駄目人間
俺は公園のトイレから出ようとして、足を止めた。
そして、踵を返すように洗面台の鏡に向かい合った。
――駄目だこれじゃ……。
鏡に映し出された男の顔は、涙で目を晴らしていた。
このままアパートに帰ったりすれば、この情けない顔を鷺ノ宮に見られてしまう事になる。それは何としてでも避けたいことなのだ。
俺は何度も何度も顔を洗った。顔の皮が向けてしまうのではないかという位にこすり続けた。
むしろ、皮だけでなく肉すらも削ぎ落としてしまいたかったのかもしれない。
そうでもしなければ、俺の心を侵食してしまった得体の知れない細菌は、落ちてくれない様に思えてならなかった。
――大丈夫だ、大丈夫だ。
自分に言い聞かせるように、心の中で何度も繰り返した。
そして、再び鏡の中に映る姿を見る。
そこに立っているのは、涙の後がすっかりと消え、間の抜けたギコチナイつくり笑顔を見せる道化が映っていた。
俺は公園を後にすると、家の近くのコンビニへと足を向けた。
そして、安くてアルコール度数の高そうな酒を適当に見繕った。
真っ昼間から酒を買い込む俺の姿は、きっとコンビニ店員の目には駄目人間に映ったことだろう。
けれど、それでいいのだ。
それは何一つとして間違いではないのだから。
いくら、顔を水で洗い流して、表面を取り繕っても、皮一枚隔てた俺の内部にうごめく思念は、混沌としたままで、人の、それも鷺ノ宮の前に立てる状態ではなかった。それならば、感覚を麻痺させてしまえばいい、その為に、アルコールの力を借りようと思ったのだ。
俺は人気のない路地の壁にもたれかかると、無造作にウィスキーのボトルのキャップをはずし、その中の液体を身体の中に取り込んだ。
せかして飲んだせいで、数度むせ返りはしたけれど、アルコールはどんどん体内へと吸収されていった。
俺は元来酒が得意なほうではない。
けれど、今ならはどれだけでも飲めてしまうような気がする。
だって、だってさ、味が全くしないのだ!! まるで、無味無臭だ。ただ、舌の先だけにピリリと痺れる感覚だけがあった。
そうは言うものの、胃の中がアルコールで満たされていくにつれて、俺の足元はふらつきだし、頭蓋はまるでヤジロベエのように、左右に揺れだした。
俺は千鳥足のまま、我が家に、鷺ノ宮の住むアパートへ向けて、歩き出した。
コンビニを出て、アパートまではたったの数分の距離のはずなのに、こんなに果てしない距離だと感じた事は無かった。
それは酒によって思うように歩みがままならないからなのか、嫌なことを先延ばしにしてしまいたいという俺の女々しい心根が帰路を遠ざけているのか……。
いくらかアパートの階段を登るのにてこずり、バランスを崩して身体を落下させそうになったものの、俺は今自室のドアの前に立っている。
俺は大きく息を吸い込んだ。そして2秒ほど息を止めると、ゆっくりとゆっくりと、その空気を完全に出し切るまで吐き出した。
きっと、吐き出された空気は酒臭いに違いない。
――南無三!!
俺は覚悟を決めてドアを開けた。
玄関の先にある台所に、鷺ノ宮は立っていた。
きっとお昼ごはんを作っていたのだろう。
その刹那、俺のオデコに衝撃が走る。
俺の顔を見るや否や、手に持っていた菜箸を俺のオデコに突き刺したのだ。
「ウゲェェ」
俺は思わず額を押さえ込んで、その場にうずくまった。
「あら、もしかすると、あなたは和久と呼称される単細胞生物だったりするのかしら? いいえ、そんなわけは無いわよね。だって、和久と呼称される単細胞生物は、私に無断であちこちをふら付き歩くことなどしないはずだものね」
尊大不遜な言葉を、俺に投げかけた鷺ノ宮は、ツカツカと俺の頭上に歩み寄ると、箸を持っていないほうの手で、俺の脳天を数度小突いた。
「脳みそはちゃんと入っているのかしら?」
それは、まるでスイカの中身が詰まっているかどうかを調べるような動作だった。
俺は頭を叩かれるままで、その場から立ち上がった。
俺が立ち上がれば、鷺ノ宮の身長では、俺の頭頂部を小突く事は物理的に出来なくなる。
「誰が立ち上がって良いと言ったの? そのまま亀のように座り込んで――って、何なのこの臭いは!?」
立ち上がった俺の吐き出した酒の臭いの充満した空気を、鷺ノ宮はいくらか浴びたのだろう。
「和久、あなたまさか……お酒を飲んでいるのかしら?」
「ああ、まぁな」
