いただきます。
俺は少し言葉を失い、夜の道をただ黙々と歩いた。
点々と等間隔で存在している街頭は、時として俺の足元を暗くさせ、進むべき岐路をぼやかせる。それはまるで俺の人生そのものであると思えた。
進むべき道も、戻るべき道も、どちらも薄暗く、足元もおぼつかない。そんな人生。
ここ最近の俺は、そんな薄ぼんやりとした道ですら見ようとしてはいなかった。それは両の目を閉じて綱渡りをするがごとく……。
ある意味自暴自棄になっていたといえよう。
もし、足を滑らせて落下したとしても、それはそれで仕方のない事だと、自分自身を納得させる為の、布石にしてしまっている、それだけの事なのだ。
いいや、もっと簡単な言葉で言い表すことができる。
――見たくないのだ。知りたくないのだ。自分自身の生き様などというものを。
「そうか、俺はまだいつ死んだとしてもおかしくないわけだ」
俺の言葉は、鷺ノ宮に向けて発せられたものではない。誰に向けたわけでもなく、ただ虚空に漂うだけの言葉だった。
「そっか、そっか」
俺は頭を上下に2度ほど振った。それは頷いた仕草だ。
「納得するのね……」
「え?」
鷺ノ宮は、俺の姿を見ようとはしない。
「いいえ、なんでもないわ。なんでもないのよ」
そう言うと、鷺ノ宮は歩くスピードを速めた。
俺の前を、どんどんと進んでいく鷺ノ宮。
俺は安堵の息を一つついた。
なぜならば、俺の前にいてくれれば、俺の姿を見てもらわなくてすむからだ。俺はわかっている、今の自分の姿が、表情が、死というものを享受しようとしていると言うことを。
立ち向かう、刃向かう、挑む、そんな気持ちをいつしか無くしてしまっていた。
いいや、もしかすると最初から持ち合わせていなかったのかもしれない。ただ、そんな気持ちがあるものだと思い込んでいただけなのかもしれない。
俺がそんな夜の闇に溶けてしまいそうな、暗い思いにとらわれていると、鷺ノ宮は咄嗟に足を止めた。
そして、やっとこちらの顔を向いて言葉を発するのだった。
「道に迷ったわ」
だから、どうした、私は何一つとして悪くはない。そういう気持ちがこめられている言葉だった。
「まぁ、そりゃそうだ。はじめてきた場所なのに先頭切って歩いていれば、道にも迷うってもんだなわ」
「和久はそうだとわかっているのに、私に先頭を歩かせたわけなのね?」
「いや、それは……」
「これは、私に先頭を歩かせてしまったあなたのミスね。そうでしょ?」
「そ、そうなるのか」
「そうなるのよ。マイナス15点だわ」
「そのマイナス15点ってのは一体何だよ」
「このマイナスが100点になると、和久は死ぬわ」
ろくでもない事を、この女はきっぱりと言い切った。
「ちょっ! どういう理屈でそうなるんだよ! それ以前に、道に迷わせただけで死に15パーセントも近づくのかよ!」
「あら、か弱き女性を道に迷わせるなんて、それだけで万死に値しても問題ないことだと、私は思うのだけれど」
「それだと、世の男共の死体で、町中はあふれかえることだろうよ」
「そうね、良いんじゃないかしら。食糧問題もエネルギー問題も一挙に解決できて」
「お前はそんなに男が嫌いなのかよ」
「いいえ、私が嫌いなのは、デリカシーのない無粋な男だけよ」
「へーへー」
「そして、和久が漏れなくその枠に入っているだけのことなのよ」
「じゃあ、あれだな。俺なんて死んでしまえばいいんだな」
「それは駄目」
言葉の質が違っていた。
今までの俺に向けられていた、罵倒と悪態以外の何者でもないそれとは、全く違う言葉だった。
「どうしてなんだ?」
「前にも言ったでしょ。私はもう決めてしまったの、和久を『死の運命』から守ると」
「だから、どうしてそんなことを決め――って、それを聞いても答えてはもらえないんだったな」
「あら、少しは学習したみたいね。賢くなったわ。ご褒美にバナナを一本あげるわ」
そう言って、鷺ノ宮はスーパーの買い物袋の中からバナナを一本差し出した。
俺は素直にバナナを手に取った。
バナナは一房78円だった。それが安いか高いかはよくしらないが、値段の割りには量が多く食べがいがあるので好きな果物の一つだ。
ここは素直にバナナを剥いて食べるべきなのか、それとも動物扱いされたことに突っ込みを入れるべきなのか。
迷った結果、バナナは俺の胃袋の中に納まった。
