重い身体
「ただいま」
この言葉をかける相手はいない。部屋の中には、俺の帰りを待つものなどは誰一人として居ないからだ。
それはこの部屋で暮らしてからずっとそうだった。
けれど、今は少しだけ状況が異なる。
「ただいま」
そう言葉をかける人数が一人増えているということだ。
鷺ノ宮は、猫の額ほどしかない玄関に、綺麗に靴をそろえてから部屋に上がる。
こういう所は、育ちが出るというものなのだろうか。やけに古めかしい言葉使いといい、厳しいしつけの元に育ったのか、それとも元からこういう几帳面な性格なのか、俺は後者の方ではないかと思っている。
「早く玄関のドアを閉めなさい! 冷たい風が入ってきてしまうじゃない」
「はいはい」
まるで母親の小言を受け流すかのように、俺は適当に返事をした。
「はいは一回でいいの」
「はいはい」
「この会話をエンドレスで続けたいのかしら……」
「はいはい」
鷺ノ宮は物凄い勢いで玄関のドアを閉めると、その振り向きざまの反動を利用して、強烈なデコピンを俺の額におみまいした。
「いてぇぇ! こいつはいつもよりイテェええ!」
額を両手で押さえ込んでは、玄関に座り込んで涙目になる男、それがこの俺だ。
――この調子だと『死の運命』とやらで命を落とすよりも先に、オデコに穴が開きそうだぜ……。
そんな俺の心のうちなどお構いなく、鷺ノ宮はさっさと部屋に入ると、着ていたコートをハンガーにかけ、おもむろに買い物袋から消臭スプレーを取り出した。
そして、まるで生命力旺盛なゴキブリに対しているかのように、執拗に念入りに、元俺のコートに消臭スプレーを吹き掛けだした。
「おいおい、それだとそのスプレー全部使い切っちまうんじゃ……」
「あら、無職の駄目駄目三十男の臭いはスプレー一本くらいじゃそう易々と消えはしないと思うのだけれど。出来ることならば、1ダースは振り掛けたいところだわ」
口と鼻を手で覆うようにして、鷺ノ宮はスプレーを掛け続けた。
「ちぃと待て! 無職の駄目駄目男までは認めよう! だがしかし、俺はまだ三十歳ではない!!」
ここだけは否定しなければならない、認めてはいけない。譲ってはいけない俺の砦なのだ。
しかし、鷺ノ宮はその砦を、まるで近所の犬小屋のように容易く侵入を果たしては、言葉というミサイルを俺に投げつけた。。
「四捨五入すれば三十でしょ。それに、無職の駄目駄目二十八歳だとしても、世間の目はたいして変わらないと思うのだけれど。それに年齢は誰しも取ってしまうものだけれど、無職は誰しもなるものではないわ。更に言えば、駄目駄目男にも誰しもなりはしないわね」
鷺ノ宮ミサイルは、見事に俺の砦を跡形残らずに砕けさせてくれた……。
「なにか! 鷺ノ宮お前の言いたいのは、あれか! なんだ! もう! 許してください……。ぼくが悪かったです……」
何故かその場に土下座している俺の姿があった。出来ることならばこれは何かの間違いであると思いたい。
「わかればいいのよ」
俺の姿を見下ろしながら、やれやれとため息を一つつく鷺ノ宮。
俺のデジャブでなければ、こういった光景をここ数日よく見ているような気がしないでもない。
しばらくして、スプレーの中身をすべて使い切った鷺ノ宮は、まだ満足しきれない様子ではあったが、一応の妥協はしたのか、コートのしわを伸ばして、もう一度ハンガーに掛けなおすと、台所へと向かった。
「ふぅ~。一心地ついたぜ……」
俺がこの部屋の主に戻れる瞬間、それは鷺ノ宮が料理をしに台所にいっている間だけだ。
それ以外のときは、情けないまでに主導権を奪われてしまっていることは、語るまでもないだろう。
この時間を逃すまいと、俺はパソコンの電源を入れる。
そして、メッセンジャーを立ち上げると、ネットの友達相手に愚痴を撒き散らしたりして憂さを晴らすのだ。
まぁ聞かされるほうにとっては、たまったものではないだろうが……。
その時、メッセンジャーに新たにログインを示すアイコンが点灯した。
ハンドルネーム『姫子』
この子と知り合ったのは数年前、とある小説サイトの利用者として仲良くなった。勿論、実際に会ったことは一度もない。
しかし、不思議なもので、一度も会ったことがないというのに、こうパソコンでよく文字での会話を続けていると、昔からの友達のような、むしろそれ以上のように思えてしまうから不思議だ。
『ひめちゃーん。もう毎日大変なんだよぉ』
俺は姫子のことをひめちゃんと呼んでいる。別段意味はない、漢字を変換するのが面倒だったとかそれくらいの理由でそうなっただけだと思う。
『どうしたの、カズくん?』
ひめちゃんは、俺のことをカズ君と呼ぶ。これは俺がハンドルネームを考えるのが面倒で、和久の名前からとって『カズ』にしたからだ。
ひめちゃんは、年齢20歳、女子大に通う結構なお嬢様らしい。
ちなみに彼氏は居ないという噂だ。
相手の写真を見たことはないが、文章の感じから、清楚で可憐なお嬢様の絵が浮かび上がる。ゆえに、俺の頭の中では、ひめちゃんは完全無欠なお嬢様キャラとして位置づけられている。
今日も今日とて、俺の非現実的な状況を、大まかに俺に有利なように内容を変更しては、ひめちゃんに語っていた。
それはそうだ、この俺が、涙目になりながら土下座している話なんて出来るはずがない!
