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一人っ子

 吊り革に揺られること約十分。

 ここまでの俺と中条なかじょうさんは言葉を交わすこともなく、ただ窓の外に見える代わり映えのしない街並みを見ているだけだった。

 何を話せばいいのか?

 俺は何度も口を開きかけては、言葉を発する事無く唾を飲み込んだ。

 とても喉が渇いた、下唇と上唇が乾燥してくっついてしまいそうに思えた。

「どうかしましたかぁ?」

 先に言葉を発したのは中条さんだった。

「い、いやぁ、別になんでもないよ」

 カラカラになった喉でのせいか、言葉の最後は少しかすれてしまっていた。

碓氷うすいさん、喉どうかしたんですか?」

「え? 喉? いやぁ、なんともないなんともないってば、ほんと、ほんと」

「あ、そうだ」

 中条さんは何かを思い出したかのように、肩にかけていたショルダーバックの中に手を突っ込んだ。

「はい、もしよかったら、どうぞ」

 そう言って、バックの中から取り出したのは、ピンク色の色鮮やかな水筒だった。

 俺は言われるままに、その水筒を手に取る。そして、蓋をはずすと、中の液体から漂う匂いが鼻孔をついた。

 それは、紅茶の良い香りだった。

「紅茶は嫌いでしたかぁ?」

 俺は言葉ではなく、首を左右に振ることで返事に変えた。

「そうだ、私がつぎますねっ」

 中条さんは、そう言うと水筒のカップに紅茶をつぎ始めた。

 電車の中で、もしこんな事をしているカップルを見たら、俺は正直うぜぇ奴らだと、心の中で不平不満を言っていたことだろう。

 しかし、今は違う、言う立場から言われる立場へとクラスチェンジしているのだ。

――ふっふっふ、俺の周りの愚民どもめ、どうだ! この魔乳女子からお茶をいただいている俺様の姿は! うらやましいか! うらやましいだろう! もし、うらやましくないといっても、それは嘘だ! うらやましくないわけがない! だって、俺が逆の立場だったらそうなのだから!

 照れ臭いを上回る、圧倒的なまでの優越感が俺の身体を覆っていた。

 その時、そんな調子こいてしまっている俺をたしなめるかのように、電車が急ブレーキをかけた。

 揺れる俺と中条さんの身体、バランスを崩してカップからこぼれ出る紅茶。

 結果、俺の上着はお上品な紅茶の香りをまとうことが出来た。勿論、香りだけでなく汁気もばっちりだ。

「ご、ごめんなさい!」

 中条さんは、ハンカチ取り出しては、必死に俺の上着についた紅茶を拭き取ろうとしていた。

 ハンカチ越しに、上着越しに、俺の身体に伝わる中条さんの手の感覚。それが、変に生々しいものに感じ取れてしまって、俺は何故か赤面してしまった。

「気にしないでいいよ」

 そう言ったのは、照れ隠しだ。

 その刹那、また電車がキューブレーキをかけた。

「きゃっ」

 バランスを崩して足をもつれさせた中条さんが、俺のほうに向かってよろめいてくる。

 何も考えずに、ただ反射的に、俺は中条さんの身体を抱きしめるような形で支えていた。

 その時、俺の胸の辺りに、むにゅむにゅ、もにゅもにゅゅぅ、と柔らかい二個のマスクメロンが当たったような気がしたが、それは考えないようにした、思考の中から排除した。

 もし考えてしまうと、男の身体の一部分がとてもよくない状況になってしまうからだ。

 しかし、女性の身体というものは、胸だけでなく、他の部分も柔らかいものだ。いや、それはナイスなバディを持つ中条さんだからこそのものなのかもしれない。もし、これが鷺ノさぎのみやだとしたら、骨ばっていてゴリゴリとした味気ないものでしかなかったかもしれない。

――どうして、ここで俺は鷺ノ宮の事を考えているのだろうか……。

「あ、ありがとうございます。わ、私、バランス感覚とかぜんぜんなくって、よく普通のまっ平らな道でも転んじゃうくらいなんですよ、え、えへへへへ」

「そ、そうなんだ。気をつけないといけないね」

「は、はい。そうですよね……。ところで――あのぉ、もう支えてくれなくても、私は大丈夫ですから……」

 その言葉で俺はやっと気がつく、まだ中条さんをしっかりとその両腕で抱きしめていたということに。

 俺は光の速さで抱きしめていた手を解いた。しかし、正直に言って手放してしまうのが惜しい感触だった……。だが、そんな残念そうにしている表情を相手に悟られるわけには行かない。

