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痛み


 台所で俺は眠っていたはずだった。

 そう、俺の寝室といえば台所、台所といえば俺の寝室。

 これは、鷺ノ宮が俺の家にやってきてからの不文律であった。

 ゆえに、俺は毎度毎度冷蔵庫が奏でる憂鬱なモーター音に頭を痛めながら、眠りについていたはずだった。

 だがしかし、いま俺のいる場所はどこだ?

 四畳ほどの狭い台所に、遥か彼方の地平線が見えているのは一体全体どういうことなのだ?

 訳も分からずに、俺は真っ白で広大な空間に、ポツリとたたずんでいた。

 俺はこのとき、すでに薄っすらとは気がつき始めていた。

 そう、ある事実に……。

 そんな時、何も存在しなかったはずの空間に、突如としておっぱいが出現したのだ。

 おっぱいといっても、そのものがベロリンチョと出てきたわけではない。清楚な白いレースの下着に包まれて厳かに登場したのだ。

――ほぉ、これは良いものだ。

 おっぱいマイスターであるところの俺には、たとえ下着の上からでも、一目見ただけでおっぱいの良し悪しがわかるのだ。

 この張りといい、つんと前方に突き出した綺麗なお椀型の形といい、これは芸術品と呼んでもいいだろう。

 俺は、触ってしまいたい衝動に駆られた。

『触ったらぁ入信ですよぉ~碓氷さん』

 唐突におっぱいが喋った。

 口の無いおっぱいがどうやって言葉を発したのか、それは定かではない。

 と言うか、この時点で、俺は完全にわかってしまっていた。


――ああ、これは夢の中なのだ。


 昨日あった強烈な出来事を、脳が記憶していて、それを抽象的に再現しているのだろう。そう確信した。

 ならば、夢の中ならば、揉んでしまっても問題は無いのではないか!?

 そうだ! 現実で出来なかった事をかなえる事が出来るからこそ、夢なのではないのか!

 良し揉もう、さぁ揉もう、いざ揉もう。

 俺の決意の炎が、天高く燃えたぎったその刹那、ピシッと言う破裂音と共に地面に何かが叩きつけられた。

 そこに立っていたのは、鞭を片手に携えた鷺ノ宮千歳その人であった。

――夢の中にまで来て邪魔をしなくても……。

 しかし、そこに現れた鷺ノ宮はいつもの鷺ノ宮ではなかった。

 俺が目にしたのは、いつものセーラー服ではなく、セクシーなボンテージ衣装に身を包んだ鷺ノ宮の姿だったのだ。

 俺は絶句した。

 身体にピッタリと密着する衣装は、鷺ノ宮の胸が平らであることを、完全に露呈させていた。

 しかし、それと同様に、白鷺のように透き通る手足も白日の下に晒させてくれていた。

 鞭を構えた鷺ノ宮は、俺のほうに向けて一睨みをすると、俺のすぐ足元に向けて、鞭を振り下ろして見せた。

 そのとき俺は、こう思ってしまっていた。

 いや、そんな思考が俺の本心などであるはずは無い、そんなはずはないのだが……こう思ってしまっていた。


――鷺ノ宮の鞭でぶたれてみたい……。


 その思考を鷺ノ宮が読み取ったのか、ニヤリと不敵な笑みを浮かべると、今度は俺の身体を狙って鞭を振り下ろした。

 そして、俺の身体に鞭が触れようとした瞬間……。


「えっ?!」

 ブーンブーンと重苦しい冷蔵庫のモーター音が、俺の耳に聞こえていた。

 そう、そこは夢の中ではなく現実世界。

 俺は、鞭でぶたれる前に目が覚めてしまったのだ。

「惜しいことをした……」

 そう口に出した後、俺は大きく頭を左右に振り回した。

――俺はいったい何を考えているんだ! ボンテージ衣装の鷺ノ宮に鞭でぶたれたいなどと、そんなのはまるで変態の思考ではないか!! まだ、おっぱいマイスターのほうが数倍普通ではないか!

