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解けた人形

作者: 菅原もみぢ

 夢殿めいた八角形の堂には巫女と少女の二人だけが坐っていた。先程まで祝詞を上げていた神職も、別の巫女もここに立ち入ることはない。


 最後の食事を前に少女の表情は堅く、傍らの巫女は鉄面を貼り付けた無表情であった。


 二人の前には小鉢と小皿に取り分けられた、山の、川の、畑の、森の様々な幸が並んでいる。魚の身をほぐし、煮た豆を器用に、輝く米を、瑞々しい葉物を、柔らかな蒸し野菜を。巫女が一つ一つ少女の口に運び、ゆっくりと咀嚼し、種々の恵みに感謝を捧げる少女が身体に含んでゆく。感謝の言葉もこの一週間で憶えさせられた。


 隅ごとに誂えられた燭光が少女の頬を染め、桜色の口唇を一層艶やかに彩る。


 漏れ込む風には雪の匂いが混ざり、底冷えの夜に、鉄瓶の湯も冷めてゆく。一息ごとに清浄が二人を作り替え、互いの白い息が静謐に広がる。食事を終え、注がれた果実酒が最後の一口であった。琥珀よりも薄い黄金の、澄んだ酒が徳利から猪口へ。


 舌に乗る滑らかな口当たりは甘く、香気には秋の名残が抜ける。しっとりと咽喉を覆い、胃に落ちると仄かに熱を生む。


 徐々に徳利が軽くなり、最後の一滴を干す頃には、少女の瞼は蕩け甘い息に微睡んでいた。恍惚と細められた眼差しが巫女に交錯し、俄かに頬を緩める。自分の真向かいにいるのが彼女でよかったと伝える、凪いだ微笑であった。


 灯火が尽きる頃、少女は夢に泳ぐだろう。そして神職が少女を背負い、巫女とともに山の祠へ向かう。この土地を治める神への贄として。


 少女の息は徐々に深くなり、果実の甘さが強くなる。巫女は少女の傍らへ移り、穏やかな寝息を立て始めた少女を支える。


 眼の覚める鮮やかな衣は蝋燭の火を吸い込み、赤と黄の濃さを増し、隙間風に模様が流れ、袂が袖に、袖が襟へ、やがて背に回り帯に溶ける。


 一つまた一つと蝋燭が潰え、次第に夜の深まりを増す夢殿の中に満ちる寂寞は二人を包み、息が、衣擦れが、相手の存在を一層強く感じさせる。雪の真っ暗闇には月影も差さず、星明りも届かない。




 神職を呼ぶために開いた木戸から舞い込む細雪は着物色にちらめく。今朝までの吹雪が嘘のように静かな境内には燈籠が灯り、火を映す銀白雪には足跡が黒く沈む。海よりも深い黒空から注ぐ結晶はふわりと宙に漂い、それは綿毛よりも軽い。


「お願いします」


 眠る少女を神職に託し、巫女は提燈を手に先導する。


 本殿の裏から続く山道に分け入り、積もった雪は一踏みで踝まで足袋を濡らす。音もなく沈み、固められた雪が軋む。


 足袋の吸い上げた雪は足を凍らせ、緋の袴も夜に交じるように色合いを変じる。


 願わくば、少女を背負うのは自分でありたかった。たとえ神職であっても、少女に触れてほしくはなかった。少女に触れるのは自分の特権だと思いたかった。


 二人分の足跡が新雪に刻まれ、火に照らされる雪道は瞬き、枯れ枝に、雪の奥に、歩みに合わせて揺れる黒影は妖艶にうねる。光の届かぬ暗夜は底知れぬ闇となり、数間先の道も見えない。勾配はだらだら続きに果てなく、二人の足取りは少しずつ重くなる。


