魔乳と笑顔
腕に伝わるふんわりとした乳の魔力、よって身体の自由を奪われた俺は、中条さんの進む方向に間の抜けた顔でついていくことしか出来なかった。
そう、まさに中条桃子の乳は魔乳であった。
バイト時代はここまで中条桃子の乳にパワーを感じてはいなかったのは、きっとバイト先の制服のせいであったに違いない。今思い返すと、あの体系を隠す野暮ったいエプロンスタイルの制服が彼女の魔乳のパワーを押さえつけていたのだろう。
――まさか、私服のおっぱいパワーがここまでだとは……。
その歩みの先に何が待ち受けているのか、そんな事は軽く想像はついてはいた。けれども、それを遥かに上回る幸福感を俺の身体は、主に腕は感じていたのだ。誰がそれを攻めることが出来ようか!
そうさ、これこそがもてない男のサガというべきものなのだ!
もてない男は、このような幸せタイムを逃しはしない。その先に待ち受けるものが、たとえ地獄であったとしても……。
むにゅむにゅ幸せ、ふにゃふにゃ天国。
天気は快晴、俺の腕にはもう冬だというのに乳の温もり、もとい春の温もりが舞い降りてきていた。
「さぁ、碓氷さんの『死の運命』を聖母神オフィーリア様の大神官であるロンベルク鈴木様に解いてもらいましょうね」
中条さんは一つの曇りの無い笑顔で、正気の沙汰とは思えない言葉を吐いた。
しかし、魔乳に精神を支配されている状態の俺である、思わず『はい! ロンベルク鈴木さんのお力をお借りします!』等と言ってしまいそうになった。
「ロンベルク鈴木大神官様は遥か昔に、彗星に乗って地球にやってきては、様々な厄災からこの星を守ってきているんですよぉ。凄いでしょう? 氷河期だった地球が暖かくなったもの、関が原の戦いで徳川家康が勝利したのもロンベルク鈴木大神官様のお力なんですよぉ」
中条さんの頭の中はきっとお花畑が舞っているに違いない。
それ以前に、そのロンベルク鈴木という奴の、設定の無茶っぷりに驚愕せざるを得なかった。
――何をどうすればそんな設定になるんだ。っていうか、その設定を真に受ける信者ってどんな奴らなんだよ。
まぁその信者の一人は今すぐ傍に居るわけであり、俺はその乳の偉大さに負けてしまっているわけでもあった……。
乳、すべては乳なのである。それゆえに、一つの疑問が俺の頭に浮かび上がった。
「あの、あのさ」
「どうしましたぁ?」
「そのロンベルク鈴木って」
「ロンベルク鈴木大神官様ですぅ!」
中条は組んでいた腕を引き離して、腰に手両手を当てては頬を膨らませて見せた。
「あ、はいはい。そのロンベルク鈴木大神官様ってのは、若い女の人なの?」
「いいえ、御年10億58歳になられる男性の方ですよ。とても毛深い男らしい方です」
「なるほど」
この瞬間、俺を縛っていた魔乳の魔力は潰えた。
毛深い中年男性には何一つとして興味など無い。あってたまるわけが無い! しかも10億58歳ときたもんだ!
それと同時に、俺の腕をおおっていた幸せオッパイパワーも途切れてしまったため、完全に魔乳の精神支配から解放されたのだ。
こうなれば、俺は良識ある三十前男に戻ることが出来る。
また中条さんに腕を組まれて、魔乳パワーの虜にされる前に、何とかしてこの場を切り抜けねばならない。
「碓氷さん、どうかしました?」
俺の変化に気がついたのか、中条さんは俺の顔色を覗き込むように伺いながら、キョトンと不思議そうな表情を見せた。
「いやいや、別にどうもしてないよ、うんうん、本当本当」
どうかしたというか、魔乳の支配から解放されました! などと言える筈も無く、適当な言葉でその場を取り繕うのに精一杯だった。
「そうですかぁ、よかったぁ。それじゃ行きましょうー」
そう言って俺の傍らに近寄る中条さん。いけない! この動きは、魔乳が俺の腕をつつみこんでしまう! そうなれば、またも俺の精神は支配されてしまうに違いない。
「うわああああああああああ」
俺は唐突に突拍子もない声を上げながら、その場から一歩後ろに向けてジャンプし、見事に魔乳をかわすことに成功する。
勿論、その俺の行動に中条さんの頭の上にはハテナマークが3個ほど浮かび上がる。
「あのぉ、どこかお加減でも悪いんですかぁ?」
「うわああああ、そ、そんな事は無いのだけれどー。そ、そうだー。急用があったんだったー。急がなきゃいけなかったんだったー。わすれてたー」
これ以上無い位の棒読み台詞を吐き捨てると、相手の返事が来る前に、俺は即座に相手に背を向けた。
「ごめんねええ、この件はまた今度ねええええええ」
その言葉を言い終えるや、持てる力のすべてを振り絞りその場から網ダッシュをしたのであった。
ダッシュすること数分。俺の息は上がっていた。
元来、運動は得意ではない。更に自慢ではないがここ数週間無職で引きこもりだ、体力などあろうはずが無い。
とはいえ、中条さんの視界から完全に消えるところまで走る事くらいは容易かった。
