嫌な目覚め
魂は何処からやってきて、何処へと帰るのか?
俺の沈んでいった意識がそんな答えのない問いを繰り返していた。
俺の意識はスープのように溶けてしまって、大海原に溶け込んでいた。
何かが見えると思った。
それは、母親の姿……。
――ああ、これはきっと母親の胎内にいたときの記憶なんだな……。
液体状の俺の身体は、時が立つと共に、段々と固体へと近づいていっていた。
俺は、それを怖がっている?
形になってしまうことを、恐れている。
不安、恐れ、悲しみ、苦しみ。
それだけじゃない、喜び、慈しみ、楽しさ……そして恋。
全ての感情を受け入れることを、恐れている。
ああ、無であればいいのに、全て無のままでいればいいのに、そう思っている存在がそこにはあった。
『そろそろ目覚めたらどうなのかな?』
声が聞こえた。
それは本当に声だったのだろうか?
「どうですかね、ご気分は?」
これは声だ、そう実感できた。
俺はゆっくりと重い瞼を開けると、そこにはどこかで見たことのある中年男性が、いやらしい笑みを浮かべて立っていた。
――ああ、このさえない中年は、大神官とかだったよな……。
そんなことすら思い出すのが億劫だった。
しかし、この大神官はこんなに大きな身体をしていただろか? 俺は、この大神官を視界にいれるには、大きく見上げなければならなくなっている……。
数秒たって、俺はその原因を理解した。
そう、俺の身体が低い場所にあるのだ。
脳の感覚が麻痺してしまっているのだろうか?
俺は自分の体は地べたを這いつくばっている事に、全く気がつかないでいたのだ。
しかし、頬に伝わる床の感触が心地よい。
重力に逆らわないで、こうしている事がこうも心地よいものなのだということを、今再認識していた。
「なんだか、とても気持ちよさそうな顔をしているところを申し訳ございませんが、一応こちらは質問をしているわけなのですから、何かしらお言葉でお返事をしていただけませんかねぇ?」
勿論、言葉を発するなどというのは、だるい! めんどい! やってられるか! の三拍子勢ぞろいだった。
「もしかして、私の声が耳に届いていらっしゃらないのでしょうか? ならば、声が届かなくてもわかるようにして差し上げましょう」
大神官は、笑顔を絶やさないままに、俺の背中に向けて足を振り下ろした。
いくらか鈍っているとはいえ、俺の身体に痛みという名の信号が脳に向かって流れた。
それは一度では終わらずに、二度三度と、回数を増すたびに、込められている力も上がってきているように思えた。
比例するかのように、大神官の笑みも狂気をはらむものに変化していっていた。
そして、四度目の踏み付けが、俺の背中に強烈な激痛を走らせたとき、俺は自然と口から『ぐえっ』と言う蛙の鳴き声のような声を漏らしていた。
「よかったよかった。ちゃんと声は出せるじゃないですか。いやぁ~心配しちゃいましたよぉ。あのチョコレートは相性が悪いと、とんでもない事になる人もいるみたいでしてねぇ、ほっほっほぉ」
等と言いながらも、大神官の野郎は最後に俺のケツを蹴り上げた。
どうやらこいつはサディストらしい。
苛立たしい事だが、痛みのおかげで俺の身体は、感覚を取り戻しつつあった。
俺は床にべったり倒れこんでいた身体を起こした。
起き上がった身体は、当たり前のように重力を感じた。
「中年のおっさんの蹴りで目覚めるなんざ、一つたりとも嬉しくないわな」
「信者の皆様ならば、私が顔に唾を吐きつけて目覚めさせたとしても、大喜びでいてくださいますよ」
「ご期待にこたえて大喜びしたいところなんだが、残念ながら、こちとら信者じゃないんでね。不快感以外の何物も感じやしねぇよ!」
ちょっと前に、中条さんの魅惑のボディに負けて入信を希望したことはなかったことにしておく。
「あらまぁ、目覚めてすぐその憎まれ口を叩けるとは、貴方はあのチョコレートとの相性は良かったようですねぇ」
「相性?」
「ええ、ええ。相性の悪いものは、ちょっと大変なことになってしまったりしますからねぇ」
「大変ってどうなるんだよ!」
「精神に以上をきたしてみたり? そうだ、面白い例が一つありましたよ。なんでも、人肉を食べたくなる衝動に襲われたものがいたとかどうとか……。うふふふふ、滑稽じゃありませんか」
この大司教と言う男は、サディストという枠を超え、すでに狂人の域に達していると俺は思った。
それと同時に、頭の中にある引っ掛かりを覚えた。
――人肉……それってまさか?! そういえば、あいつも薬が動とか言っていた……。
俺の記憶によみがえったのは、例の肉食デブだ。
まさか、あいつも個々とかかわりがあったというのか?
「はてさて、少しお話が過ぎてしまいましたねぇ。所で、貴方はなかなかに薄情なお人でいらっしゃいしゃいますね」
「は? 何を言ってるんだよ」
「やれやれ、貴方は自分と一緒にいた女性のことを考えると言う脳みそを、お持ちではないのですか?」
「あ……」
中条さんのことを忘れいていたのは、きっとあのチョコレートのせいだ。そうに決まっている、そうでなければ、俺はなんて自分の事だけしか考えられない馬鹿野郎と言うことになってしまう。
「な、中条さんをどうしやがったんだ!」
「どうしたもなにも、あの子の望むようにして差し上げましたよ」
「それはどういうことだ!」
「あの子、言ってらっしゃったでしょ? 私の手からチョコレートを食べさせてもらいたいと、だからそうして差し上げましたよ。この大神官ロンベルク鈴木の手から、あのチョコレートを、愛らしい唇に注ぎ込んであげましたよ」
「なんだって……」
中条さんの口の中に、チョコレートを注ぐ大神官の姿を想像して、甘美なエロティシズムを感じてしまう俺は、脳がいくらか腐っているに違いなかった。
一番の問題点は、そこではない。
大神官が言うところの、このチョコレートと中条さんとの相性。
「彼女なら、すぐ隣の部屋にいますよ。呼んできて差し上げましょうか」
大神官はそう言うと、またしてもボディガードと思われる黒スーツの男に命じて、隣の部屋に呼びに行かせた。
俺は祈った。
中条さんが、無事な姿で出てきてくれることを……。
何に祈ればいいのだろう? 神様女神様とやらは、今の俺の状態からすれば、もはや敵でしかないのだ。
続く。