手帳と予感
夜にふと目が覚めた。
眠りについた時間が早かったせいだろうか?
まだぼやけている視界には、冷蔵庫の姿が映っていた。
まぁ、台所で眠っていたのだから、それは至極当然のことだった。
俺は半分無意識のうちに、冷蔵庫の中にあるものをまさぐろうと、扉を開けていた。
ひんやりとした冷気が、俺の頬に漂う。
冷蔵庫の中には、肉、野菜、卵、エトセトラエトセトラ。様々な食材が詰まっていた。
これは以前の俺からすれば信じられない光景だった。
冷蔵庫の中には、せいぜい飲み物と卵くらいしかはいっておらず、ガラガラ状態なのが普通だったからだ。
鷺ノ宮が家にきてからと言うもの、一番変わったのが食生活なのかもしれない。
そういえば、インスタント食品を全く食べなくなったし、身体の調子も以前に比べてよくなっているような気がしないでもない。
俺は鷺ノ宮に心の中で感謝の言葉を言いそうになったが、よく考えればそれと同量、もしくはそれ以上の暴言を受けているという現状を思い出したので、思いとどまっておいた。
俺は冷蔵庫の扉を閉めると、布団の上であぐらをかいて座った。
――しかし、あいつが暴言を吐くわ、態度はでかいわ、慇懃無礼だわのおかげで助かっているのかもしれない……。
よく考え見れば、あいつの容姿は、正直一般的に言って、平均的な視線で見てみて、かわいいと言えるレベルだろう。
そして、料理が美味くて、洗濯や部屋の掃除もそつなくこなす。そして、俺にはそう言う趣味はないのだが、貧乳というのも好きな奴からしてみればポイントが高いに違いないだろう。
そうするとだ、悲しいかな彼女居ない寂しい男の俺からすれば、鷺ノ宮に惚れてしまうのは至極当然な現象となってしまうわけだ。
しかし、現時点で俺はそんな気持ちにはなっていない。
もしかすると、あいつはそういう俺の気持ちを考えて、わざとああいう態度をしているのではないか?
そんな疑問を一瞬抱いてみたが、俺は頭を左右に大きく振ってその考えを追い出した。
そして、もう一度冷蔵庫の扉を開けては、ミネラルウォーターのペットボトルをとりだすと、よく冷えた水を喉に流し込んだ。
俺は自然と視線を襖の向こうの鷺ノ宮に向けていた。
ああ、そうだ。
そうなんだよな。
俺は、今の俺は、三十前の無職の駄目男だ。
そんな男を好きになる女なんて居るわけがない。そんな期待を持ってはいけない、そう言い聞かしていた。
だから、鷺ノ宮が俺のことを好きになるわけがない。
ならば、もし俺が、もしも俺が、鷺ノ宮のことを好きになったとしても、それは悲しい結末が待っているだけなのだ。
バッドエンドがわかっているのに、あえてそれを目指そうとする奴がいるだろうか? 俺はそこまでマゾではない。
俺の未来には夢も希望のないのだろうか?
夢も希望も見る事無く『死の運命』がすべてを奪い去ってしまうのだろうか?
身体が震えた。
真夜中、暗闇の中で、死について考えることはやめたほうがいい。
俺は布団を頭までかぶると、まるでさなぎの様な状態で眠りについた。
目が覚めると、俺の視線の先に冷蔵庫はなかった。
俺の視線のすぐ先にあったのは、鷺ノ宮千歳の顔だったからだ。
「おはよう、和久」
鷺ノ宮の息が顔に掛かったような気がして、何故だか俺の顔面の体温が急激に上がった。
俺は、それを相手に悟られないように、顔を少し背け、髪の毛をボリボリと三度かいた。
「お、おう。おはよう」
「あら、こんなにも良い天気だというのに、なんだかうかない挨拶ね」
「台所から外の天気なんてほとんどわかんねぇんだよ……」
「言われてみればそうね。なら、窓の外を見て御覧なさい。とても良い朝日よ」
確かに、言われた通りの快晴だった。
快晴なのは確かなのだが、鷺ノ宮の様子が少しおかしいのも確かだった。
こいつが、朝俺を起こすときの理由との大半が、掃除をしたいから布団をすぐたためだの、シャワーを浴びたいからとっとと起きて外に出て行けだったはずだからだ。
「鷺ノ宮、お前今朝はなんか……」
そう言いかけたところで、俺の目の前に手帳が突きつけられた。
シンプルだが、上品な感じのする手帳だった。しかし、女子高生が持つには少しかわいげがないと思えた。
「なんだ、俺のサインでも書いてほしいのか?」
