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お兄ちゃん

 俺がメールに対して思考を働かせるよりも早くに、鷺ノ宮の料理は完成した。

 そうなれば、お腹の中に住んでいる小動物の奴が、キューキューと愛らしい泣き声を連発しているような有様である所の俺の全神経が、メールの事など完全に忘れ去ってしまって料理に集中したとしても、致し方ないことだろう。

 テーブルの上に並べられる料理の数々から溢れる湯気が、俺を手招きするように誘惑しているように見えて仕方が無かった。

――いっその事、テーブルごと食ってしまいたい……。

 それほどまで俺の身体を食欲が支配していた。

「待て!」

 まるで、飼い犬に命令するかのような鷺ノ宮の言葉が、今まさに料理に手を出さんとする俺の動作を静止した。

「どれだけ和久がお腹を空かせているかは、安易に想像が出来るのだけれど、それでも、ちゃんと『いただきます』とは言うものだわ」

 鷺ノ宮の言う言葉は正論であった。だがしかし、俺の食欲と言う名の猛獣にそんな論理は通用しないのだ! 

 一度は止まった動きであったが、食欲と言う名の獲物を狙う猛獣は動きを再開した。

「待て!!」

 俺の動きは再度停止した。

 つまりは、俺の中の食欲と言う名の猛獣すらも、鷺ノ宮によって飼いならされてしまっているという訳だ。

「い、いただきますっ!」

 そして、俺は鷺ノ宮に、もう食べてもいいか? の確認の視線を送ると、鷺ノ宮はそれに対して頷いて答えて見せた。

 その仕草を確認するや否や、すでに俺の箸は音速を超えるほどの速度に加速され、皿に盛られたおかずをつかんでいた。

 そんな俺を、鷺ノ宮は呆れたような目で見ていた。


 それは、何時もと変わらぬ食卓。

 いいや、何時もと言うのは、少し変なのかもしれない。

 俺がこのアパートに住むようになってからは、結構な年月が立っている。

 それに比べて、鷺ノ宮がここに住み着いてからは、まだ一ヶ月も立ってはいないのだから、何時もの風景と言うのはいささかおかしいと言えるだろう。

――まぁ1日1日に密度と言うものがあるのならば、ここ数週間の生活は、俺の数年の生活よりも濃いのかもしれないな。

 それはすなわち、俺が鷺ノ宮と出会うまでの日々が、どれだけ薄っぺらなものだったのかを示唆していた。

 そして、俺の中で、鷺ノ宮千歳という存在が、大きな位置を占めているという事も、同じように示唆していた。

そう、もはや揺るぎのない事実として存在しているのだ。

 その鷺ノ宮と言えば、俺と同様にお腹は減っているではずであるだろうに、がっつく事などなく、優雅に箸を動かし、バランスよくおかずとご飯とお味噌汁を食していた。いわゆる三角食べというやつだ。

 片や俺は、何も考えずに、無言で目の前にある料理を片っ端から平らげていた。


「いやぁー今日のご飯は美味しいな」

 腹の中が幾らか落ち着いた俺に、やっと味わうと言う余裕が出てきていた。

「今日? それを言うのならば何時もの間違いでしょう? 私のつくる料理が美味しくなかった時があったとでも言うのかしら?」

「いや、あの、そう言う意味ではなくてだな」

「なら、どういう意味なのか、簡潔に説明してもらいたいものだわ」

 ただ料理を褒めたはずなのに、何時の間にやら尋問を受けている状態になっているのは何故だろうか。

「今日のは特別に美味しいって言う事だよ」

「それは間違いね。それは、和久のお腹が何時もよりも減っているだけの事でしかないわ。だって、私の料理は何時もと何ら変わりないのだから」

「……」

 鷺ノ宮の言う事は一々もっともだ。

「――でも、こう言わせて貰うわ。ありがとう」

 何故だろう。

 ただ一言『ありがとう』それだけの言葉をもらっただけなのに、俺の胸はドキドキと心拍数を上げている。

「ありがとうって、言ってくれてありがとう」

「なにそれ? 意味がわからないわ。そんな意味のわからない事をいう暇があるのならば、早くその旺盛な食欲を満たす事に集中しなさい」

「ああ、そうだな。そうさせてもらう」

 俺は、その言葉に従うように、料理に手を伸ばす事を再開した。

 矢継ぎ早に注ぎ込まれる料理を消化するのに、俺の全神経は胃袋をフル回転させることに使われた。

「身体に悪い食べ方以外の何者でもないわね……」

 そんな鷺ノ宮の言葉を意に解する事無く、ただひたすらに俺は飯を食った。

 飯を食べることだけに集中した。

 そうする事によって、高鳴ってしまっている胸の鼓動を、忘れささせようとしたのだった……。

 

