バイバイ
暫しの思考停止の後に、俺の脳細胞は目まぐるしいスピードで回りはじめた。
――そうだ、俺が勝手に女の子、しかもお嬢様だと思い込んでいただけで、実際の性別を聞いたこと等無かったじゃないか。すべては、ネットという文字だけの世界から生み出した、勝手な創造物に過ぎないじゃないか! いや、それは確かに、わかってはいる。しかしなんだこのテンションの下がりようは……。いやいやいやいや、俺は可愛い女の子に会う為に来た訳ではなくてだなぁ『死の運命』から逃れられる方法を教えてもらうために来た訳であって……。しかし、待てよ! パッと見が男の子に見えるだけで、実はボーイッシュな女の子だということは無いだろうか?
俺は3秒の間にこれだけの思考を展開させると。『姫子』と名乗る人物を上から下まで舐め回すかのように視線を這わせた。
うむ、いくらか頬がこけてはいるものの、整った顔立ち。さらに服装は体系を隠すかのようなパーカーに、冬であるというのにカーキー色のショートパンツ。そのショートパンツから寒そうに覗くおみ足は、男子のものとしてはあまりにも白くしなやかだった。
「君は、実は女の子だったりしたりとかは……?」
その問いかけには、俺の願いが込められていたといっていいだろう。
「いいえ、男です」
その願いは、そっけない一言の返事によって砕け散った。
「ああ、そうだよね。当たり前だよね。あははははははは」
俺は笑った。笑うことによって、俺の邪まかつ低俗な心を吹き飛ばしてしまおうとした。
「まぁ『姫子』は男でもあり、女でもありますけれどね」
「へ?」
「いいえ、何でもありません。気にしないでください」
少年は、表情一つ変えることなく、大人びた対応で返した。
「さぁ、行きましょう」
少年はそう言って歩き出した。
「えっ? ちょっと何処に行くんだよ!?」
少年は俺の問いかけに答えることもなく、一定の歩調でただ黙々と歩みを進めていった。
この時、俺の脳裏には嫌な予感が渦巻いていた。
そう、すでにこれが『死の運命』の始まりなのではないのかと……。
けれど、それは間違いだった……。
大きな、大きな間違いだったのだ。
それは――俺の『死の運命』などではなかったのだ。
「ハァハァハァハァ……」
呼吸が乱れている。
視界が乱れている。
俺は両手をトイレの洗面台についたまま、鏡を見つめていた。
そこには俺の顔が映し出されているのだろうが、それを確認するだけの思考は存在してはいなかった。
ここは、いつも立ち寄る近所の公園、その公衆トイレの中だと理解するのに、しばらくの時が必要だった。
俺は旧式の洗面台の蛇口を思い切りひねり、大量の水を噴出させると、その中に自分の頭を突っ込んだ。
俺の身体は震えていた。
それは、真冬の最中に冷水を頭から被ったせいではなかった。
俺はまるで犬のように頭を振るって水分を飛ばすと、鏡に映った自分に向かって言葉を吐いた。
「なんだよ……」
青ざめた顔をした鏡の中の男は、歯の根が合わずガチガチと歯を鳴らすだけだった。
「畜生!! なんだ! なんだ、なんだ、なんだ、なんだ、なんだ、なんだ、なんなんだよ!!一体なんだってんだよ!! 畜生!! 畜生!!」
ガツンガツンと鈍い音がした。
それは、俺が洗面台を殴りつけている音だ。
時間は数十分前に戻る。
俺は『姫子』と名乗る少年の後ろを、わけもわからないままついていっていた。
「おい」
「ちょっと」
「ねぇねぇ」
「何処に行こうというのかねー!」
等々エトセトラエトセトラと、俺がいくら言葉をかけたとしても、何一つリアクションを返す事無く、少年は駅の改札を抜け、ホームへと続く階段を駆け上がっていく。そして、数十名の乗客が電車を待つホームでやっと足を止めた。
――電車に乗ってどこかに行こうというのだろうか?