仕方がないのだ、俺はとてもお腹がすいてるのだから。
バナナは甘かった、そして美味かった。
味わっている間に、俺たちはアパートへとたどり着くのだった。
部屋に戻ると、俺の胃袋はフルパワーで非常ベルを鳴らし始めた。
――とても素直な奴だ。
確かに、たかだかバナナ一本を胃に収めたところで、焼肉を食べるはずだった俺の胃袋様が満足するはずがなく、至極当然の反応といえよう。
「まるで子供ね」
そう呟く鷺ノ宮の嫌味など聞いている余裕などはなかった。ともかく急がねばならないのだ。早急にこの胃袋様のご機嫌を良くさせねばならない。
これが俺の指名、なすべき道なのである。
「うおぉぉぉ、俺は食うぞ、飯を! 今すぐに!」
一応深夜と言うことを考慮したレベルの雄叫びを上げ、俺は食材の入ったビニール袋を手に台所へと向かう。
「待ちなさい」
その俺の行く手を阻む存在が一人。まぁあえて誰かという必要もあるまい。この部屋には俺と鷺ノ宮の二人しかいないのだから。
「へ、ここは絶対に待つことなどできねぇぜ。なぜならば、俺の胃袋様はエマージェンシーコールを発しているからな!」
ぎゅるる、ぐるるるぅ。
「私が料理をするといっているのよ」
「え……」
絶句した。
「なんなのかしら、そのリアクションは。とても失礼極まりないように思えてならないのだけれども」
「いや、料理……できるのか?」
「ええ。当たり前じゃない」
「そうなのか」
「そうよ」
「そうか」
淡々とした言葉が、小気味良く続いた。
「わかったら、和久は向こうにいっていなさい。横にいられるだけで作業効率が3割は遅れてしまうわ」
「はい」
俺はまるで小さな子供のように素直に台所を後にした。
なぜ、刃向かわなかったのか?
それは、刃向かうべき理由がこれといってなかったと子もあるのだが、実際のところは、腹が減りすぎていて思考が回らなかったことが大きな原因であった。
台所からは、鷺ノ宮が料理をしているであろう音が聞こえている。
そういえば、あいつは俺の家の台所を熟知してるはずもないのに、どうやって料理を作るのだろう。調味料の場所はわかるのだろうか?
そんな疑問は三秒後に解決することになる。
「十秒以内にこの家にある調味料を私の目の前に並べなさい」
そんな、仰せの言葉が台所から発せられたからである。
俺は分身せんばかりのスピードで、調味料と包丁まな板などという料理に必要な器具を鷺宮の前に並べた。
「遅い! 28秒はかかっていたわ」
「数えていたのかよ……」
「用が済んだら、さっさと向こうに行って頂戴。和久に見られていると出来上がる料理の美味しさが36パーセントはダウンしてしまうわ」
「俺の視線はどんなパワーを秘めているんだよ!」
と言っては見たものの、すぐさま台所をあとにする俺がいた。
そして待つこと、20分ほど。
台所から漂いだすなんともいえない良い匂い。
そして、運ばれてくるその良い匂いの物体。
それは料理、当たり前のことだがまさしく料理だった。
「何をぼさっとしているの、その汚いテーブルを料理を並べても平気なように片付けなさい」
料理の乗った皿を両手にもった鷺ノ宮の言葉に、俺は瞬時に従った。
テーブルの上のものを即座にかたすと、そこには料理の入った皿が並んでいく。
俺は家を出る前にセットしておいた炊飯器をテーブルのすぐ横に置くと、茶碗にご飯を盛り付けた。
ついでに、鷺ノ宮の分も盛り付けてやった。
テーブルの上に並んだ料理は、豚バラ肉と野菜の炒め物と、麻婆豆腐だった。
まぁあの材料からできるものとしては、至極普通なものだった。
予想の範囲を超えるようなとんでもない料理が出てこなくて良かったと、俺は胸をなでおろした。
「よおし、食うぞ!」
俺は胃袋の命じるまま、本能のままに、箸を炒め物の皿に向け伸ばした。
あと数センチで料理をつかめる! その瞬間に俺の箸は何者かによってはたきおとされた。
「な、なんだとぉ! 俺の食欲を阻むものは何だ!」
「和久、あなたは食事をする前にいただきますの一言も言えないの? もし言えないようならば、この箸で両目をえぐってあげてもいいのだけれど」
鷺ノ宮の手に握られた箸が、まるで拷問道具のようにおぞましく見えた。
「い、いただきます!」
俺は両手を合わせて大きな声で言った。
「こ、これで食べてもいいんだよな?」
