絵本とお鍋
「所で、何処に向かっているのかしら?」
鷺ノ宮は振り向きざまに俺に問いかけてきた。
と言うか、何処に向かっているのかわかっていないのに、先頭を切って歩いていく、こいつの神経が謎だと思わざるを得ない。
「とりあえず、消臭剤を買う為に薬局なりスーパーなりに向かうのは確実だとして――まさかその為の外出じゃないわよね?」
「おいおい、もしその為だけに出かけたのだとしたら、俺はどんだけドMなんだよ!」
「えっ!」
鷺ノ宮は、驚いた表情のまま0.3秒固まって見せた。
そして、芝居がかった動きで、額に手を当てては、その場でふらふらっとよろめいて2歩ほど下がっては口を開いた。
「知らなかったわ……。私、和久はドMなものだと思って疑いもしなかったから……」
「おい! ちょっとまて! 鷺ノ宮、お前は一体全体俺を何だと思っていたんだ!?」
「だってそうじゃない、こんなわびし過ぎる人生を嬉々として生きていけているのだから、それはもう七難八苦を快楽として楽しめるような性格でなければ耐えられないと、容易く想像してしまってもおかしくないもの」
「そうなのか……。俺の人生というものは、そんなに困難苦難に溢れている様に見えるのか……」
「そうね、裕福かつ満たされているように見えないことは確かだと思うわね」
そこには飢えた小汚い野良犬を見るような視線が存在していた。
――そうだったのか……。いやぁ~、前から確かに俺ってば不幸なんじゃないかなぁと思わなくもなかったんだ。でもさ、あれじゃん、アフリカとかだと飢餓で亡くなってる人とかも居る訳じゃない、それに比べれば無職でも、なんとか飯が食えて雨水をしのげる屋根の下で眠れているだけ幸せなんじゃないかって、そう思って……。
「そうなのね、自分よりも下の生活レベルの人間を見ては、精神の安定をはかっていたのね。なんて、浅ましい心根なのかしら……」
「だから! お前は俺の心の中の台詞を読むんじゃねぇよ!」
「あら、容易く想像できてしまうような思考しか出来ない、和久の単細胞生物並みの脳みそを嘆くべきだと、私は思うのだけれど」
「わかった……。わかったから、もう何も言わないでくれ……。何も言わないで俺の後ろをついて来てくれればいいから……」
「あら、それは命令かしら? それとも懇願かしら?」
その問いかけに対する答えは、もう決まっていた。決められていた。
「懇願です……」
はてさて、俺の願いがかなったのか、それとも言うだけ言ってすっきりしたのか、その後の鷺ノ宮は静かなものだった。
しかしまぁ、俺の後ろを物言わず静かについて歩く鷺ノ宮の姿というのは、とても珍しいものだと思った。
こうしていれば、ただの小柄で清楚な、それでいて優等生風の女子高生で通ると言うものなのだが、一度口を開けは、そこらの鬼姑も真っ青な、罵詈雑言マシーンと化してしまうのだ。
口は災いの元とは、よく言ったものんだ、と俺は思った。
こうして静かになり交わす言葉がなくなると、ふと周りの景色に気を回す余裕が出てくる。いいや、俺は一人で歩いていた時ですら、周りの風景を気にしたことなどなかったのかもしれない。ただなんとなく、何を見るわけでもなく、歩いていたような気がする。
なのに、今俺は俺と鷺ノ宮を取り巻く風景に気をとられている。それは何故なのだろうか? 確かに街路樹は完全に紅葉をし、色鮮やかな黄色や赤になって、俺の身体に舞い落ちてきては、変わりゆく季節を感じさせてくれる。
ああ、もう秋から冬になってしまったのだなぁと、実感させてくれる。
この東京に出てきてから、季節を感じるということはカレンダーを見ることだけでしか味わうことがなくなってきていた。カレンダーが11月を指すから、ああもう冬になるのだなぁ、等と風情も何もなく思うだけでしかなかった。
そう、俺にとって季節の移り変わりとは、厚着をするか薄着のするかの差でしかなかったのだ。
「冬は嫌いよ、寒いから……」
俺の背中のほうから声が聞こえた。
ちらりと、鷺ノ宮のほう視線をやると、口から白い息を吐き出しては、両手を擦り合わせていた。