俺はサインペンを探した。
「どこのどなた様が、さえないニート男のサインをほしがるのかしら……。そういう楽観的な思想が今の日本経済の低迷を招いたのよ」
まさか、俺のボケ一つで日本経済が低迷してしまったらしい。うかつにボケれない世の中だ。まさに油断できない。
「そんな冗談は、角のコンビニにある郵便ポスト相手にでもしているといいわ。きっと、どれだけくだらない冗談でも、静かに聴いてくれるとおもうの」
確かに、郵便ポストは嫌がることもなく、静かに聴いてくれるだろう。なにせ奴の口は喋る為のものではなく、郵便物を飲み込むためだけの口なのだから。
「んで、この手帳は一体全体どういうことを示唆しているのか、この哀れなニートに説明していただけないでしょうか、鷺ノ宮お嬢様」
「ここに、書いてくれればいいのよ……」
「だから、何を書くんだよ?」
「……」
「どうも悲しいことに、俺は思考を読めるエスパーじゃないんで、口に出して教えてもらえないか?」
「和久の携帯番号とメールアドレスをここに書きなさい! 今すぐに!」
そう言うと、鷺ノ宮は手帳で俺のオデコをはたいた。
結構しっかりしたつくりの手帳だったので、正直痛かった。
「エスパーじゃないとしても、状況から自体を察知する能力くらいは見につけなさい。そうしないとこの世の中生きていけなのだから」
まさか、俺の年齢の半分近い小娘にこんな説教じみたことを言われるとは思わなかった。
正直、手帳の当たったオデコ以上に痛い言葉だった。
「しかし、何で急に携帯番号なんか知りたいとおもったんだ? それ以前に、鷺ノ宮、お前は携帯を持っていないんじゃなかったか?」
「ええ、持っていないわ」
何故か鷺ノ宮は偉そうだった。
「なら、俺の番号を知っても、どこから電話するんだよ?」
ちなみに、俺の部屋には固定電話が存在していなかった。
「そんな事は和久には関係ないことだわ。それに、携帯電話を持っていない人に番号を教えてはいけないという決まりごとなど存在はしていないのだから」
「まぁ、なんかあったときの連絡に教えておいたほうがいいんだろうけどな……」
俺は、仕方なく手帳に俺の携帯番号を書き込んだ。
「しかし、あれだ。メアドは意味無いだろう? 電話はともかく、鷺ノ宮にはメールを出す方法が全くないんじゃないか?」
「あれがあるじゃない」
そう言って、指差したそのさきには、俺のかわいいパソコン君が鎮座していた。
「ちょっと待て、パソコンつかえたっけか?」
「いいえ、触ったことすらないわ」
これまた、何故か偉そうだった。
「パソコンどころか、メールを打ったこともないんだよな?」
「無いわね」
「それじゃダメだろ?」
「ダメとかどうかは関係ないの。和久は四の五の言わずに、その手帳にメールアドレスをただ書き込みさえすればいいのよ」
泣く子と鷺ノ宮には勝てる道理はなかった。
「最初から素直に書けば良かったのよ」
鷺ノ宮は、俺の携帯番号とメアドの書かれた手帳を手に持ち、まるで小説でも読むかのように何度も何度も熟読すると、どこかしらに手帳をしまいこんだ。
その時、なにか嬉しそうにしていたように、俺の目には見えた。
俺は布団を片付け、髭を剃り、歯を磨き、着替えをして、一応なりにも髪形を整えた。
その様子を鷺ノ宮は朝ごはんを作りながら、怪訝そうな顔で見ていた。
まぁ、そう見られても仕方がない。普段の俺はといえば、目が覚めても、パジャマのままでだらしなくゴロンゴロンとしているのが常だったのだから。
「今日はいい天気のはずなのだけれど、雪でも急に降るのかしら……」
鷺ノ宮は窓の外の天気を気にしてみたが、勿論雪など降ることもなく、快晴は続いていた。
「さてと……」
俺はすっくと立ち上がると、クローゼットから上着を取り出した。
「和久どうしたの? あと少しで朝食が出来るのだけれど?」
お玉を手にした鷺ノ宮が顔を出して尋ねた。
「いやいや、ちょっと角のコンビニの郵便ポストに冗談を言いに行ってくるわ」
俺は上着を羽織いつつ、玄関へと向かった。
俺が朝にコンビニに出かけるのは珍しいことではない。
コンビニでの雑誌の立ち読み、缶コーヒーの購入などは、まるで日課のようなものだったからだ。
