肉を食べる人
俺の脳細胞の約九割は肉の事で占められていた、残りの一割はと言うとあの鬼女のことだ。
――あいつ、鷺ノ宮千歳とか言ったな、あいつはまだ俺の事を探しているのだろうか? それとも、また適当な男を捕まえては、死の運命がどうのこうのと意味のわからない話をしているのだろうか?
そんな事を考えているうちにも、俺の周りの景色はドンドンと人気のない場所へと変化していっていた。
高校の時の同級生だと名乗る男は、俺に対して何ひとつ言葉をかわすことも無く、まるで何かに急かさせるかのように、歩くスピードを速めていっていた。
「おいおい、こんな人気の無い場所に、焼肉屋があるのか? しかし、こんな場所に店を出すなんざ、よっぽど偏屈な親父がやってる店なんだな?」
俺の言葉に、そいつはノーリアクションだった。
「あれだよな、焼肉だとなにが好き? 俺はやっぱり肉の王道カルビだよ! カルビの嫌いな男なんていないよな?」
リアクションがあるとか無いとかのレベルではなく、俺の言葉はそいつの耳には届いていないかのように思えた。
もしかすると、こいつはとんでもなく耳の悪い奴なのかもしれない。そう思った俺は、奴の鼓膜にダメージを与えない程度の大声を振り絞りそいつに声をかけた。
「肉って最高だよなーーーーー!」
その言葉に反応するように、奴の肩がピクリと痙攣するかのように上下した。
良かった、俺の言葉は聞こえていないわけではなかったんだ。
「良かった、ちゃんと声は聞こえてるんじゃねぇかよ。んでさ、その焼肉屋はもうすぐなのか? てか、どうみてもこのあたりに店なんてありそうにないんだけど」
俺は辺りを見回した。確かにこのあたりに店などというものは存在しない。それどころか、ここは立ち退き済みで取り壊されるのを待っているマンションが立ち並ぶ場所だった。
暗闇の中に、まるでモンスターのように鎮座する元高級マンションが、不気味さをかきたてていた。
「もしかして、あれなのか? このマンションの中に違法に店を出してるとか? いやいや、それはまずいよなやっぱ。ってことは……まさか! 夜鳴きラーメンならぬ、夜鳴き焼肉! 屋台の焼肉屋があるというのか!」
不気味さよりも食欲、それが今の俺の全てだった。
頭の中に描き出される、屋台の焼肉屋。
へいらっしゃいと無骨ながら根は良い人そうな店主が迎えてくれて、その日に仕入れた生きの良い肉を目の前でさばいてくれる。そして焼く! 焼く! ほとばしる肉汁! 口の中で生まれる味のハーモニー!
「違うよ……。実は僕がその焼肉屋の主人なんだよ」
奴はその場で足を止めると、やっとまともな人間らしく言葉を口にした。
「ほぉ、そうだったのか。だから、そのお店の宣伝もかねて、俺を招待してくれたって訳かぁ。なるほどなるほど。でさ、どこに店があるの? んで、今日のお勧めのお肉とかあるの?」
「お店はここだよ」
「ここ? ここって、言われてもなんもないぞ?」
「そして、お肉はここだよ」
そう言って、そいつは俺のほうに向けて指を指した。
俺は指差されている方向、つまりは後ろを振り向いた。
しかし、そこに何かがあるはずは無く。ただ闇が広がっているだけだった。
「おいおい、なんにもないじゃねぇかよ」
その刹那、俺は身体の感覚が鈍くなるのを感じた。
「え、あれ……おい……」
俺は突如足元から崩れ落ち、その場に突っ伏してしまう。何故俺が倒れてしまったのか、その原因が何なのか。
それは奴の手に持っているスタンガンが教えてくれた。
俺は振り向いて背を向けている隙に、奴のスタンガンを背中に食らったのだ。
何故? どうして? なんのために?
疑問符だけが、頭の中を連続して流れた。
「さっきも言っただろ、お肉はここにあるんだよ」
――まさか、それって……。
「そう、お肉はお前だよ。お前が肉なんだよ。お前は肉なんだよ、肉なんだよ、肉なんだよ、肉なんだよ」
高校の友人だと名乗った時の、奴は消えうせていた。
今の奴の表情は、狂人のソレだった。
いや、もしかすると、こいつは元から高校の友人ですらなかったのかもしれない。
ならばこいつはなんなのか?
『死の運命』
その言葉が不意に頭を駆け巡った。
「さぁ、確かカルビがお好きなんだったよねぇ。でも残念だよね、食べるほうじゃなくて食べられるほうでさぁ」
そう言って、奴は懐に隠し持っていた包丁を取り出した。
いとおしそうに、その包丁を頬に当ててそのヒンヤリとした感触を楽しんでいる奴の顔は、歓喜に満ち溢れていた。
やっとだ、やっとこの状態になって、俺は今おかれている状況がとてつもなくヤバイと言う事に気づくのだった。
遅すぎるだろうと、人は言うだろうが、食欲という本能に犯されてしまっている間は、危機察知能力というものは極端に低下するのだ。
その完全に鈍ってしまっていた危機察知能力が、今ここで俺の命が危うい事に警鐘をならしだした。
――おいおい、遅すぎるだろう、今更どうしろって言うんだよ!