 吐く息は凍り、悴む指先が痛む。提燈の柄を握る指は赤く腫れ、次第に感覚もなくなり、指を解くこともできない。


 蝋燭は瞬く間に五本目が尽きた。


 空が近付くほどに雪は重さを増し、白衣を仄青に染める。


 神職の傘に、少女は濡れることもなく、美しい着物の色めく衣擦れは雪の合間に巫女へと届く。


 緑髪が白の斑となり、肩にも荒雪が乗る。


 出立から二時間ばかり歩き、辿り着いた祠こそ、一帯を治める土地神の祠であった。昨今の雪に埋もれながらも威厳が損なわれることはない、仰々しい気配を放つ。


 いつから、ここにあるのかもわからない。誰が建てたのかもわからない。連綿と祀られてきた土地神の祠である。


 ここから贄を求める朱塗りの矢が飛んで来るのだ。


 神職の背で眠る少女を祠の正面に下ろし、朱と緋に黄檗と紺青の着物は純白の雪の下、次第次第隠されてゆく。神職が最後の祝詞を捧げ、隣の巫女は眠る少女に慈しみを向ける。けれど巫女は寿ぐことなどできなかった。時折吹く風は容赦なく雪片を浴びせかけ、温度は氷点を下回る。薄桃の頬は、紅の口唇は、柔らかな睫毛は、梳られた黒髪は。瞬く間に攫われる。


 神職が提燈を拾い上げ、麓へ戻る準備を行う一方、巫女は支度もせず、少女の傍らに膝をついたまま身動ぎもしない。二人残された巫女は少女との過去を反芻する。




 神楽殿には小柄な巫女が一人。


 雅楽の音もなく、梢の戦ぎに合わせるように、足を運び、手を広げ、神楽鈴を鳴らし、正面を見据えたまま一瞬の淀みもなく、淑やかに舞っていた。


 清かな雪の名残を孕む風は冷たくも、幽かに桜が香り始めていた。


 穏やかな昼下がりの境内には散歩帰りの老人や参詣の家族が僅かにあり、誰もが巫女の様子を見つめていた。


 涼し気な眼差しには緊張、不安、歓喜、幸福、いずれの感情も垣間見えることはなく、能面めいた表情は微動もせず、ただ作り物めいた美しさを含んでいた。


 幽かに白粉を刷き、一差しの紅は鮮やかに、影にあっても尚暗い双眸は滾々と夜を湛えて見える。


 神楽殿に最も近いところで巫女の様子を見つめていたのは、十歳ほどの少女であった。


 両親から離れて神楽殿の匂欄を両手で強く握り、瞳を爛々と輝かせる。幼い瞳に映る巫女の姿はこの上なく美しく、水を張るばかりに澄んだ眼差しは、神楽殿の隅々まで見通すようであった。


 巫女に合わせて視線が動き、床板に重なる視線の先に白足袋がちらりと覗く。氷を辷るように滑らかに、足取りは静かに軽い。遠く山峰の奥を望む眼差しは足許を見ているわけもないのに、はらりと零れた花弁を踏むこともない。一枚一枚を鮮やかにかわし、しかし足運びは決して乱れず、玲瓏足る顔は少女の興味を引き続けた。


 十分十五分と舞った後、舞台の中央で足を揃えると、時が止まるほどの静寂が齎された。誰が静寂を破ったか。控えめな拍手を契機に音が生まれ、風が吹き、絵馬が鳴った。


 高舞台から地に降りた巫女へと少女は駆け寄り、羨望の眼差しとともに声を弾ませたのであった。


「お姉ちゃん、すごく綺麗だったよ」


 巫女の傍らに近寄った少女は水晶の眼で、頻りに声を上げた。巫女は感情の見えない表情のまま少女へと向き直り、そっと小首を傾げる。さらりと零れた髪が頬に掛かる。巫女の素っ気ない反応にも構わず、少女は笑みを絶やさず彼女の手を握り、楽し気に手を弾ませた。慌てた両親が二人に駆けるよりも早く、巫女は少女と眼線を合わせ、表情からはとても予想の出来ない、鶺鴒の歌声で、たった一言囁いた。


「ありがとう」


 そっと少女の頭を撫で、両親が辿り着く頃には既に社務所へと隠れ、残された少女は巫女が触れた自分の頭に手を重ねていた。


 これまでも少女は他の巫女の神楽を見たことはあった。普段の練習のみならず、季節の神事の折に触れ。けれどこれまで見た巫女の誰よりも少女には魅力的に映った。


 もっと愛想の良い、柔和な微笑みを向けてくれる者もあった。穏やかに語り掛けてくれる者もあった。頂き物のお菓子を分けてくれる者もあった。神職も含め、多くが朗らかであった中に、あの巫女だけが表情を変えず、まるで感情などないように振る舞っていた。


