20分の質問タイム
タクシーに乗り込んだ俺と鷺ノ宮は、運転手にアパートまで向かってもらうように告げると、そのまま黙り込んでしまった。
タクシーの運転手がいるとは言え、後部座席は俺と鷺ノ宮の二人きりの空間。そして無言。
二人きりでいることなど、アパートの中ではごく当たり前の事だったはずなのに、何故か少しの息苦しさを感じた。
その理由はわかっている。
俺も中条さんと同様に、今日一日の間に、知らないほうがいいであろう情報を、大量に知ってしまったからだ。
そして、その答えのいくつかを、多分鷺ノ宮が知っている……。
だから、もし今、口を開いてしまえば、俺は鷺ノ宮に質問をぶつけてしまう事だろう。
それは、良い事なのか?
やっても、良い事なのか?
知る事によって、全てがおかしくなってしまわないのか?
――おかしくなる? 何言ってんだ、もうとっくに俺の人生はおかしくなっちまっているはずだ。なのに、今更何を怖がる?
鷺ノ宮は窓の外の一点をじっと見つめたまま、人形のように固まっていた。
その瞳には、一切の感情が感じられないように思えた。
鷺ノ宮は、アパートにいる時も、こんな瞳でどこかを見ているときがある。
その視点の先を俺は探ってみるのだが、そこにはこれといったものは何もありはしないのだ。
そんな時、俺は見て見ぬ振りをして過ごしてきた。
それが、どのような意味を持っているのかなんて、考えないようにしてきた。
どんな気持ちで鷺ノ宮がいるのかなんて、考えないようにしてきたんだ。
「何を見ているんだ……」
俺は無意識のうちに、今までしないようにしてきたはずの問いかけを鷺ノ宮にしてしまっていた。
「何も見てはいないわ。ただ、少し疲れただけなのよ」
鷺ノ宮は、小さくて形の整った唇だけを動かして答えた。
「そうか、疲れたのか」
「ええ、そうね」
会話はここで途切れた。
実際の所、俺も疲れていた訳だし、鷺ノ宮も疲れているだから、無理に会話をする事などないのだ――そう勝手に理由をつけて自分を納得させた。
――逃げ道を考える時だけ、俺は一人前だな……。
そんな事を思考しながら、俺は目を閉じた。
真っ暗闇な世界は、俺の疲労した精神を溶け込ませるのには最適だった。
「ぐへっ」
腹部に強烈な痛みを感じて、俺はまどろみの世界から現実の世界へと、身体を仰け反らせて、即座に目を覚まさせられた。
「もうすぐ着くわよ」
痛みという手荒なモーニングコールをもたらしてくれたのが、鷺ノ宮であることは、考えるまでもない事であった。
「着く? なにが?」
俺は一瞬その言葉の意味を理解し得なかったが、窓の外の景色が見慣れたものであることに気がつくと、ここが自分のアパートからさほど離れていない場所である事を認識した。
「運転手さん、ここで止めてください」
鷺ノ宮は、運転手にそう告げた。
「えっ、ちょっと待てよ。まだ、家までは少しあるだろ?」
「いいのよ。私は少し夜道を歩きたい気分なのだから」
――鷺ノ宮だって疲れているはずだろうに、なんでまた歩くなんて……?
そう思ったが、口に出すことは出来なかった。鷺ノ宮の瞳が、俺の反論を許してくれそうには見えなかったからだ。
俺はタクシーの運転手に料金を支払うと、まだ少し睡魔の残る気だるい身体を強引に持ち上げるようにして、タクシーを降りた。
「ふぅ……。ここから家まで歩いて2.30分ってところか」
「そうね」
先にタクシーを降りていた鷺ノ宮は、ボーっと夜空を見上げていた。
俺もつられるように夜空を見上げると、そこは数個の星が煌くだけの、さびしい空だった。
「まぁ、都会の空ってのはこんなもんだろうな」
「そうね、こんなものでしかないわね」
そんなとりとめもない会話をしているうちに、タクシーは走り出していた。
小さくなっていくテールランプを見ながら、この後に乗せる客が、俺たちのようではなく真っ当な人間であるようにと、俺はお節介にも祈っておいた。
「それじゃ歩くとするか」
俺はいささか不機嫌そうな口調でそう告げた刹那、それの返事とでも言わんかのように、鷺ノ宮に左足の股の辺りを軽く蹴りつけられた。
「そんなに歩くのが嫌なのなら、走ってもいいのよ? その方が早く家にたどり着けると言うものだわ」
「走るほどの力はもう残っちゃいねぇよ」
「そう、でも私に疑問を問いただす力くらいは残っているんじゃないのかしら?」
「へ?」
俺は足を止めて、鷺ノ宮を見つめた。
鷺ノ宮も同時に足を止めて、俺を見つめた。
俺はそのとき頭にピーンとひらめいた。鷺ノ宮がこんな場所で車を止めた理由がわかったような気がしたのだ。
ずっと俺が鷺ノ宮に色んな疑問を問いただしたがっていた事に、鷺ノ宮は気がついていたに違いない。
そのための時間を、鷺ノ宮はくれたのだ。
「いや、その……別に聞きたい事なんて……な」
なのに、その機会を潰してしまう様な発言を俺はしてしまった。
「歩いて家にたどり着くまで、あと約20分。質問を受け付けるのはその間に限定するわ。家に着いてしまえば、質問の時間はおしまい。それでも、何も聞きたくなどないのね?」
そう言うと、早足でもなくゆっくりでもない普通のペースで鷺ノ宮は歩き出した。
一歩一歩と進むにつれて、俺はこの疑問を問いただすチャンスを失っていくのだ。
――それでいいのか?