 そうだ、ここは適当なトークでごまかそうと、俺は口を開いた。

「いや、これは、あれだ、あれだ。あれだよね、ほんと!」

「あれですかぁ」

「そうなんだよ、本当にあれなんだよね」

「あれだったんですねぇ」

「うんうん、あれだったんだよぉ」

「あれだったら、仕方ないですよねっ」

「さすが、中条さん、理解が早いよねぇ」

「てへへっ。――ところで、あれってなんですかぁ?」

「さぁ、なんだろう……。俺もわかんないや」

「じゃあ、私もわかりませんよねぇ」

「だろうねぇ」

「それじゃ、お紅茶飲みますか?」

 どこらへんが『それじゃ』なのかはさっぱりわからなかったけれど、喉が渇いていた事は事実だったので、俺は素直に紅茶をいただいた。

 今度は、急ブレーキがくることもなく、無事に紅茶は俺の胃袋へと納まったのだった。

「ありがとう」

「どういたしましてっ」

 中条さんは水筒の蓋を閉めながら、俺に微笑みをひとつくれた。

 



「こっちです、和久さん、こっちぃ~」

「おう」

 電車を降りた俺と中条さんは、それから駅前のロータリーのバス停へと向かった。

 バス停にはすでにバスが停車しており、中条さんは俺をせかすかのように、小走りでバス停へと走っていった。

 俺はその姿を後ろから見ていたが、できれば前から見たかったと後悔をした。

 前から見れば、魔乳様がバインバインと上下する様を充分に堪能できたからである。

 さて、自分のアパートの駅から電車で下ること約二十分、ここは一度も降りたことのない駅だった。

 とは言え、これといって別段特徴のある街でもなんでもなく、都心から少しはなれたところにありがちな、駅前だけは立派だが、少し離れてしまえば、閑散とした街並みという、ありきたりなところだった。

 俺は中条さんが先に乗り込んでいたバスに飛び乗った。

 初めて乗り込むバスのはずなのに、なにか大きな違和感が漂っていることに気がついた。

 それは、このバスに乗り込んでいる客層の大半が、若い男女で構成されているせいだ。

 普通平日のこの時間帯のバスの利用者といえば、高齢の人が多いはずであろうに、何故なのだろ? 近くに予備校や大学が存在しているのだろうか?

 さらに、このバスには料金を支払うところが存在していなかった。何故なのか?

 俺のそんな疑問をよそに、バスは出発する。

 


 さて、バスが出発して約2分。ここまできて、俺はやっとこさ、覚悟を決めたかのように、あることを問いただす決意をする。

「ねぇ中条さん、このバスは何処に向かっているのかなぁ」

 いやさ、こんな事は覚悟をしてでして聞くほどのことでもないだろうと、人は思うだろう。しかし、俺はこの問いの答えを、質問する前からわかっている。わかってはいるが、その答えをあえて聞くのをためらっていたのだ。

「はい、このバスはですね、聖母神オフィーリア様の神殿である、デウス・エクス大聖堂に向かっているんですよぉ」

 そう、向かう先が、その怪しい宗教施設であることは重々わかっていたのだ。わかっていはいたが、知りたくなかった。ほんの少しでも、まるでデートに向かうかのような気分でいたかったのだ! そんな男心をわかってもらいたい!

 だがしかし、またしても、とんでもワードが中条さんの口から飛び出してきたものだ。

 『デウス・エクス大聖堂』

 こんな名前は中ニ病患者くらいしか、思いつきはしないだろう。

 デウス・エキス・マキナといえば、俺の雑学で一応は知識があった。

 ラテン語で、機械仕掛けの神という意味である。

 そういえば、そんな設定を小説に入れようと思ったことがあったような気がする。まぁご多分にも漏れず、俺も充分中ニ病なのだ。

 俺はその時、頭の中にふとした閃きを感じた。

「もしかして、このバスに乗っている乗客の殆どは、そのデウス・エクス大聖堂ってのに、向かう客なのか?!」

「はい、勿論そうですよぉ」

 俺は思わず、椅子から立ち上がり、周りに座っている乗客に視線を向けた。

 どいつもこいつも、一見するとごく普通の二十代そこそこの若者にしか見えないが、聖母神とやらを信じている奴らばかりなのか?

「て、ことは、その大聖堂ってのも結構でかい建物だったりするのか?」

「うーん、どれくらいからが碓氷さんのでっかーい建物になるんですかぁ?」

「いや、どれくらいって言われても」

「うんとぉ、こ~れ~っくらいっ、大きいですよぉ」

 中条さんは、両手で大きな円を作って、大きさを表現しようとしてくれたらしいが、そんな事でわかるはずもなかった。

ただ、中条さんのその仕草がとてもかわいいということは十二分にわかった。

「それだと、ちょっとわかんないかなぁ」

「えぇ~。わかってもらえないんですかぁ。うんと、もっと、こぉれぇぇくらぁ~い、大きいです」

 中条さんは、上半身の筋と両腕の筋を伸ばせる限界まで伸ばして、大きな円を作ろうとした――が、それは大きな魔乳を、さらに大きくかつパワフルに見せるという効果を発揮している事には、全く気がついていなかった。

――こ、これは魔乳などではない、大魔乳様だ!