そんな俺の疑問を他所に、少年は目の前に停車した電車に乗り込もうともせず、ただ見送るだけだった。
「なぁ、電車に乗らないのか?」
「うん」
少年はやっと返事をくれた。ただし、こちらに振り向こうとはしなかった。
「じゃあ、これからどうするんだ?」
「うん」
「うん、じゃわからないだろ?」
「うん」
俺はこの時やっと理解した。
こいつは、俺の問いかけを聴いて等いないのだ。ただ、反射的に『うん』と言葉を返しているだけなのだ。その証拠に、少年はこちらを振り向く事無く、手元にある携帯電話をいじくりまわしていた。
――あれだろうか、携帯電話や、パソコン等の、ネット端末で無ければ会話ができないタイプなのだろうか?
「あ、来た」
「え?」
少年は顔を携帯の画面から上げると、初めてこちらを向いた。
「何が来たんだ?」
「カズさんの求めている答えだよ」
「俺の求めている答え……?」
何のことなのか、俺にとってはさっぱりわからなかった。
「じゃあね、バイバイ」
少年は左手を振りながら、右手で携帯のボタンを一つおした。
そして、初めて俺に向けて笑顔を見せた。
「おい!」
その言葉は届くことは無かった。
少年の身体はホームに向かって落ちていった。それと同時に、ホームには特急電車が……。この駅を通過する特急電車が……。
その刹那、俺の顔に何かが当たったような気がした。
それが何なのか、俺は思い出せない。
思い出したくない。思い出したくない。思い出したくなどない。
少年は、少年ではなくなった。
少年は、物言わぬ肉の破片となって、あたり一面に飛び散ったのだから。
「ハァハァハァハァ……」
過去の記憶を辿っただけで、俺の心拍数はまた上昇を始める。
俺はあのあと、逃げるようにホームから走り去った。
途中何度もよろめいたり、倒れかかったり、通行人にぶつかっのかもしれない。けれど、それは記憶には無かった。
そして、いま俺はここにいる。
「これは、夢なのか? 現実なのか?」
俺は洗面台を殴りつけた拳が血で滲んでいるのを見て、現実なのだと言うことを実感した。
けれど、不思議と痛くは無いのだ、感覚が麻痺しているのだ。まるで麻薬に犯されているかのように……。
――あいつは、あいつは何がしたかったんだ……。俺に自殺を見せ付けたかったのか? そんな事をして一体なんになるっていうんだ? 俺はどうすればいいんだ? 俺はあいつを見殺しにしたって事になるのか? 違うよな? そんな事無いよな? あいつは勝手に……そう、俺はあいつのことなんて何も知らないんだ。まともに会話もしてないんだ、そりゃネットの中ではたくさん会話をしたかもしれない、でも現実では数言しか言葉を交わしてないんだ。それだけでしかないんだ、だから仕方ないんだ。俺は何も悪くない、俺は何も悪くなんて無い……。
そう思った、そんな俺の思考が糞虫のそれであると言うことはわかっていた。
ただの責任逃れ、だからあの場から逃げたんだ。関係者だと思われなくないから。
俺は鏡に映る自分の顔に向かって唾を吐き捨てた。
「だからって……そうだったとして……俺に、俺に何が出来たって言うんだよぉ……」
足から崩れた。
張り詰めていた糸が切れたように、俺は無様に虫のようにトイレの床に這いつくばった。
コレカラドウシヨウ
ソウダ、イエニカエロウ
家に帰って、何事もなかった様に普通に生活をしよう。
鷺ノ宮相手に、馬鹿なこと言って、デコピンを食らおう。
悪態もつかれよう、山のように小言も言われよう。
そして、上手い飯を食わせてもらおう。
ソウダ、イエニカエロウ……。
俺は、血が滲んでいる拳を水で洗い流した。
ヒリヒリとした感覚のあとに、泣きたくなるような痛みが襲ってきた。
俺の感覚は、やっと戻ってきてくれたらしい。
濡れた手を拭くために上着のポケットからハンカチを取り出そうとしたときに、ふと携帯電話が手に当たった。
――そうだ、メールを、メールを全部消去してしまおう。
俺は『姫子』から送られてきたメールを消去しようとして気が付いた。
まだ読んでいない、未読のメールが一通あることに……。
俺は恐る恐るそのメールを開いた。
『死の運命から逃れる唯一の方法、それは自ら死を選ぶこと。そうすれば、もう死の運命に追われる事はなくなる』
そう書かれていた。
送信時間は……あの電車に飛び込む直前のものだった。
「これが……『死の運命』から逃れる方法だっていうのかよ……これが……」
俺は笑っていた。
この世界の全ての残酷な運命に笑うしかなかったのだ。
続く。