 実際のところ、おっぱいマイスターと、SMのどちらの方が変態度が上なのかと言えば、両方共に立派な変態だといえるのだが、俺は生来おっぱいマニアであることは自覚してはいたのだが、まさかSM趣味があろうなどとは思ってもみなかったのだ。

 しかも、あの凹凸のかけらも無いボディを持ち、さらに小学生並みの身長を誇るあの鷺ノ宮に鞭でぶたれてみたいなどと……。

 SMだとしても、いきなりハイレベルなシチュエーションではないか!

――悪い夢だ、悪夢だ! 悪夢に違いないんだ! だから忘れよう、この夢のことは記憶の中から削除してしまおう。

 しかし、忘れよう忘れようと思っていることほど、忘れられないものであり、それ以前に、俺は襖一つ隔てた隣の部屋にいるであろう鷺ノ宮のことが気になって気になって仕方がなくなっていた。

 そう言えば、自分で起きたのは久々だった。

 何故なら、いつもは鷺ノ宮が俺を叩き起こしてくれるからだ。

 昨夜は疲れ果てていたために、かなり早い時間に就寝したので、俺のほうが先に目が覚めたのだろうか?

 俺は襖を軽くノックしてみた。

 しかし、何一つ反応は無かった。

――やはりまだ眠っているのだろうか?

 さらに、今度は強めに襖をノックしてみた。

 しかし、またしても反応は無かった。

「おぉーい、起きてるかー?」

 声をかけてみたものの、先ほどと同様に無反応だった。

 それならば、これはもう襖を開けるしかない。

 二度にわたるノック、そして声をかけまでしたのだ、もし襖を開けた時に着替え中だったとしても、俺に責任は無いはず。

 まぁ鷺ノ宮のことなので、責任の有無など無く、攻撃を仕掛けてくることは明白なのだが――むしろ攻撃されるのは望むところだ!

――はっ!? の、望むところ!? 俺は鷺ノ宮から攻撃を受けたがっている!?

「ハッ……ハハハッ」

 俺は乾いた笑いをする事で自分自身を誤魔化してみせた。

「コホン」

 わざとらしい咳払いをひとつしながら、俺はゆっくりと音を立てないように襖をあけた。

「えっ……」

 そこには、布団の中で寝息を立てている鷺ノ宮の姿は存在しなかった。

 それどころか、布団すら存在してはいなかった。

 部屋の中央にはあるべき布団はなく、ちゃぶ台が一つ置かれているだけだった。それはごく普通の光景であるはずなのに、とても物悲しく見えた。

 狭い六畳の部屋だ、隠れる場所などあろうはずも無い。そう、鷺ノ宮はこの部屋にいないのだ。

――まさか、実はトイレに!?

 俺は急いでトイレに向かい、慌ただしくノックをした。

 この時点で俺の思考はいささか混乱していたと言えるだろう。もし、トイレに鷺ノ宮が居たとしたら、乙女のトイレに介入したのだ、それはもう地獄の攻めを食らう事は必至であった。