そう思った瞬間、俺の口からは言葉が飛び出していた。
「――あの男は、本当に鷺ノ宮の父親なのか?」
時間を限定されてしまう事により、俺の知的好奇心から発生した疑問は暴発した銃のように口の中から飛び出してしまっていた。
鷺ノ宮は、暫し目を伏せて考え込んだ後に、小さなため息を一つついてから言葉を発した。
「そうね、認めたくないことなのだけれど、DNA鑑定をすれば確実に私の父親と言う事になるでしょうね」
「どうしてあんなに仲が悪いんだ? そして、どうしてあんな宗教をやってるんだ? どうして、鷺ノ宮はあの場所に俺がいることがわかったんだ? どうして――ふぐぅ!」
俺の口は、鷺ノ宮の手のひらによって強引に閉じられた。
柔らかい手の感触が唇に伝わって……俺は何故だか赤面してしまう。
「出来る事なら、一つずつにしてもらえるかしら? まとめて説明した所で、ネアンデルタール人から進化をしていない和久の脳みそでは理解できないでしょ?」
まぁ、まだ人類である事を認めてもらっているだけ良いとしておこう……。
「最初の質問に答えてあげるわ。私とあの男の仲が悪い訳――それは、私の母に酷い仕打ちをしたからよ……」
「酷い仕打ち……」
「前に少し話したことがあると思うのだけれど、母は『死の運命』を見ることの出来る力を持っていたわ。あの男はそれに目をつけたのよ……。そして、その力を利用して――」
「あの宗教を作り上げたって訳なのか?」
「そうね、人の死がわかるという事は、お金になるとあの男は思ったのよ。権力者ほど無様なほどに自分の命に固執するものね。詳しく説明するのも反吐が出るような事を、あの男は繰り返す事によって、あの教団を作り上げたのよ……」
『死の運命』にとりつかれていない人間は、急死することがない。もし病気で苦しんでいたとしても、それが見えていなければ、当面は安心という事になるのだ。それを預言者のように言って回れば、確かに神のような扱いを受ける事になるだろう。
「母はね、信じていたのよ。そうする事によって、人が救われると。いいえ、あの男にそう信じ込まされてきたの! 本当ならば、ずっと目を閉じて静かに暮らしたかったはずなのよ。ううん、私はそう暮らしたかった……。なのに、あの男は――」
俺は、鷺ノ宮の言う言葉の通りに信じる事は出来なかった。
何故ならば、その鷺ノ宮のお母さんの力によって救われた、安心感を与えられた人は確実に存在していただろうからだ。
それによって、地位や富を得るという事が良い事なのかどうか俺にはわからない。
しかし、お母さんのやった事は何ら悪い事ではないのだ。
けれど、娘である鷺ノ宮からすれば、誰がどうなろうとも、母親と普通に幸せに暮らしたかったに違いない。
平穏な暮らしを過ごすと言う、ささやかな幸福に繋がる選択肢を、あの男は潰してしまった。
それを憎悪する事は間違いではない、俺はそう思った。
「和久は、あの電話でオフィーリアの像がどうのと言ったわよね?」
「ああ」
「オフィーリアの像があるところといえば、それはもう決まっているわ。だから、私は和久を助けに向かうことが出来たのよ」
「そうだったんだ……」
「それに、あのオフィーリアの像は、母を模して造られたものなの」
そうなのだ。俺があの像をはじめて見た時に、何故か親近感を持ったのは、鷺ノ宮にどこか雰囲気が似ていたからだったのだ。
母親を模して造られた像が、娘に似ていたとしても、それは何ら不思議ではない。
「これで一応の疑問は解けたかしら?」
「ああ」
その時ちょうど見覚えのあるボロい建物が目に入った。
それは俺の住んでいる――俺と鷺ノ宮が暮らしているアパートだった。
「狙いすませたように、いいタイミングね」
鷺ノ宮は、俺をおいて先にアパートの階段を早足で駆け上がっていった。
俺はといえば、急激に吸収した情報を脳内で整理しきれないでいた。
けれど、それよりも、何よりも、一番気になったのは、どうして鷺ノ宮が俺に話をしようと思ったのか?