 人形かと思われる巫女の所作に、立ち居振る舞いに、呼吸に僅か上下する胸に。その何れもが、少女を惹きつけた。


 両親の叱咤も耳には入らず巫女の消えていった社務所の扉から眼を離せなかった。

 


 あの一瞬で少女の中に生まれた感情があった。



 明くる日も神社を訪ね、別の日も境内を歩き、その次には御神籤を引き、いつかの巫女について尋ねてみた。


 曰く、あの巫女は神職の知り合いの子供らしい。


 曰く、しばらく前にやって来て、勤めに出るようになったのは最近である。


 曰く、愛想が無く付き合いにくい。


 曰く、世辞やおべっかを云わないところは好感が持てる一方で、はっきりとした物言いに落ち込む人もある。


 曰く、昔はもっと表情豊かであったらしい。


 そんな事情をこっそりと教えてくれた巫女は、七五三を始め、事あるごとに少女に縁のある、成人を迎えながらも童顔であることを気にしている人であった。


 あの娘がどうかしたのかと問われた少女は、上手く言葉を続けることができなかった。


 もう一度彼女に会いたいと思った。彼女の顔を見たいと思った。けれど、それ以上のことは考えられていなかった。彼女に抱いた特別な感情も、綺麗なものへの憧れだけだと思っていた。


「今日も居ますか」


「えぇ、今日も居るよ」


 だから居るとわかれば嬉しい。今日だって一眼見られれば満足であった。


「あっ」


 不意に声を上げた巫女は、少女の背後と少女を交互に見遣り、仄かな笑みを浮かべていた。


「あの娘だよ」


 少女が振り返ると件の巫女が凛然と歩んで来るのが見えた。足の運びは緩やかにして嫋やかである。規則正しく緋の行燈袴が揺れ、やがて訪れた二人の元、巫女へと向き直り静かに口を開く。


「替わります。お昼に行ってください」


「えぇ、ありがとう。その娘、あなたに会いに来たのだそうよ」


 去り際に告げた同僚の声に、巫女は少女へ向かい、何も告げることなく静かに立ち尽くした。出し抜けに巫女が現れたことで、少女は言葉を失い、二人の間には幽かに桜の乗った華やぎが通り過ぎた。


「こんにちは」


「……こんにちは」


 思わず眼を逸らしてしまったのは、緊張か、羞恥か、後ろめたさか。巫女の声に応答しながらも、次の言葉はない。少女はどぎまぎと、巫女を見て、眼を逸らし、また巫女を見てはちらと視線を外した。


 他方の巫女は少女から視線を外さず、微動もせず、終始少女の様子を見つめていた。


「私に会いに来たの」


「えっと、あの、そうです」


「そう」


 変わらぬ眼差しは朝焼けの湖面に似た輝きを孕む。少し頬がこけ、血の気のない顔色が巫女の儚さに似合っていた。


 少女が言葉に窮した時、神職を探していたらしい老婆が巫女に声を掛けた。


 春の挨拶回りをしていたけれど、神職が捕まらないということだった。巫女に封筒を渡し、交わす言葉は少なくない。老婆の嗄声と巫女の囀りと。満足そうに頷いた老婆を見送る巫女は一度の微笑すら浮かべることはなかった。老婆との会話にあっても巫女の立ち居振る舞いは美しく、少女にはわからない難しい言葉を滑らかに操っていた。


 少女は巫女に気圧されたか口を噤み、元より口数の多くない巫女は、沈黙も不安にはならない。何も云わない少女を訝かりもせず、邪険に扱うこともなく、離れることもなく、奥から持ち出した椅子を少女へと宛がった。


「何か用事があって来たのではないの」


 自分に会いに来たと云う少女が一向に話を切り出さず、様子を盗み見るばかりであったため巫女は尋ねたけれど、堅い物云いに怯えたように、少女の応答は思わしくなかった。


「用事はないんです。……お姉さんに会いに、来たんです」


「そう。そういえば以前に神楽を褒めてくれましたね」


「はい。あの時のお姉さん、今もですけど、すごく綺麗で。それで私、あの……それで」


「ありがとう。嬉しいよ」


 あの昼を憶えていたことに声が弾む少女の言葉に応える巫女の声は平坦である。淡々と事務的に、熟すように言葉を紡ぐ。


「それで、それで……お姉さんとお友達になりたくて……」


 言葉は尻窄みに春風に攫われ、微風が二人の髪を揺らす。


 そっと鴉羽を抑える巫女の然り気無い仕種に、少女は眼を奪われた。


 舞う花吹雪を背負う巫女の神聖は夢のように淡く映った。



 

