夜空と理由
小柄な体格でありながら大きな金属パイプを振るった反動で、鷺ノ宮の身体は大きくふらついていた。
その時、額から大粒の汗が数滴地面へと滴り落ちた。
――綺麗だな……。
命の危機にさらされながら、ふとそんな事を思ってしまった自分がそこにいた。
しかし、そんな思いは次の瞬間に消え去っていた。
よろめいた姿勢を、両足を踏ん張り持ち直しながら、鷺ノ宮は金属パイプを大きく振りかぶると、それを振り下ろした。そう、更なる一撃を肉食デブに叩き込んだのだ。
「ぐぇ!」
養豚所で飼われている豚のような声をあげて、そいつは背中をのけぞらせた。
更に、一撃、もう一撃と、容赦なく金属パイプは奴の背中に叩き込まれていく。
――前言撤回、やはりこいつは鬼女だ……。
「お、おい、ちょっと待てよ! もう、それくらいにしておかないと、死んじまうぞ!」
俺の声が耳に届いたのだろうか、それとも疲労からなのかはわからない、鬼女はてに持っていた金属パイプを地面に落とした。
アスファルトに落ちた金属パイプは、カランカランと耳に障る音を夜の闇に撒き散らした。
「行くわよ……」
鬼女は、ぶっ倒れて動かなくなっている肉食デブを踏みつけると、俺の元にやってきては、俺の腕を引っ張った。
「い、行くってどこにだよ?」
「ここから逃げるのに決まっているでしょ、そんな事もわからないから、いい歳して彼女の一人も出来ない甲斐性無しなのね」
「な、なんだと!」
何故こいつは、俺に彼女は居ないという事を知っているのだ? エスパーか! それとも、見た目でわかってしまうほどに俺の全身から彼女いないオーラが出ているとでも言うのか!
しかし、今の俺が甲斐性無しであることは確実だった。
何故ならば、スタンガンのせいで、自力で立つ事も歩く事も出来ない状態なのだから……。
俺は鬼女に腕を引っ張りあげられ、更に肩を貸してもらい、やっと立ち上がることが出来た。
「すまないな……」
「ええ、本当に」
勿論、こいつは『そんな事ないわ』なんて返事を返すわけは無い。出会った時から、ずっとクールなポーカーフェイス、俺の言葉をサラリと交わす。
今だって、見ず知らずの男を鉄パイプで殴りつけたのというのに、この冷静さだ。
――もしかすると、こいつが死神なんじゃないだろうか?
命の恩人であるはずの、相手に向かって俺はそんな事を思ってしまっていた。
けれど、そんな事は妄想だと、すぐに俺は気がついた。
今だからわかる、俺の顔のすぐ横に、あいつの、鬼女の、鷺ノ宮千歳の顔があるからわかる。
あいつの顔はクールに振舞ってはいても、毛穴という毛穴から大粒の汗を噴出していた。そして、伝わるんだ、あいつの身体の震えが……。
小刻みに、小刻みに、鷺ノ宮の身体は震えていた。
荒い息づかいが、俺の頬に当たる。熱い、とても熱い息だ。
こいつはクールなんかじゃない、必死なんだと、そしてその必死さは俺を助ける為に使われたのだと、俺はその時知った。
「ありがとな……」
俺は照れくさげに、小声で囁いた。
返事は無かった。ただ少しだけ、ほんの少しだけ、鷺ノ宮の震えが収まったように思えた。
俺は、自分の意思に従ってくれないボンクラな足を引きずりながら、鷺ノ宮に引っ張られながら、1分に10メートルくらいしか進まないんじゃないかというスピードで、肉食ブタの元を離れていった。
そうして、ようやく少しばかり身を隠す事のできる場所を見つけると、俺たちはそこに腰を下ろした。
そこは丁度、建物と建物の隙間な様な場所で、人目から隠れるのにはもってこいの場所だったのだ。
何故、隠れなければならないのか?
「私にこのあなたを担いでいるみっともない姿で街まで行けというの? 冗談はあなたの人生と顔だけにして欲しいものね」
とんでもない言われようである。
確かに、俺の身体はある程度回復してきたとはいえ、完全ではなかった。だから、少しばかり休息をとって、それから移動しようというのだ。
ってか、そう言えばいいのに、何でこんな嫌味な言い方をするのやら……。
俺はその場に座り込みながら、夜空を見上げた。
それは、鷺ノ宮の方を見るのが恥ずかしかったからなのか、それともただなんとなくなのか。きっと、その両方からだろう。
歓楽街から離れ、街灯もほとんどないここからは、星が良く見えた。
「なぁ、星が綺麗だぞ」
「そう。星が綺麗だと、何か良いことでもあるのかしら」
「良い事も無いかもしれないが、悪い事も無いだろ」
「なら、無意味ね」
「そうかもしれないな、夜空を見上げる事に、意味があるかと言われれば、きっとないんだろうな……」
事の意味、無意味。
こいつのするべきことには、全てにおいて意味がなければならないんだろうか? なら、聞きたい事があった。
「なぁ、どうして俺を助けたんだ? あ、それ以前に、どうやって俺を見つけたんだ? もしかして、あれか、『死の運命』とかがわかるんだから、他にも凄い能力があったりとかか? こう、霊能力みたいな」
俺の言葉に、鷺ノ宮はフッと小馬鹿にしたような覚めた目をしてみせた。
「超能力とか、あなたいくつなの?」
「え……。いや、あの、二十八歳ですが……」
「そう言う事を言うのは、せいぜい中学生までにしておいたほうがいいわよ。これは私からの忠告よ」
