叩いた。
「あら、うら若き女性の布団に悪戯をしようとしていた男が、どういう開きなりようかしら?」
「ごめんなさい。わたくしめが完全に悪うございました」
俺は即座に土下座した。床に頭が擦り付けられるほどに頭を下げた。
そうだ、俺は眠っている女子高生に悪戯をしようとした男だ。
変態だ! 変質者だ! 警察に通報されてもおかしくないのだ!
更に俺は頭が畳を貫通するのではないかというくらい、深く下げ続けた。
「もういいわ。反省しているようだからゆるしてあげる」
「そうか! ありがとう」
「それに、私たちはフィアンセという事になるのだから」
続く。