俺はそっけなく答えた。
鷺ノ宮は、呆れた表情をこちら向けると、何かを言いかけようとして、それを止めた。
俺は少し拍子抜けをした。
罵詈雑言の精神攻撃と、肉体に対する物理的攻撃を、浴びせられると思っていたからだ。
「――なにかあったのね」
鷺ノ宮は、真剣な表情で俺に尋ねた。
「……」
俺はその問いに何も答えなかった。
答えないということが、答えになっていると言うことにも気が付かないで……。
「そうでもなければ、貧乏の極致に立たされている和久が、金銭を食べ物ではなく、腹の足しにならないお酒等に費やすはずが無いもの」
俺は思わず苦笑した。
――そうだったな、俺と鷺ノ宮が始めてあったとき、俺は焼肉に目がくらんでは、肉肉肉と連呼していたんだった。
「まぁ、あれだ……。なんかはあったけど、大した事じゃないんだ。本当に大した事じゃないんだ」
「そう、大した事があったのね」
「だから、違うって」
「和久、あなたは自分の事が良くわかっていないわ」
鷺ノ宮は、俺の眉間を指差した。
「和久、あなたは私をだませるほど進化した生物ではないのよ。ミドリゴケと良い勝負してしまうくらいの生物だということを自覚してもらいたいものだわ」
どうやら俺の生物ランクは、猿などをとっくに通り越して、コケと同類らしい。
「だますとか、どうとかじゃなくて、本当になんでもないんだよ。だから、気にしないでくれよ」
俺は笑顔を作って言った。いつもの俺となんら変わらないように、出来る限り自然に……。
「それも、嘘。だって気にしてほしくないのなら、どうしてお酒なんて飲んできたのかしら?」
「いや、それは……」
「普段お酒を飲まない和久が、お酒を飲んで帰ってきて、それで気にするなといっても、無理というものだわ」
正論だった。
俺は、無意識に……いや、意識的に鷺ノ宮に気が付いてもらいたかったんだ。
涙を隠すため、心の混沌を隠すため? そんなの全部嘘っぱちだ!!
全部知ってもらいたかった。
そして、優しくしてもらいたかった。暖かくしてもらいたかった。抱きしめてもらいたかった。
いいや、抱きしめたかったんだ……。
「だから、何があったのか、話してみるといいわ。それで、私が力になれるかどうかはわからないけれど。力になろうと努力することくらいは出来ると思うから……」
優しい言葉。普段向けられることのない優しいい言葉がそこにはあった。
その優しさに身を浸してしまいたい、そう思った。
「だったら……」
俺は両腕を広げた。そして、勢いよく広げた両腕の中に、華奢な鷺ノ宮の身体を包み込んだ。
「な、何をするのよ!!」
「だったら、抱きしめさせてくれ」
「バ、馬鹿!! この変態!!」
鷺ノ宮は必死で抵抗した。俺の腕を払いのけようと、力を込めた。
けれど、それを許さぬように、俺は力いっぱい抱きしめた。
鷺ノ宮のか細い腕の力では、俺の腕力に逆らうことは出来なかった。
「馬鹿和久! 大馬鹿!! ニート!! 中二病!!」
鷺ノ宮は罵倒と共に、ほんの少しだけ自由の利く腕の先で、俺の身体を殴り続けていた。
それを無視して俺は抱きしめ続けた。
密着した鷺ノ宮の身体からは何か良い匂いがした。
骨ばった身体でありながらも、鷺ノ宮の柔らかい部分の感触が俺の身体に伝わってきた。
俺は抱きしめた腕を放さないまま、台所から部屋の中へとなだれ込み、勢いあまってつんのめる様に部屋の中央に倒れこんだ。
「痛いっ!!」
鷺ノ宮が声を上げたが、それは俺の耳には入らなかった。
部屋の中央で、俺は鷺ノ宮に覆いかぶさるかのようにして、全身を包み込んでいた。ほんの少し、俺が顔を前にすれば、唇と唇が触れ合う距離だ。
何かが、俺の中ではじけたような気がした。
それは、もともとあった俺の気持ちが、酒の力で解放されたのか、それともただ欲望のままに身体が反応したのか……。
――ああ、俺は馬鹿で駄目人間なのだから、欲望のままに動いているに違いない。他人の死を目にして、その悲しさを紛らわすためだなんて、そんな方便を使って、鷺ノ宮の身体を自由にしたかっただけなんだ。
俺は泣いていた。嗚咽を漏らしながら泣いていた。
「和久……?」
必死で抵抗を続けていた鷺ノ宮の手が止まった。
「俺は、駄目人間だわ。本当、鷺ノ宮、お前の言う通りだよ……」
そう言うと、俺は身体を深く深く、鷺ノ宮に重なり合うように倒した。
続く。