突然置いていかれた中条さんは、一体どう思ったことだろう。
呆気にとられたまま、まだあの場所に立ち尽くしているかもしれない。
まぁ、俺は中条さんに携帯番号を教えてもいなければ、住所も知られてはいない。可哀相ではあるけれど、これで俺と出会うこともそうそう無いだろう。
ただでさえややこしい事になっているというのに、更に問題ごとを増やすことは正直御免こうむりたいのだ。
とは言え、あの魔乳と再び合間見えることが出来ないのは、心残りだ……。
というか、なんで俺ってば、普通に女性と知り合うことがないのだろうか。怪しい宗教云々関係なくのお知り合いであれば、喜んで何処にでも着いていったことだろうに……。
などと悔やんでいても始まらない。俺は今当面の問題と向き合わなくてならないのだ。
「ふぅー」
俺は大きく深呼吸を一つし、呼吸を整えると、鷺ノ宮の待つ我がアパートへと向かうのだった。
「遅かったわね、一体何処で何をしていたのかしら」
玄関のドアを開けると、そこにはセーラー服に着替えた鷺ノ宮が仁王立ちで待ち構えていた。
「なだらかな平地だな……」
俺は思わず口に出してしまっていた。
「それは一体何をさしての言葉なのかしら」
「いいや、なんでもない、気にしないでくれ」
中条さんの魔乳と比べてしまえば、鷺ノ宮はまるで凹凸が無いに等しいといえよう。しかし、もしそんな事を口にしようものなら『死の運命』を待たずして、俺の命は潰えることになるであろう事も容易に想像がついた。
「ところで、どうして昨日と同じセーラー服を着ているんだ? もしかして着替えの服がそれしかないのか?」
俺は部屋の中央にどっしりと腰を下ろしあぐらをかくと、鷺ノ宮のセーラー服姿を上から下まで見回した。
「何を言っているの、これは昨日とは違う制服なのよ」
「へ? 俺にはどうみても同じようにしか見えないんだがな……」
「ほら、これをごらんなさい」
鷺ノ宮はそう言って、クローゼットの中を指差した。
なんと、そこにはズラリとセーラー服が並んでいたのだった。
クローゼットいっぱいに並ぶセーラー服を言うものは、なんと言うか壮観だったし、爽やかな空気を感じさせた。
「おい! お前一体何着セーラー服を持ってるんだよ!」
「あら、セーラー服の数に興味があるのかしら? 安心しなさい、8着持っているわ。ゆえに一週間洗濯をすることができなかったとしても、問題は無いのよ」
「いやいや、まてまて、そういう問題じゃないだろ。それよか、セーラー服以外の服は無いのか?」
「和久、あなたは記憶力というものが欠落しているのかしら。昨日私はちゃんとパジャマに着替えていたでしょう」
「パジャマ以外でだ!」
「ないわ!」
きっぱりさっぱりと、鷺ノ宮は言い放った。
「何で無いんだよ……」
俺は左手で頭を抱えた。
「和久はニートだからわからないかもしれないけれど、サラリーマンというものは毎日スーツを着るものなのよ。そして、このセーラー服を言うものは私にとって見ればスーツのようなものなの」
鷺ノ宮がご大層に述べる理屈には、大きな欠落点が合った。
「それはあれだろ、サラリーマンは毎日会社に行くけれど、お前はもう学校にはいかないだろ」
そう言った後で、俺は後悔した。これはあえて言うべきではない言葉だった。まるで、鷺ノ宮の居場所が無いということを、伝えているようなものではないか……。
「そうね……。確かに和久の言う通り、私はもう学校に行くことはないわ。けれど、この制服は亡き母の形見の一つのようなものだから、出来れば身に着けておきたいのよ」
毒を吐くいつもの口調とは違う、少し震えた言葉。そして伏せ目がちな鷺ノ宮の視線は、遠いところに行ってしまった母親に向けられているように感じられた。
そう、俺は鷺ノ宮の事を何も知らない。
だから、相手に向ける言葉はよく吟味しなければならないのだ。
「それに、和久はこういう制服とかが好きな変態三十前男なのでしょう? むしろサービスのようなものだと思ってもらいたいわ」
鷺ノ宮は、うつむいた視線を上げると、少しばかり声を張るように言葉を発した。
「ちげえよ! 俺はセーラー服マニアでもなんでもない! むしろこう身体のラインがくっきりと見える服のほうがだな!――イテェ!」
俺のオデコに刺激が走った。
「そういう意見は、心の中にしまっておいてもらいたいわね。ここにうら若きレディーがいるのだから。あと、こういう時はこう言うものよ。『その制服姿よく似合っているよ』これが紳士のとるべき態度じゃないかしら」
鷺ノ宮は、その場でクルリと一回転して見せた。制服のスカートがまるで花のように開いて咲いた。
「……ああ、似合ってるよ」
照れくさそう俺は言ったと思う。
「一応紳士的な言葉を言えるのね、いい子だわ」
鷺ノ宮は俺の頭を撫でる真似をした。
そして、スカートの両端をつかんで、まるでどこかの漫画にでもありそうなポーズで会釈をすると、珍しく晴れやかな笑顔を見せたのだった。
続く。