 まぁ地獄の攻めをわざわざ望んでの行動だとするならば、それはある意味辻褄が合うと言えなくも無いのだが……。

 しかし、俺のノックに対して返事は存在しなかった。

 残る場所は風呂場ではあるが、それはドアを開けるまでも無く、外からでも中に人が居ないことは容易にわかるので、除外された。

 それ以前に、風呂場の入り口はトイレ同様に、台所にあるのだから、俺が台所で寝ていると言うのに、風呂に入るはずがあるわけが無い。

「さ、鷺ノ宮……」

 俺はここに来て、やっと理解するのだ。

 鷺ノ宮がこのアパートのどこにも居ないということを……。

 俺が寝ている間に、鷺ノ宮が居なくなってしまったということに……。

 俺は天井を見上げた。

 そこには古ぼけた蛍光灯が灯っているだけだった。

 そのままの姿勢で、二十秒ほど俺は固まってしまっていた。

 何故二十秒だったのかというと、首がそれくらいで痛くなったからだった。

 俺は大きなため息をつきながら、部屋の中央に胡坐をかいて座った。

 そこから四方に視線をやって見せても、そのどこにも鷺ノ宮の姿はありはしない。

 目を閉じてみる、そして心の中で十秒数えてみる。

 そして、勢いよく目をあける。

 勿論、そんな事をしたとしても、鷺ノ宮の姿が突如現れたりはしなかった。

「あははははは……。もしかして、今も夢の続きなんじゃないのか? さっきとは違って、やけにリアリティのある夢なだけじゃないのか?」

 そこまで思考して、俺は急に怖くなってしまった。

――果していったいどこからが夢で、どこからが現実なのか……。

 鷺ノ宮に出会ってからの非現実的な日々、それらはすべて夢だったのではないのか? 俺は今の今まで夢想していただけなのではないのか? そして今、目が覚めてしまったのではないのか?

 急激な寒気が俺の身体の芯を襲い、ガタガタと全身を振るわせた。

 もしそうだとするならば、俺は今日からまた何の変化も無い日々を、一人で生きていく事になる。

 生きているのか死んでいるのかもわからないような日々を、ただ淡々と黙々と……。

「嫌だ……。そんなのは嫌だ!! 絶対に嫌だ!」

 俺は、この時はっきりとわかってしまったのだ。

 鷺ノ宮という存在が、俺の心の中心にどっかりと居座ってしまっていたことに。

 どこかの歌で言っていた。幸せなんてものは無くしてからはじめて気がつく、そのような事を言っていた。

 いいや、俺が無くしたと思っているのは、幸せなんてものではない。例えるならば、生きているという実感そのものなのだ。

 鷺ノ宮との生活は、俺に生というものをまざまざと感じさせてくれた。まぁ主に、身体と心に絶えず痛みを与えてくれると言う事で、確実に生を感じさせてくれていた!!

 痛みを感じることで、俺は生きていると思えていたのだ。

「そうだ! 俺は鷺ノ宮から痛みを受けることで、生の実感を得ていたのかもしれない!!」

 そう叫んだ刹那。

 玄関のドアが開いた。

「そこまでの変態だったとは、私は和久を甘く見ていたわ……」

 開かれた玄関の扉の先に、ちびっこな少女は立っていた。

「さ、鷺ノ宮ああああ! お前本当に鷺ノ宮だよな? 本物だよな?」

 俺はこの時、少し涙を流していたのかもしれない、鼻声だったのかもしれない。

「気持ち悪いことこの上ないとはこの事ね……。和久こそ、朝から脳みそに虫でも沸いたかのような発言をして、本当に和久なのかしら?」

「馬鹿やろう! 俺は俺だ! だから、鷺ノ宮は鷺ノ宮だよな!」

「言っていることが、よく理解できないのだけれど、私が鷺ノ宮千歳であることに間違いは無いわ」

「良かった……」

 俺はほっと胸をなでおろした。

 そして、そのまま俺は鷺ノ宮の身体を抱きしめてしまっていた。

「な、何をするの!? 和久、あなた――」

「良かったー本当に良かったぁ~!!」

 俺はさらに力をこめて、小さな鷺ノ宮の身体を包み込むように抱きしめ続けた。

 モゾモゾと腕の中から逃げ出そうと抵抗する鷺ノ宮のことなど、まるでお構いなしに抱きしめ続けた、

「いい加減にしなさいっ!」

 鷺ノ宮の言葉の直後、俺はみぞおちの辺りに強い痛みを感じ、団子虫のように丸まった姿を晒すことになった。

「一体全体何がどうしたと言うの?」

「い、いや、目が覚めたら鷺ノ宮の姿がなかったもんだから……。いきなりどっかに消えちまったのかと……」

 少し呼吸困難に陥った俺は、みぞおちを押さえこんだまま、たどたどしく答えた。

「私は燃えるゴミを出しに行っていただけなのだけれど……」

「そ、そうだったのか。いやぁ、居ないもんだからついつい驚いちまって」

「驚くのはこっちのほうだわ。ゴミ捨てから戻ってみれば、和久はドM宣言をしながら抱きついてくるのだから……」

「ち、ちげぇよ! 俺はドMなんかじゃねぇよ! そ、そんなことあるわけないだろ! ありえないだろ! とするとなんだ、今も鷺ノ宮にみそおちを殴られて喜んでいるとでも言うのかよ!!」