「――あっ」
口からでかかった言葉を俺は飲み込んだ。
どうしてそうしたのか、俺にはわかっていた。
けれど、わからない振りをしていようと決めたのだ。
そうして、俺たちはほとんど言葉を交わさないままに、歩みを進めていった。
「よし、到着」
俺はとある建物の前で足を止めた。
「ここが目的の場所なの?」
「そうだ!」
俺たちの目の前にドデーンとそびえたつ建物、というのはいささかオーバーな表現だ。実際のところは2階建てだし、まぁ大きいといっても大型量販スーパーなんかに比べれば小さいものだろう。
「……区立図書館」
鷺ノ宮は、入り口の門に書かれている看板をわざわざ声に出して読み上げた。
「そうだ!」
「そして、ここが目的の場所?」
「そうだ!」
「そうなんだ」
「そうだ!」
「同じ言葉を繰り返して言うと、面白いとか思っているのかしら……」
「そうだ!」
「和久って、つくづく哀れでかわいそうな生き物なのね」
「そ、そう……だ……」
俺は、眼球に水分が多くたまり、流れ落ちそうになるのをこらえた。
「へぇ~、図書館ってすげぇな!」
俺は、素直にこの図書館に感動していた。
実のところ、俺はこの図書館に来たことが一度もない。一応自称小説化志望なのにだ!
なぜならば、今のご時勢情報収集はネットで何でも出来てしまうので、わざわざ図書館まで足を運ぶ必要性などないと思っていたからだ。
しかし、俺は今この状況に感動している。
当たり前といえば当たり前なのだが、前を見ても後ろを見ても本、本、本。まさに本!
自分にとってまるで興味のないジャンルだろうが、なんだろうがお構い無しに縦横無尽な品揃え! しかも、しかもだ! 快適なエアコンで冬でもあったかぬっくぬく。
これは、これは、もしかするとまさにパラダイスなのではないだろうか? 神がこの汚れた地上にもたらされた約束の地なのではないのだろうか!
おっと、いかんいかん。中条さんの宗教の勧誘の影響でも出たのだろうか、少しばかり思考がおかしくなってしまっている。
はやる気持ちを抑えきれずに、右へ左へと、落ち着き無しに動き回る俺の姿に対して、まるで手のかかる頭の悪い子供に手を焼く母親のような面持ちの鷺ノ宮がそこにはいた。
「とっても楽しそうね。でも、ここは幼稚園児がはしゃぐお砂場じゃないの。わかるかしら、図書館なのよ? あら、和久には図書館って言葉は難しいかもしれないわね。ご本を静かに読む場所なの。わかるわよね?」
まるで園児に注意をする先生のような口調の鷺ノ宮。
「おう! まかせとけって!」
それに対して、言うことを聞かない腕白坊主のような俺。
完全に、精神年齢と実年齢が逆行している二人なのだった。
俺は本を手にとると、パラパラと流し読みをしては、興味の引くものを脇に抱え込んでいた。
ここには何冊の本があるのだろうか? 数万冊? そしてそれぞれに書いた作者がいて、更にそれを呼んだ人間がいる。それは想像もつかない数字になるだろう。そんな知識の集合体、人間のコミュニティの集合体。そう考えると、この場所がとても神々しい場所のように思えてならなかった。
脇に抱え込んだ本が、俺の脇許容範囲を超えた冊数になりずり落ちそうになった時、俺はふと我に返った。
――そうだ! 俺が楽しんでどうするんだ! 今日はあいつが退屈そうにしていたから、それを紛らわすためにここに来たと言うのに……。俺がこの図書館を選んだ理由、それはなんといっても金がかからない! ここがとても重要なのだ! 素晴らしいじゃないか! ただより安いものなどこの世の中には存在しない。いいや、お金をくれる場所があれば、そっちのほうがいいかもしれないな……。
俺がそんな頭の悪い子がよくする妄想に浸っていた。
そのずるずるに浸った身体を、なんとか浮上させては、俺は鷺ノ宮の姿を探した。
鷺ノ宮の姿を見つけたのは、絵本コーナーだった。
平日のお昼過ぎのこの時間、小さい子供たちの姿もなく、その場には鷺ノ宮の姿しか見受けられなかった。
絵本? 何故に絵本?