「ふぅ、食った食った」

 よくもあれだけ食べたものだと、我ながら感心するほどの量を、俺は胃袋に詰め込んだ。

 鷺ノ宮は、俺の食事が終わった事を確認すると、綺麗に平らげられた皿を、台所へと運ぼうとしだした。

「あ、いいよいいよ、俺がやるよ」

 俺は、重くなった胃袋と身体をよいしょっと持ち上げて立ち上がると、鷺ノ宮の手から皿を奪い取った。

「一体どうしたと言うの? 何時もならば、そのまま寝転がって無駄に怠惰な時間を過ごすのが常な和久が……」

「いいだろう、俺だって手伝いをしようと思う時くらいはあるさ」

「何か裏があるのではないのかしら……」

「たかだか皿を運ぶだけで、そんなのあるわけないだろう」

「いいえ、和久はそんな見返りもなく善意を行う様な人間ではないと、私は信じているわ」

「頼むから、そんな所は信じないでください……」

 疑いの眼を浮かべ続ける鷺ノ宮を何とか説得すると、俺は腕をまくりながらお皿を持って台所へと向かった。

「まぁ、鷺ノ宮はそこでのんびり座ってろよ。俺が全部後片付けやっといてやるからさ」

「――変だわ、やっぱり和久は何か変よ? あの宗教団体に変な催眠術でもかけられたのではないの?」

「ばかっ! そんな訳ないだろ」

 と、言っては見たものの、よく考えて見れば、俺はあの変な薬を飲まされたのだった。

――後で副作用とか出てきたりしないよな……。

 急に心配になっては見たものの、とりあえず今の所は、俺の身体には何の変化も見られはしないので、気にしない事にしておいた。

「変よ……変だわ」

 鷺ノ宮はブツブツと言い続けていたが、俺は無視して洗い物を始めることにした。

 俺は鼻歌混じりで皿を洗っていた訳だが、仕事をとられた鷺ノ宮はと言うと、手持ち無沙汰に何をして良いかわからないまま、時間を持て余している様だった。

「やっぱり、私も手伝うわ」

 ついに我慢の聞かなくなった鷺ノ宮は、ズカズカと台所に乱入すると、俺の真横に立って、スポンジとシンクに置かれている皿を手に取った。

 狭い台所の、さらに狭いシンクだ。二人が横並びに立てば、それは肉体が密接するという事になる。

「俺がやるから、休んでいろってば」

「和久の洗った食器なんて、一つたりとも信用ならないわ。ほら、この食器まだ完全に油汚れが取れていないじゃない」

 鷺ノ宮は、俺の洗い終えた皿を手に取っては、テストを採点する教師のような口調で言って見せた。

 流石の俺も、この言葉にはいささかカチンと来た。

 どうして、俺のささやかな善意に対してこのような反応をされなければならないのか!

「人の好意は黙って受けとけよ!」

「好意の押し付けなんていらないわ」

「押し付けって……。さっきは素直に『ありがとう』って言ったくせに……」

「なら今も、『ありがとう』そう言って、素直に座っていれば良いという事なのね」

「そうだよ。まさにその通りだよ」

「わかりました。和久のご好意に甘えて、私はゆっくりとさせていただきます。――そんな事を私が言うとでもおもっているのかしら?」

 鷺ノ宮はさらに割り込むように自分の身体を押し込み、俺を押しのけてシンクを独占しようとした。

 その時に、鷺ノ宮の胸と太ももが俺の身体に密着しかけてしまい、ジェントルメンである所の俺はシンクの前からすごすごと撤退するしかなかった。

「本当に、素直じゃないな」

「あら、そんな事とっくに知っていると思っていたのだけれど、知らなかったのかしら? この私が、そんなに素直である筈が無いでしょう」

 確かにそうだった。

 鷺ノ宮が素直であったときなど、今の今まで一度たりともありはしなかった。

 敗北が決した俺は、台所を完全に鷺ノ宮に明け渡すと、部屋に戻り何時ものように畳の上で胡坐をかいて、ボケーッとする羽目になったのだ。

「頼ってくれてもいいのに……。俺は一応年上だし、男だし……」

 畳に話しかけるように、俺は呟いた。

 勿論、畳は返事などしてはくれなかった。

「聞こえているわよ」

 返事をしたのは畳ではなく鷺ノ宮だった。

 小さな声で呟いたとしても、この狭いアパートの中では筒抜けてしまうのである。

「まぁ、確かに和久は戸籍上年上ではあるし、性別が男である事も認めるわ。けれど、それと頼りがいがある事とは、全くの別問題だと私は思うのだけれど」

「うっさい! それでもな、少しくらいは頼られたいものなんだよ!」

 頼りがいの無い点を、否定出来ない俺が切なかった。

「わかったわ。そこまで言うのならば、頼ってあげてもいいのだけれど、どうすればいいのかしら?」

「へっ、どうするって?」

「どうすれば、人に頼る事が出来るのかという事よ。私は、人に頼るという事を良く知らないのよ……」

「いや、改めてそう言われるとだな、俺もなんて言って良いか……」

 首を傾げて見せる俺の内心は、とても複雑なものだった。

 どうすれば人に頼れるのかがわからない、そう真顔で言う鷺ノ宮が、どんな人生を送ってきたのか? まだ鷺ノ宮は十六歳なのだ。大人に頼って生きるのが至極当たり前な年齢だ。なのに、鷺ノ宮は、人に頼る方法がわからないと言う……。