俺は自分の危機察知能力に意見をして見たが、そうした事で何ら事態が好転する訳ではない事も知っていた。いわゆるただの愚痴でしかない。
そして俺が危機察知能力に文句をつけている間にも、この事態は休む事無く展開し続けていた。
一歩、また一歩と、奴の歩みが俺のほうへと向かってくる。
俺はまだスタンガンのショックで身体の自由がほとんど聞かない状態だった。
つまりは、逃げる事が出来ないでいた。
いや、まだ動くようになった部位が存在する。それは俺の舌だ。
「おい! おい待てよ! なんでだ! なんでなんだよ! 何でお前そんなことするんだよ、知ってるか、人を殺したら殺人だぞ、犯罪だぞ、刑務所だよ、臭い飯だぞ、わかってんのか?」
必死で叫んでいるつもりなのだが、実際の所は俺の横隔膜は大した機能をしてくれていないようで、通常の数分の一のボリュームしかでてはくれなかった。それでも、奴の耳に届くには申し分の無いはずだった。
「くふふふふふ、くふふふっふう」
なのに、奴は奇異な声を上げるだけで、俺の声など耳に届いてはいなかった。
いや、もし俺の声が通常以上に出ていたとしても、奴の耳には届かなかっただろう。
奴はもうこの世界の何者の言葉も聞き入れる事はしないだろう。
すでに、常人とは別世界の扉を開けてしまっているのだ。常軌を逸した世界では、通常の言葉など耳にはいろうはずも無い。
「おい! やめろ! まじでやめろ! 俺なんか食っても美味くねえぞ! 毎日インスタント食品ばっか食ってるから、不味いぞ!」
けれど、俺は言葉を発する事を止めはしなかった。何故ならば、効果が無いと知ってはいても、これ以外に出来ることが存在しなかったからだ。
いわゆる、悪あがきって奴だ。
そして勿論、悪あがきは悪あがきだ。
状況を打開した悪あがきなんてものは、ほとんど存在しないと言っても過言ではない。
「さぁ、君のお肉は僕に食べられて、僕のお肉になるんだよ。どうだい、嬉しいだろ? 嬉しいだろ?」
「嬉しいわけねえだろ! 死ねデブ! 腐り落ちて今すぐ死ね!」
「デブ……。今、僕の事をデブって言ったな……」
始めて、俺言葉に奴は反応した。そう『デブ』と言うキーワードに。
「そうだ! デブをデブと言ってなにが悪い! やーいデーブ、デーブ! お前のかあちゃんもデーブ!」
我ながら、小学生以下の暴言だと思う。しかし、これが相手に対して効果をあげる事になった。
「う、うるさい、うるさい、うるさい! 僕はデブじゃない! 母さんもデブなんかじゃない! 違うんだ! だって、僕と母さんは痩せているはずなんだ。だって、そうだろ、神様が痩せされてくれたはずなんだ。だって、そうだろ、高いお金を払ったんだ。痩せて当然じゃないか、そうだろ? 高い薬も飲んだんだ、痩せて当然じゃないか。母さんは痩せたんだ、痩せて痩せて骨みたいになって、動かなくなったんだ。神様は願いを叶えてくれたんだ。でも、一つだけ間違っていた。死んでまで痩せたいとは言っていない。なのにどうしてだ!」
奴は虚空に向かって語りだしていた。その目は完全に俺に向けられてなどはいなかった。
もしかすると、奴は神様に向かって話しかけていたのかもしれない。
涙を流していた、そしてそれと同時によだれも。とめどなくこぼれ落ちる涙とよだれは、俺の顔にも数滴かかった。正直汚いと思った。身体が動くならば絶対に避けていた事だろう。
「もう僕は神様なんて信じない、だからあの神を信じている奴を殺した。そしてデブとののしった奴を殺した。そして肉を食らった。そしたら、不思議と身体が軽くなったんだ。だから、決めたんだ。僕は僕の事をデブと呼んだ奴を食らおうって。片っ端から電話したんだよ。でもさぁ、誰も引っかかってくれなかったんだ。諦めかけていた所に、君が引っかかってくれたんだよ、僕はその時少しばかりあの糞神様に感謝をしたよ」
なるほど、道理で思い出せないはずだ。
そして、今やっと思い出すことが出来た。
こいつは高校1年の時に同級生だった男だ。確か、クラスのみんなから仲間はずれを受けては、デブ扱いをされていた。
しかしちょっと待て、俺はこいつをデブなんて呼んだ記憶は全く無いぞ。何故ならば、俺もクラスの中では浮いていた存在だったからだ……。
「さぁ、僕の心と胃の渇きを、満たしておくれよ」
「待て! 俺はお前の事をデブなんて言った記憶は無いんだ! よく思い出してみろよ! なぁおい!」
「もうどうでもいいんだよ、そんなこと……。どうでもいいから、僕に切り裂かれてお肉になりなよ」
「待て! 全然どうでも良くないから! おいぃぃぃ!」
包丁が俺の首筋に当たる。
ヒンヤリとした鉄の感触が、全身に鳥肌を立たせた。
そして、その包丁が首を掻っ切ろうとしたその瞬間。
「ぐへっ」
まるで、絞め殺された鶏のような声をあげて、そいつは前のめりに倒れた。
「はぁはぁはぁ、や、やっと見つめたわ。どれだけ手間をかけさせればいいのよ、このうだつの上がらない、女っ気の無いスケベおやじ」
そこに立っていたのは、どこかで拾ったであろう金属パイプを手にしたあの女。
そう、鷺ノ宮千里だった。
続く。