俺はその疑問を解消するためにも、この状況を相手に気がつれないように観察すべきであると判断した。
はい、勿論、ただの好奇心です。
鷺ノ宮は直立不動で、きりっと背筋を伸ばしたまま本を読んでいた。座って読めばいいのにと、俺は思ったが、それはそれで鷺ノ宮らしいとも思った。
絵本なのだから、きっと1ページに文字などそれほど書かれていないだろう、なのに鷺ノ宮は1ページ1ページをゆっくりと噛み締めるように呼んでいるように見えた。
一体なんていう絵本を読んでいるのだろうか?
俺の関心はその一点に集中していた。
だから、その疑問を払いのけるために、俺は一歩を踏み出したのだ。
「よお、さっきから熱心に読んでるその本は、なんて本なんだ?」
俺の声に反応して、鷺ノ宮ビクッと仰け反ると、ゆっくりと視線をこちらに向けた。
「な、なんでもないわよ! どんな本を読んでいようと私の勝手でしょ!」
鷺ノ宮の顔は赤かった。
「おいおい、図書館では静かにしないといけないんじゃなかったのか?」
「し、知ってるわよ! 今のは和久が驚かすからいけないのよ!」
「俺そんな驚かすようなことしたっけ?」
「したのよ! 実際私が驚いたのだから、そうに決まっているのよ!」
まぁ確かに、俺が意識をしていなくても、当の本人が驚いたのだから、そういえなくもない。
鷺ノ宮はそう言うと、そそくさと読んでいた絵本を、本棚に戻した。
「おいおい、まだ読んでる途中じゃなかったのか?」
「いいのよ、もう」
機嫌を悪くしたのか、俺と目をあわす事無く、言葉を返す鷺ノ宮が居た。
「ほかにも読みたいのがあれば、借りていったらいいぞ。俺の部屋は何にもなくて退屈だろ?」
「そうね、確かに和久の部屋は退屈ね。まぁ退屈なのは部屋だけでは無くて、和久の人生そのものなのだけれどもね」
どうやら、先ほどの分を悪態で返さないと気がすまないらしい。
「はいはい、でもな――ここ最近の俺の人生は、退屈なんてのとは縁遠いものになってきてるんだぜ。まぁそれは鷺ノ宮のおかげと言えばそうなのかもしれないけどな」
「なにそれ? それは私に対して感謝していると取って良いのかしら?」
「まぁ、好きなように思っとけよ」
実際、俺にはわからない。
この平凡からかけ離れてきている日常を楽しんでいるのか? それとも、恐れているのか?