『そっかぁ、色々大変なだねぇ。そうだ! 今度会おうよ! 私にも何か力になることがあるかもしれないから!』
メッセにこんな文章が飛び込んできたとき、俺は目を疑った。
ひめちゃんが俺に会おうといっている!?
俺の力になるために!?
確かに、ひめちゃんは異様に博学というか、偏った知識が多いというか、どう説明すればいいのかわからないが人と違うスキルが高い。
不思議っ子! と呼んでもいいかもしれない。
どうも、その能力がこの俺の状況を看破しえるというのだ。
――まさか、そんなこと出来る訳がない……。
俺はそう思った。が、しかしだ! もし俺の状況がなんら変わらなかったとしても、あのひめちゃんと会うことは出来るではないか!
もしかすると、俺の想像した通りのお嬢様で、俺と出会い、愛が芽生え、逆玉の輿へ道のりを歩むことが出来るかもしれないではないか!
庭に噴水なんかあったりする、大豪邸に住む俺。その傍らには立て巻きカールのお嬢様姫子。俺は口元にひげなどを蓄え、ロッキングチェアーに揺られながら、高級なペルシャ猫をひざに抱えて、キューバ産の葉巻をふかす。
「和久、お鍋の準備が出来たから、テーブルを片付けておいてくれないかしら」
――そうそう、テーブルの片づけを……って!
台所からの鷺ノ宮の言葉が俺の脳内を現実へと引き戻した。
「お、おう! まかせておけよ!」
「そうね、和久に任せられることといったら、それくらいの事しかないのだから」
そう、これが現実だ……。逃れられない現実だ。
簡潔言おう、鍋はとても美味かった。
料理に関してだけは、鷺ノ宮に付ける文句は一つもなかった。
俺は一人暮らしをはじめてから、これほどまでに充実した食生活を送ったことは一度たりともなかった。
しかし、テーブルを片付ける前に、俺はひめちゃんのメッセに、今度会うことに対する返事として『OK』と送っていた。
勿論、それは鷺ノ宮にばれないようにだ。
どうして、鷺ノ宮に隠さなければならないのか? 後ろめたいからなのか? それとも、女の子と会うのを邪魔されてはたまらないからなのか?
結論としては、その両方だと、俺は思った。
そのせいか、とても美味いはずの鍋の味が、いくらか薄く感じてしまったのは、俺の舌の感覚ではなく、心の感覚のせいに違いなかった。
俺たちは夕飯の片付けを済ませた後、各々図書館で借りてきた本を読んだ。
俺はその場に寝転がりながら、鷺ノ宮は正座の姿勢のまま本を読んだ。
なるほど、食後の読書というものは、お腹が満足した後に、心も満足させてくれる素晴しいものだ。
無言の空間、お互いが活字だけに向かい合い、相手に向かい合うことのない空間。
数メートル先に他者が存在している筈なのに、その存在を忘れてしまう感覚。
――ああ、俺もこれだけ人を熱中させる文章を書くことができたら……。
そんな歯がゆい思いを感じることすらも、文章という海に沈んでいくことによって忘れさられてしまう。
気がつくと、俺の周りは真っ暗になっていた。
そう、俺はいつの間にか本を読みながら眠ってしまっていたのだ。
お腹いっぱいの時に、寝転がりながら本を読んではいけないな、と自己反省をした。
俺は身体を起こそうとして、自分の身体の重量がいつもより重くなっていることに気がついた。
それは何故か? そう、俺の身体には、毛布が掛けられていたのだ。しかも、無造作に何枚も何枚も……。
そりゃ身体も重いはずだった。
しかし、俺に毛布を書けることができる人物は、ただ一人、鷺ノ宮を置いて他に無く……。あいつが俺の為に、小さい身体で大量の毛布を運んではかけてくれたのかと思うと、何故だか滑稽に思えてならなかった。
そういえば、その当の本人の鷺ノ宮はどうしたのだろうか?
俺は暗闇に少し慣れてきた目で、辺りを見回した。
暗闇とは言え、電気製品の電源ランプの明かりなどで、少しくらいは回りを確認することは出来た。
しばらくして、俺は鷺ノ宮葉の姿は部屋の隅っこに確認した。
いつもは部屋のど真ん中に陣取って布団を敷いて眠っているというのに、今日は隅っこでこじんまりと眠っている。
それも、また滑稽に思えて、笑いがこみ上げてきそうだった。
勿論、声を立てて笑ってしまうと鷺ノ宮を起こしてしまうかもしれないので、心の中で笑った。
『毛布かけてくれてありがとな』
俺は心の中で感謝の言葉を呟いてみた。
心の中だというのに、とても照れくさくて仕方なかった。
さてと、俺はこのままここで寝ていて良いのだろうか? それとも、いつもように、台所に行って寝るべきだろうか?
そんな思考をしている間にも、俺の身体と意識は闇の中に吸い込まれていってしまうのだった。
続く。