 そう言いながらも、なぜか俺の頬は緩んでいた。

「まさか……本当に喜んでいるの?」

 鷺ノ宮の目は、明らかに不審者を見る目だった。

「そんなわけないだろ! ないないないないなーい! ありえなーい!!」

 俺は、ゆるんだ顔の表情を強引に正すと、全力全開で否定した。

「そう、それならいいのだけれど。駄目屑ニートでさらにドMなどと言う物体に、どう接していいのか普通の人類である私にはわからないわ」

 もはや、生物のカテゴリーを越えて物体として扱われてしまうらしい。

 こんな罵倒を受けながらも、俺は少し気を抜くと、笑顔になってしまいそうだった。

 嬉しいのだ。

 いいや! 殴られたことや、罵倒されたことが嬉しいのではない!!

 鷺ノ宮が居てくれている事が嬉しくて仕方がないのだ。


「ところで、私はこれからお風呂に入りたいので、和久はしばらくの間どこか適当に出かけてきてくれないかしら」

「へ?」

「昨日、色んな事があったせいで、疲れてお風呂に入らないまま眠ってしまって、気持ちが悪いのよ」

「はぁ」

「だから、私がお風呂に入っている間、外に出て行っていてほしいと言っているの」

「もし、嫌だと言ったら?」

「そうね、外に行かないというのであれば、意識がなくなるまで、スタンガンで電流を流してあげるというのはどうかしら?」

「いってきます!」

 俺は即座に玄関に置かれているスニーカーを手に取り、慌てて外に出かける用意をした。

「和久、外はまだ寒いのだから、上着を着ていくといいわ」

 鷺ノ宮はそういうと、クローゼットから上着を一着とって、俺に向かって放り投げた。

「さんきゅー」

 俺はその上着を無造作に羽織ると、鷺ノ宮の電撃攻撃が来る前に、急いでアパートを出たのだった。

  

 

 俺はアパートを飛び出したものの、勿論行く当などなどあるはずはなかった。

 さらに言えば、どこか店に入るようなお金も持ち合わせてはいなかった。

 追い出されるように外に出たのだ、それは仕方がないことだと言えよう。

 俺は鷺ノ宮に投げつけられたコートのポケットをまさぐってみた。指の先に金属の感触が当たった。

 取り出してみると、それはなんと五百円玉ではないか!

――これがあれば、缶コーヒーでも飲んで公園で時間つぶしくらいは出来る!

 俺はコンビニに向かうと、しばらくの間雑誌コーナーで立ち読みをし、その後ホットコーヒーを購入すると、店を後にした。

 五百円あったのだから、缶コーヒーだけでなく、肉まんなども買うことが出来たのだが、どうせ戻れば鷺ノ宮が朝食を用意してくれていることだろうから、やめておいた。

 貧乏人に無駄使いは厳禁なのである。

 


 平日の朝の公園は、ものの見事に誰もいなかった。

 まぁ誰かいてもらっては、いささか居辛いと言うこともあるので、俺としてはラッキーこの上ないのだけれど。

 まぁいい歳こいた男が、一人ベンチに座ってボーっとコーヒーを飲んでいると言う姿は、あまり人に見せたいものではないのだ。

 そういえば、ほんの少し前に、中条さんとコンビニで出会い、この公園でコーヒーを飲んだのだった。

 俺はとっさに周りを見回してみたが、中条さんの姿はなかった。

 あれから、中条さんはどうしているのか、気にならないわけではなかったが、極力考えないようにしていた。

 出来ることならば、あの怪しい宗教から手を引いてもらいたいものだが、昨日の事件を完全に忘れてしまっている状態では、そうなる可能性はないだろう。

 缶コーヒーを飲み干した俺は、手持ち無沙汰に上着のポケットに手を突っ込んでいると、ポケットが急激に震えだした。

 それは、ポケットの奥に突っ込まれていた携帯電話が、メールの着信を告げた振動だった。



 続く。

 


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