 俺は思わず、その大魔乳様に手を合わせそうになってしまったが、ぎりぎりのラインで存在していた理性で押さえ込むことに成功した。

「わかったから、もういいよ!」

「えっ? わかってくれましたかぁ?」

 中条さんは、円を作っていた両腕を膝の上におろした。

 おかげで、大魔乳様は、魔乳様へとレベルダウンすることになった。

「とにかく、とっても立派な建物だってことなんだよね」 

「はい! とっても立派な建物なんですよぉ。それに、聖母神オフィーリア様の、像もあるんです~。とっても荘厳で可憐で美しくて気高くて気品溢れていて素敵なんですぅ」

 中条さんの視線は、何処かしら空の彼方へと飛んでいってしまっているようだった。

 俺は、そんな中条さんを見て笑いながらも、足元が震えてしまっていることに気がついた。

 そう、緊張しているのだ。

 まさか、これほど大規模なものであるとは、想像だにしていなかったのだ。

 すでに、このバスの中ですら、自分以外は全員が信者!

 さらに、その大聖堂とやらにつけば、この数倍、いや数十倍、下手をすれば数百倍の信者がいることになる。

 そんな状態で、俺は果たして正気でいられるのか?!

 気がつけば、俺は『オフィーリア様ばんざーい』などと、虚ろな目で言ってしまっているのではないか?

 中条さんを、悪徳宗教から救ってみせる! などと言う、えらそうな目的を掲げて飛び出してきたものの、ミイラ取りがミイラになるのではないか?

 そう考え出してしまうと、俺の足の震えは更に加速度を上げ、その振動で電力が発電できるのではないかというレベルまでに達していた。

「あれれ、碓氷さん、寒いんですか?」

 どうやら、俺の尋常ではない脚の震えに、中条さんは気がついたようだ。

「そ、そうかなぁ。そんな事はないぞ」

 俺は筋力で無理やりに足の震えを止めさせた。

「そうですかぁ、それならいいんですけどぉ。あっ、そうだ」

 中条さんは、大きく手を自分の顔の前で一つ叩いた。

「どうしたの?」

「この前、部屋にいた、女の人はどうしたんですかぁ?」

「うぇっ?! あ、あぁ、あの子のことね」

 予想外の質問に俺は不意を突かれてしまった。

「あいつは、あれだよ。あれなんだよねぇ」

「あれなんですかぁ」

「そう、あれな感じであれなんだよ」

「ふぇ~。あれな感じになっちゃっているんですかぁ!」

「そうなんだよ! あれはまずいよね、ほんとあれは!

「まずいんですか? あれはまずいんですか?」

「ところで中条さん、俺の言う『あれ』がなんだかわかってないよね?」

「はい、ぜぇ~んぜんわかってません」

「あははははは……」

 きっと、こういうところがこの中条さんの良いところのような気がする。 

 なんだかわからないけれど、和むんだよな、空気が……。

 いつしか、俺の足からは自然と震えが止まっていた。

「私、なんだかあの子がとっても羨ましかったんです」

「羨ましい?」

「だって、あの子、碓氷さんと兄弟みたいに仲が良かったじゃないですかぁ」

「うーむ、あれを仲が良いととるかどうかは難しいラインだと思うんだけど……」

「いいえ! あれは完全に仲がいいです! 私にはそう見えましたもん」

「そ、そういうものなのかなぁ」

「私、一人っ子で、兄弟がいないんです。だから、そういうのに憧れるって言うか……」

「憧れるような、いいもんじゃないんだぞ! 下手をするとスタンガンでビリビリって!」

「ほぇ? スタンガン?」

「い、いや、それは気にしないでくれ」

「私、小さいころから友達作るのとか苦手で、いつも一人で遊んでいたんです。一人でお砂場で山を作ったり、一人でお人形で遊んだり、でも、もし兄弟がいたら一緒に遊べただろうなぁって……」

「そうだったんだ……」

 しんみりとした空気が、このバスの中に充満した。

「でもね、私、オフィーリア様を信じるようになってから、いっぱいお友達が出来るようになったんです。だって、信者の皆様はみんな兄弟みたいなものなんですものっ。だから、私はもう一人じゃ無いんだって思えるようになったんですぅ。そしたら勇気も元気もわいてきて、なんだかとっても頑張れるようになったんですぅ!」

 中条さんの力説を耳にした、回りの信者から、大きな拍手喝采、スタンディングオベーションが沸きあがった。

このバスの中は、なんとも言えない一体感に包まれたのだ!

勿論、俺以外でだ……。(俺は百二十パーセントひいていた)

「は、はぁ……」

「だから、碓氷さんも聖母神オフィーリア様を崇拝する仲間になりましょう! そして、みんなとお友達になりましょう!」

「え、えっと……。そ、その詳しい話は大聖堂とやらについてからってことで……」

「あっ、そうでしたね。私としたことが、ついついとりみだしちゃって、えへっ」

 中条さんは、コツンと自分の頭を軽く叩いて見せた。

 ニコニコ笑う中条さん、そしていつの間にか、俺の周りの乗客たち全員が、俺の顔を見ては、ニコニコと笑っていた。

 バスの乗客全員が俺に笑顔を向ける……。それはほほえましい光景などではなく、俺からしてみれば、ちょっとしたホラーだった。

 俺は、この恐怖体験と戦いながら、目的地につく残り十五分をすごしたのだった。




 続く。

 


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