だから、鷺ノ宮もその事については、なんら疑問を抱く必要も無い――はずだった。
「待ちなさい、和久」
鷺ノ宮の言葉に俺は振り返った。
「なんだかわからないのだけれど、とても嫌な予感がするの……」
嫌な予感というのは、多分当たっているのだろう。俺はこのあと、中条さんに連れられて、わけのわからない宗教施設に連れて行かれるのだから、どう考えても良い予感がするはずが無い。
「それは、もしかしてあれか? 『死の運命』って奴か?」
「まだ良くはわからないのだけれど、でも、きっと良くない事が起こるに違いないわ」
「おいおい、コンビニに出かけるだけでそんな良くないことが起こってたまるかってんだ」
「いいえ! 和久ほどの運の無い人生を送っている人間ならば、コンビニに着く前に隕石に激突されて命を失ってもおかしくないわ」
「ちょっと待て! それはあまりにもあまりにも運が無さ過ぎないか」
「いいえ! 和久レベルのダメ人生人間ならば、十二分にありえる確立だと思うわ」
もはや、これは俺のこと心配しての言葉なのか、俺と言う人間を馬鹿にしているのか判別がつかないところまできていた……。
「大丈夫! 十二分に宇宙から飛来する隕石やらUFOやらには気をつけるから! だから、コンビニにいってくるぜ!」
「まって、和久ミューティレーションをされる可能性も視野に入れておいたほうがいいわ」
真剣な顔で、鷺ノ宮はどう考えても真面目とは思えない言葉を言ってのけた。
「どんなんだよ……」
UFOに連れさらわれ、内臓を剥ぎ取られる俺の姿を想像しかかってしまった。
俺はいまだにブツブツと、俺の不運について語る鷺ノ宮を尻目に、アパートを飛び出した。
この時、実は俺自身も感じ取っていたのだ、嫌な感覚を……。
だが、アパートを出ること約20分。
待ち合わせの場所である駅前にたどり着き、すでに待ち構えていた中条さんの姿を見るや否や、その感覚は消えさってしまった。
――うん、いい! オッパイというものはとてもいい!
意図してなのか、していないのか? それとも、意図しなくてもそうなってしまうほどのブツなのか?!
中条さんの胸は、衣服の上からでも圧倒的な威圧感を放っていた。
俺の姿を見つけた中条さんは、こちらに向かって小走りで走ってくる。一歩進むたびに、ぷるん、さらに一歩進めば、ぷるん、二歩進めば、ぷるるん。
上下に揺れる魔乳は、俺の心の中にあった危機感を狂わせるに足るに充分すぎるほどだった。
まさに、魔力を秘めた乳『魔乳』である。
「碓氷さん、おはようございますぅ」
走ったせいで息を切らしたのか、少し呼吸を荒げながら、中条さんはその場で頭をペコリとさげた。
「中条さん、おはよう」
「えへへ、よかったぁ~」
俺の言葉を聴くと、中条さんは何かに安堵したかのように、胸をなでおろした。
「どうかしたの?」
「えっとぉ、もしかしたら碓氷さん、きてくれないんじゃないかと思っていたので、顔を見たらなんだか安心しちゃって」
確かに、行くべきかどうすべきか、迷っていたのは本当だった。
だが、今はきて良かったと思える
なぜならば、そこに乳があるから! 魔乳があるのだから!
「あっはっはっは、俺が来ないわけなんてあるわけ無いじゃないか! 馬鹿だなぁ、中条さん」
「そうですよね」
2人で顔を見合わせて笑いあった。
しかし、俺の視線は顔のある場所より、いくらか下のほうに向いていたのは言うまでもない。
「それじゃ行きましょうか」
そう言うと、中条さんは駅の改札口へと、小走りで走った。
勿論揺れた。
「そんなに急ぐと転ぶよー」
「だいじょうぶですよぉ」
中条さんは、俺のほうに向くと、その場でぴょんと一度は跳ねると、Vサインをしてみせた。
正直、かわいいと思った。
勿論揺れた。
俺と中条さんは、電車に乗り込んだ。
平日の午前中の電車は、うまい具合にラッシュの時間を過ぎており、混んでいることは無かったが、座れるほどの余裕もなく、俺と中条さんはつり革につかまって、電車に揺られていた。
勿論、魔乳も揺れていた。
そして、勿論、俺はこの電車で何処に向かうのか、知る余地も無かったのだった。
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