「は、はい……」
女子高生に軽くたしなめられる二十八歳というものは、どれだけ無様なものであろうか想像していただきたい。
「じ、じゃあ、超能力は無しとして、どうやって俺を見つけたんだよ!」
「頑張った」
鷺ノ宮は一言そう答えた。
「は?」
「頑張って探したのよ。それ以外になにかあるの? あなたがいなくなってからほうぼう走って探したのよ」
「はぁ、なるほど」
「あと、しいて言えば、頭の悪そうな声が風に乗って聞こえてきたのが、耳に入ったおかげもあるわ」
「頭の悪そうな声って言うのは、勿論俺の声って事だよな……」
「他に頭の悪そうな人がどこに居るのかしら?」
くそ、こいつの頭の中で、俺という人物像がどう作られているのか見てみたい。いいや、前言撤回、絶対見てみたくない! きっと、この世の不要物を集めてこねくり回したようなもので構成された、出来の悪い泥人形みたいなものに違いない。
「ちなみに、どんな声が聞こえたんだ?」
鷺ノ宮は大きく息を吸い込むと、お腹にそれを流し込んだ。
「肉って最高だよなーーーーー!」
そして、言葉と共に息を吐き出した。
「そんな台詞は、頭の悪い人か、脳みそと声帯が直結している人しか口にしないわ。だから、一発でわかったの」
「はぁ、さいですか……」
どうも、発見の手がかりは俺の頭の悪さのお陰だったようだ。あぁよかった、俺ってば頭悪くって……てへへへっ。
「んじゃ、話を戻すけどよ。どうして、おまえは――」
そこまで言って、俺のオデコに前に感じた事のある衝撃が走った。
「鷺ノ宮千歳。名前は教えたはずだと思うのだけれど、あなたの小虫並の脳みそでは覚えきれていないのかしら?」
「へいへい、どうして鷺ノ宮千歳様は、そこまでして俺を『死の運命』とやらから、助けようとするんだ?」
「あなた、そんなに死にたいの?」
「いや、死にたくは無いけど」
「じゃあ、それでいいじゃない。死なないですんだのだから」
「そうかもしれねぇけどさ。さっきだって、下手したら自分の身が危うくなる所だったんだぞ? 何で、そうまでして俺を助けるんだ?」
「どうして、そこまでしてかたくなに理由を求めたがるのかしら。私がそうしたいと思った。それだけでいいじゃない」
会話はそこで途切れた。
途切れざるを得なかったと言うのが正しい。
「う、うううう、お肉、肉ゥゥゥゥゥゥゥゥゥ」
俺たちの目の前に、唸り声と共に奴が現れたからだ。そう、あの肉食デブだ。
思ったよりも、鷺ノ宮が与えたダメージというのは小さかったのか、それとも、もはや常軌を逸してしまっているこいつには、痛みなんてものが存在しなくなっているのかもしれない。
こうなると、狭い場所に隠れた事が、俺たちにとって不利となった。出口をふさがれてしまえば、完全に袋小路になってしまうのだ。
しかしも、さっき奴を倒したアイテムである鉄パイプは、既に捨ててしまって今はもう無い。
「ちくしょう!」
俺は地面を叩きつけながら、吐き捨てるように言った。
その時気がついたのだ。ある事に。
――動く!? 身体が動くぞ!
いつの間にやら、スタンガンによる一時的麻痺はとけ、俺は身体の自由を取り戻していたのだ。
「へっ、ここは汚名挽回のチャンスだぜ! 鷺ノ宮はさがってろ」
「待って!」
「いいから、俺に任せて後ろにさがっていろって」
「いいえ、これだけは言わせてもらうわ。汚名は返上するものよ。挽回してどうするのよ、このド低脳」
それだけ言うと、鷺ノ宮は俺の背中に隠れるように、身を潜めた。
「なんかさ、今の一言で俺のやる気パワーが三割はダウンしたぜ……」
と、こんな馬鹿なやり取りをしている間も、敵は待ってはくれない。
肉食ブタは、よだれを垂らし奇声を上げながら、何の躊躇も無く、俺に向かい全身でぶつかってくる。
ちょっと待て、避けるスペースは存在しない、後ろには鷺ノ宮。って事は、俺はこれを受け止めないといけないわけか?
体重差にして、四十キロほどはあるだろうか。その突撃を受け止める事は正直至難の業だった。
俺が柔術の使い手であるならば、相手の勢いを利用して、投げ飛ばす。などということも出来るのであろうが、俺は柔術どころか、何ひとつ格闘技というものをやった記憶が無いときている。
とまぁ、そんな思考をしている間にも、肉食デブの身体は俺の目前まで迫ってきている訳で……。
俺は、覚悟を決めた。何の覚悟かって? 玉砕覚悟で肉食デブの体当たりを受け止める覚悟だ!
大地に両足を根付くように踏ん張り、両手で構えて肉食デブの体当たりに備えた。
そして、今デブが目前に迫ったその刹那。
俺の背後から、ニュルリと白くて細い腕が伸びた。
そして、その腕の先から、つい少しばかり前に俺が見たことのある光が輝いた。
かと思うと、俺の目の前まで迫っていた肉食デブが、その場にバタンと倒れこんだのだった。
「こんな事もあろうかと、さっき拝借しておいてよかったわ」
そう、後ろから伸びた手は、勿論鷺ノ宮のものだった。そして、その鷺ノ宮の手に握られていたものは、俺を感電させたあのスタンガンだったのだ。
「あの……。俺の覚悟の立場は……」
「ないわね」
俺は、する事のなくなった両の手で頭を抱えてみた。とても切なかった。