「なに、和久は食事の前に神様にお祈りでもする人なのかしら?」
「いいや、そんなことはしない」
「なら、食べてもいいと思うわ」
と、鷺ノ宮が言い終わるかどうかの瞬間には、俺は料理を箸でつかみ、更にその料理を口元へと誘い終わっていた。
噛む、咀嚼する。口の中いっぱいに、味が広がって、そしてそれらは胃の中へと落ちていく。
充実感、満足感、それはこういうことを言うのだろうと、俺は思った。
感情的なものではない、物質的なものでもない、本能的に感じる満足感がそこには確かにあった。
「美味い! 美味いよこれ!」
咄嗟に俺の口から言葉が出てきた。
「よかったわね。もしここで不味いなんて言っていたならば、和久がどうなっていたかなんてことは、食事中だけに想像もしたくないわ」
「ちょい待て! もし不味いって言っていたら、そんな想像もしたくないグロテスクな目に俺が合わされていたのかよ!」
前傾姿勢になり意見する俺に向かって、鷺ノ宮は人差し指を一本、チッチッチと顔の前で左右に振って見せた。
「考えないほうが、あなたの身のためよ。それに――せっかくの料理も冷めてしまうわ」
「なるほど」
とりあえず納得しておいた。
確かに料理は美味いのだ。
よくあんなほとんどそろっていない調味料で、美味く味付けができるものだと感心した。
大体男の一人暮らしの料理などというものは、塩、コショウ、醤油、この三点位で全部まかなってしまうものなのだ。
進む、進む、箸が進む。満たされる、満たされる、胃袋が満たされる。
胃袋から完全にエマージェンシーコールが途絶え一心地つくと、神的に余裕ができてくる。
精神的余裕は、コミュニケーションを生み出す。
そう言葉を交わそうとする。
「なぁ、鷺ノ宮、おまえ家でもよく料理をしていたのか?」
俺は料理に箸を伸ばす手を休め、鷺ノ宮に尋ねた。
「ええ。母は病気がちだったから料理は私がしていたわ」
「そうか、それで手馴れていたわけか」
正直、プライベートなことを話すのを嫌う鷺ノ宮のことだから、答えは返ってこないと思っていた。
しかし、鷺ノ宮もお腹が満たされて、一心地ついたのかもしれない。精神的な余裕、または緩みというものが生じているのだろうか。
だから、もう一歩踏む込んでみようと思った。
「なぁ、鷺ノ宮のお母さんってどんな人だったんだ?」
俺の問いに、鷺ノ宮の動きが止まる。鷺ノ宮の瞳に影が落ちていくのをはっきりと感じ取れた。
鷺ノ宮は箸を起き、まるでテーブルとにらめっこをしているかのように、視線を落とした。
「悪い悪い、気にしないでくれ! てかぁ、いやぁこの料理まじで美味いよ。うん、美味い美味い。ほんと、いいお嫁さんになれるよ!」
露骨なまでにわざとらし過ぎる取り繕い台詞だった。
勿論、鷺ノ宮自身も気がついているだろう。
「そうな、お嫁さんもいいわね」
まさか、その取り繕い台詞に鷺宮が乗ってきてくれるなどとは、俺のとって嬉しい誤算だった。
ことらの話に調子を合わせて言葉をつなげる。そういう事は普通の人ならば当たり前のように行う行為ではあるだろうが、この鷺ノ宮千歳と言う女は、そう易々とそんな事をするような女ではないと、俺は信じて疑わなかった。
はずなのに……。逆にこの事で、俺は確信することになる。
鷺ノ宮と母親の間には、大きな闇があるであろう事を。
「まぁ、相手が居てのことだけどな! はーっはっはっは」
「そうよね、ふふふふふふ」
笑いながら、鷺ノ宮の手は、俺の頬をまるで万力で捻るかのように抓ってくださったのだった。
それはとても痛かったが、俺は笑うのを止めはしなかった。
食事が終わると、鷺ノ宮はかいがいしく片づけまで買って出てくれた。
これは、家に置いてもらうということに対する、後ろめたさからなのか。それとも、俺にやらさせると汚い、雑だ! と言うことからなのか。むしろその両方なのかもしれなかった。
食器を持って台所に向かう鷺ノ宮は、ポツリとまるで独り言のように、小声呟いた。
「母も、見えていたのよ……。『死の運命』が……」
俺はその言葉を、聞こえない振りをした。
多分、それがこの場合において、正解ではないにしても、間違ってはいない判断だと思ったからだ。
続く。
パソコンを新しいのにかえたりしていて、続きを書くのがおくれましたああああああ。
次からはもっと早く書いていこうと思います。
多分……