『単細胞生物にいちいち話す言葉など持ち合わせてはいないのよ』
そう言って、煙に巻いてしまうことだって出来たはずなのだ。
それなのに、俺の質問に答えてくれる気になったのは何故なのだろう。
もしや、話をしたかったのではないのか――誰かに聞いてもらいたかったのではないのか? そう、それは今日だけの事ではなく、鷺ノ宮はいつも誰かに自分の話をしたかったんじゃないのだろうか? そんなサインを、そんなパルスを、いつも発していたんじゃないのか!
俺が気遣う振りをしていた事は、まるで逆効果だったのかもしれない。
どれだけ俺が罵倒されようが、うざがられようが、鷺ノ宮と話をするべきだったのではないだろうか。
まぁ、これは俺が今ふと思いついただけの事でしかない。
鷺ノ宮の心のうちは、鷺ノ宮自身でしか知りえないのだ。
もしかすれば、本人である鷺ノ宮ですらも、おのれの胸の内を理解しえてないのかもしれないのだが……。
――とりあえず、悩んでいても始まらない。俺の脳みそは悩むということに向いていないようなのだ、なんせネアンデルタール人並なのだから。
俺は鷺ノ宮の後を追いかけるようにして、階段を駆け上がった。
階段は金属のきしむ音を立てて、俺の帰りを迎えてくれた。
アパートのドアの前に立ち、俺はわざとらしく咳払いを一つすると、勢いよくドアを開けて、こう言った。
「ただいま」
「おかえりなさい」
ドアの向うには鷺ノ宮がいる。
出迎えてくれている。
さっきまで一緒だったのに、この挨拶はおかしいかもしれない。でも、何故だろう、とても安心するのだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「ただいま!」
「おかえりなさい」
「ただいま!!」
「玄関でそんな大きい声を出していると、ご近所迷惑になるということがわからないのかしら? そんなだから、三十路前の駄目屑ニートなのよ」
「ただいま……」
「もぉ――おかえりなさい」
呆れたような口調ではあったが、優しい瞳を鷺ノ宮は俺に向けてくれていた。
思わず、涙が溢れてしまいそうになったのを消してくれたのは、その時唐突に大きな音で鳴り響いてくれた腹の虫のおかげであった。
「すぐに、夕飯の支度をするのだから、すぐに食事が出来るようにテーブルの準備をしておいて欲しいわね」
「了解した」
俺は靴を脱ぎ捨て、部屋に舞い戻ると、テーブルの上を片付け始めた。
ほんの数時間居なかっただけだというのに、こんなにもこの部屋が懐かしいと思った事は今までなかった。
そして、懐かしい部屋の一部として、鷺ノ宮千歳という存在は、無くてはならないものとなっている事にも俺は気がついたのだった。
俺よりも一回り以上も幼いくせに、俺よりも辛くて重い過去を背負った少女。
そんな事を微塵も感じさせずに、何事も無いように夕飯の支度をする少女。
「頑張ろうな!」
俺は台所にいる鷺ノ宮に向けて、これまた近所から苦情が出そうなボリュームの声を張り上げた。
「和久は、テーブルの片付けをするだけで、それだけの決心を必要とするのね。流石ニートの精神構造は計り知れないものだわ」
呆れる鷺ノ宮を尻目に、俺は小さくガッツポーズを決めていた。
何に対して、どういう風に頑張るのか。それはまるで見当すらつきはしない。
何故ならば、俺は三十路前の駄目屑ニートなのだから。
それでも、そうだとしても、俺は頑張る――そう思ったのだった。
そんな時、不意に携帯電話のメール着信音が鳴り響いた。
差出人は『姫子』と書かれていた。
『私が死の運命から逃れる方法を教えてあげます。だから、今度オフで会いましょう』
メールにはそう書かれていたのだった。
続く。