「そうだ!」

 俺は大きく手を叩いて見せた。

「鷺ノ宮、俺の事を、今日から和久お兄ちゃんと呼ぶんだ!」

 俺の言葉を聞いた鷺ノ宮は、馬鹿を見る以外の何者でもない視線を俺に向けていた。

 その視線を、約十五秒ほど無言で受け続けた頃だろうか、鷺ノ宮は小さくため息をついてから、言葉を続けた。

「そう呼ぶ事で、何をどうすると、人を頼る事に繋がるのか、私のような至極まっとうな人間にはサッパリ見当がつかないのだけれど。良ければ説明していただけるかしら」

「わからないのか? お兄ちゃんと言えば、古今東西頼りがいのあるものと相場が決まっているんだよ! だからだ、まずは形から入ってみようというわけだ!」

 鷺ノ宮の視線が、馬鹿を見るような視線から、可哀想な者を見る視線へと変化していた。

「わかったわ」

「へ?」

「わかったと言っているのよ。和久お兄ちゃん」

 俺は言葉の持つ破壊力が、座っていたはずの俺の身体を強烈に吹き飛ばした。

 俺は体勢を崩され、両手両足をおっぴろげながら畳に仰向けで寝転がる形になった。

 一体何が起こったのか!!

 予想外なのだ。この状況は自分で提案しておきながら、完璧に予想外なのだ!!

 まさか、まさか、あの鷺ノ宮が、俺の事を『和久お兄ちゃん』等と呼ぶなんてだれが思うだろう、それは予想の遥か斜め上以外の何者でもない!!

「どうしたの和久お兄ちゃん?」

 皿を洗い終え戻ってきた鷺ノ宮の言葉に、俺は殺虫剤をかけられたゴキブリのように、手足をもがかせた。

「うぐぁぁぁぁっぁ」

「何を悶え苦しんでいるのかしら、和久お兄ちゃん」

「ギャーーース」

 俺は部屋を右から左へとゴロゴロと転がり回った。回らざるを得なかった。

「和久お兄ちゃん、お皿洗いは終わったわ。今日は疲れているだろうから、もう寝る準備をしましょうか、和久お兄ちゃん」

「ウガーーーーーッ。はぁはぁ……す、すまなかった」

「あら、一体何がすまないのかしら、和久お兄ちゃん」

「俺が悪かった、俺が悪かったから、もうその呼び方は辞めてくれ……」

「あら、どうしてかしら? 私はこの呼び方、結構気に入りかけているのだけれど――和久お兄ちゃん」

 そこに居るのは、もう鷺ノ宮ではない、完全な小悪魔だ。

 その時、俺はその場で頭を畳に擦りつける様に深々と土下座をしていた……。

「本当に、ごめんなさい。もうそのような事は二度と言いませんので、その呼び方だけはご勘弁を……」

「ふふふふふ」

 鷺ノ宮の不敵な笑みだけが、この部屋の中を満たしていた。




 和久お兄ちゃんと呼ばせない事に成功した俺は、完全に疲れ果ててしまい、今にも立ったまま気を失いそうな状態にまで陥っていた。

 そんな事が無くても、宗教事件により十二分に疲れていたというのに、まるで無意味な所で無駄なパワー使っていてはこうなるのは自明の理という所だろう。もはや俺の疲労度は当社比三百パーセントは蓄積されている事だろう。

 そんな訳なので、即座に布団を敷き、眠りに着くことにした。

 その意見には、鷺ノ宮は賛同した。

 流石の鷺ノ宮も、疲れ果てているに違いなかったのだ。

 

 俺は何時ものように台所に布団を敷き終えると、不意にふすまが開いた。

 そこからチョコンと顔を出した鷺ノ宮は、悪魔のような笑みをこちらに向け、こう言った。

「おやすみなさい、和久おにい――」

「うわあああああああ」

 先ほどの悪夢が脳裏に蘇っては、俺に絶叫を促がした。

「うふふふふふ。おやすみ、和久」

 そう言って笑う鷺ノ宮は、まるで無邪気な子供のように見えた。

 きっと、俺は良い玩具に違いない。


 俺は布団の中に、頭まで潜り込むと、今日起きた出来事に思いを馳せた。

 だが、それは無意味に終わった。

 何故ならば、布団に入った数十秒後には、俺は夢の世界へと沈んで行ってしまったからだ。



 続く。


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