4歩目
それからは、おもむろに筆を走らせる姿に惹き込まれた。いや、むしろ、熱に当てられたのかもしれない。
私が見てきた誰よりも真剣で、老眼で見えにくいであろう瞳は熱心にキャンバスを捉え、呼吸すらも忘れてしまうほどの情熱的な姿に、感心したのかもしれない。
たった数十年の人生と、残り一年の時間を必死に生きている事が、この世のなによりも輝いて見えたのかもしれない。
私には、これほど熱中できる物があったのか。
私には、これだけの熱量を注ぐ事が出来たのか。
自身と向き合う言葉ばかりが浮かんでは消え、理想を描いては現実に上書きされる。
そんな葛藤の渦中にあった私へ、おばあちゃんは顔色も瞳の向きも表情さえも変えずに話し出す。
「そういえば、旅人さんはどうして旅をしているのかすら?」
「……あ、その」
言えない。
というか、理由なんか決めていなかった。
ただ、なんとなく。いつもそうだ。気まぐれに行動を決めて、動機や理由なんて後付け。
それが私で、今回の旅だって家に引き篭ったまま終わるのは嫌だったからに過ぎない。
大層な目的も、大仰な目標もない。
だから、このまま素直に言うべきか。はたまた適当な話で誤魔化すか、思案していると助け舟が漕ぎ出された。
「私もね。絵なんて今まで描いてきたことないの。小学校とか、中学校の頃に課題で出た以来一度もね。
丁度ほら、この間、地球に隕石がぶつかって皆死んでしまうってなった時。あの時に、ふと思ったのよ。
私、何も残せないまま死んでいいのかって」
静かな庭園。そこに響くおばあちゃんの声は、僅かに震えていた。
「旦那もいないし、息子も娘も都会で暮らしているから家にはたった一人。ペットもいないし、ただの惰性で花とか育ててたんだけどね。でも、私が手を掛けなくなったらいつかは枯れちゃうでしょう。
だから、何か残せないのかなって思ったの。せめて、生きた証を。私が生きてきた、見てきた全てを形に残したいと思ってね」
当然の心理ではあるだろう。
危機感からさせる生存本能とは言えなくとも、自分が死んだ後も意志を載せた物の残留を願うのは自然とも言える。
それが、おばあちゃんの筆を走らせる原動力なのだろう。
「そう思って、家中探し回ったの。私の部屋も、息子達の部屋だった物置部屋も、そしたらね。旦那の書斎に真っ白なキャンバスが立ててあってね」
イメージしてみると、うん。このおばあちゃんから漂う婦人オーラからして、かなりの書斎なのだろう。
丁寧に並べられた本棚。窓際には、シックなテーブルに座り心地が良さそうな黒いチェア。何か書いてみるのも捗りそうな静かで、優しい時が流れそうな空間。
その中央に、ポツンと。主を待ち続ける真っ白なキャンバスと目が合う。素敵じゃない。
「ビックリしたの。旦那には絵を描く趣味もないし、個展を見に行くほど熱心でもないから余計に。
でも、ね。よくよく考えれば、あの人、私の事をいつも気遣っていたから、あえて残したんでしょうね。私が、何かを残したいと思う考えを見抜いて、新しいキャンバスを置いていったの。
言えばいいのに。何か書いて残しておけばいいのに、何も残っていないの。本当に不器用な人」
ふと、横顔をチラ見する。
そこには、かつての記憶を蘇らせながら微笑む、絵画の世界から飛び出してきたような女性がいた。
「だから、たった一年の努力でも。あの人へ会いに行った時、胸張って言うのよ。『これを見なさい』って」
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