そのどっちだとしても、今の状況を変えることは、多分俺の力では出来ない。
だから、俺はいつものようにただ流されるだけなのだ、そう、いつものように……。
俺たちはその後別行動で、適当に本を探したり読んだりしては、受付に戻って、気に入った本を借りた。
鷺ノ宮は、どうも俺の読まない分野であるところの、純文学系の小説を数冊借りるようだった。
俺はといえば、ベストセラー物の大衆小説に、マニアックなSF系小説など。そして、さっき鷺ノ宮が見ていた絵本をこっそりと受付に出して借りようとしたところを、鷺ノ宮に見つかってしまい、刺さるような視線と言う無言の圧力をかけられた、。
「いいのかよ? あの絵本、まだ最後まで読んでないんだろ? 借りればいいじゃん」
「私がいいって言っているのだから、それでいいの」
「本当にいいんだな?」
「しつこい男はモテないわよ。まぁ和久の場合は、しつこくなくてもモテないのだから、当てはまらないかもしれないのだけれど」
「かーっ! わかったよ! わかりましたよ!」
俺はガリガリと乱雑に頭を掻き毟っては、その絵本をもとあった場所に戻しにいった。
「これでいいんだろ?」
早歩きで受付に戻った俺は、どこにもあの絵本を隠し持ってない事を、鷺ノ宮に示した。
「はい、よくできました。それじゃ行くわよ」
スタスタと鷺ノ宮は出口の自動ドアへと向かっていった。
こうして、俺と鷺ノ宮の初図書館は幕を閉じるのだった。
しかし、あいつ、本当にあの絵本を借りないでよかったのだろうか? 熱心に読みふける姿からは、どう考えても鷺ノ宮があの絵本に特別な好意を抱いているようにしか見えなかったと言うのに……。
もしや、俺に好きなものを知られることを『恥ずかしい』そう思っているんだろうか?
相手に好きなものを知らること、それはある意味弱点を知られることと似ているのかもしれない。
鷺ノ宮は誰にも自分の弱いところを見せたくないと思うタイプだと俺は思う。
実際のところは、見せたくないと思いつつも、知ってもらいたい、そんな叫びが心のうちにあるようにも思えてならない。
けれど、俺はそれについては触れないようにしようと思っている。
鷺ノ宮の弱いところ、辛い所は、見てみぬ振りをしようと決めてしまっている。
何故そうなのか? 踏み込めないからだ、俺は他人の深い場所には決して踏み込めない。そういう人間なのだから……。
――いいや、そうじゃない、違うな……。わかってる、わかってるんだ。だから、俺はそれを言葉に出すこと以前に、頭で思うことすらもやめておこう、そうしよう、そうしようと俺は思うんだ。
図書館から出ると、いつの間にか外はもう日が暮れかけようとしていた。
茜色に染まった空にはちらほらと一番星二番星が見え隠れしていた。
「さあ、消臭剤と夕飯のおかずを買いにスーパーに行くわよ。このコートの臭いが身体全身についたらと思うと、鳥肌が立って仕方がないわ」
鷺ノ宮はコートの臭いをかいで、眉毛を九の字にしてしかめっ面をして見せた。
「へいへい、鳥肌でも鶏肉でも好きにしてくれ」
「そうね、それはいいわね。夕飯は鳥のささみを買って、お鍋にしましょう」
鷺ノ宮は両手のひらをポンと一つ叩いて、大きく頷いた。
「っておい、ひょんなことから、夕飯が決まってしまうものなんだな……」
「いやなら別にいいのよ。私だけお鍋を食べるから、和久は道に生えている雑草でも食べていればいいわ。きっと美味しいに違いないわよ」
そう言って、道路の脇に生えている、不思議な色をした草を指差した。
「こ、これを食えって言うのか?!」
「別に何でもいいのよ。放射能汚染されている草でも、、カドミウムでも、有機リン化合物でも」
「う、うわぁーい、お鍋だ! 楽しみだなぁー! ひゃっほー!」
俺は引きつった表情で笑顔を作り、その場で3回飛び跳ねてお鍋様に対する喜びを表現して見せた。
「素直に、最初からそう言えばいいのよ」
沈み行く太陽の光が照らし出し、鷺ノ宮の姿の細長い影ができていた。俺にはその影が、小悪魔がほくそ笑んでいる姿に見えてならなかった。
スーパーで買い物を終えた俺たちは一路家路を急ぐ。
まぁ正確には別に急ぐ必要などは全くないのだが――寒いのだ! 日が落ちてくると寒さが一気にグレードアップしては、夜風が肌にしみるのだ。
しかし、家に帰れば風はしのげる! それに、夕飯は鍋なのだ! 鍋は美味いし、暖かいと相場が決まっている。
ゆえに、知らず知らずのうちにお互い無言で足早になっては、家路を急いだのだった。
勿論、荷物は全部俺が持たされていたのは言うまでもない。
続く。