 流行病により両親を亡くした彼女を引き取ったのが神職夫婦である。彼女の両親とは古くから懇意にしており、子供に恵まれなかった二人は少女を引き取ることにも前向きであった。かつて何度も顔を合わせたことのある夫婦と少女であったけれど、とてもぎこちない対面となった。少女は所在無げに、眼も合わせられずにいた。


 引き取られたばかりの少女は塞ぎ勝ちで、神職夫婦が気付けば和室の隅で眠っていた。昼寝をすること、微睡むことが好きだった。起きていると亡くなった両親のことを思い出し、とてもつらくなるから、自分の意識が失われる時間を求めていた。余計なことを考える暇が無くなるほど何かに夢中になろうと、朝から夜まで神職を手伝うこともあった。はたまた本殿や蔵、屋根裏から境内を通る参拝者を覗き見ることもあった。どれも楽しくないわけではなかった。それでも淋しさは満たされなかった。


 悲しくないのは眠っている間ばかりであった。


 手伝いをしていても、本に没頭していても、境内を歩く人々を観察しても、ふとした瞬間に幸せそうな夫婦が、親子が、老人とその孫が、視界に映ると、懐かしい記憶が甦り、その度に落ち込んでしまった。


 だから。


 時に陽の当たる表で、窓辺で、押し入れの中で、母親の着物に包まったまま微睡む時間は増える一方だった。


 それでも当時の彼女は楽しければ頬を綻ばせ、驚き眼を丸くし、泣き、時に癇癪を起こす、年相応の子供らしさを見せていた。


 けれどその年の冬に白羽の矢が立ったことを契機に、彼女は感情を亡くしていった。


 贄として選ばれた男の子と、その両親の様子を見たことがあった。


 儀式があることは知っていたけれど、直接関わったことはなく、どのようなことが執り行われるのかをきちんと理解してはいなかった。


 けれど、矢が立った家の人間が泣き、喚き、叫び、人に当たり。気の毒になるほど取り乱していたのを憶えていた。自分と年の変わらない子供が贄と捧げられ、家族も巻き込まれ、一家が瓦解していく様子を知ってしまった。神社の関係者として、とても近い場所で。


 それにも増して、彼女を酷く打ちのめす出来事があった。


『お前のような孤児が選ばれればよかったのに。そうすれば誰も悲しむことはなかったのに。お前が贄であればよかったのに。どうしてお前ではないのだ。どうして、うちの子なのだ』


 子供を取られた親と相対し、眼を血走らせ、忌々し気に、怒り散らされた時、激しく動揺してしまった。彼女は、強い感情に当てられた時、何も云えなくなり、逃げることもできなかった。


 遅れて流れた涙を咎められ、少年の家族は続け様に言葉で殴ってきたのだった。


 一方的な呪詛の嵐は、少女にとって、家族を失った以上に衝撃を与え、憎しみを煮詰めた鈍色の言葉は何度も彼女の頭を過り、例えようのない重さを残した。


『お前が死ねば良かったのに。お前が贄であれば良かったのに。どうしてお前が死なないのだ。うちの子供なのだ』


 二人の言葉は強く彼女を苛んだ。


 自分は生きていてはいけない人間なのだと。


 自分は死ななければいけないのだと。


 寝ても覚めても呪いのように、繰り返し少女の頭を占めてゆくのだった。


 怨嗟から逃げるために、悲しみを忘れるために、少女は心に殻を作り、自分を守るために少しずつ心を閉ざし、感情を壊し、自我を亡くそうとした。ある時は死を求めて山へと入り、また別の時には投身を図り、あるいは入水を試み。自らを傷つけようとした。


 しかし彼女の試みは破れ、死に巡り合うことはできなかった。


 次第に彼女は、何が起ころうと感情の起伏を均し、すべてを他人事のように受け止めるようになった。嬉しくても、楽しくても、悲しくても、やるせなくても、苛立っても、褒められても、叱られても、泣かず、笑わず、ありがたがらず、反発せず、淡々とその場を済ませるようになった。


 別の人格を作るように、そちらにすべてを丸投げするように。自分は何も考えず、決して傷つかないように。ただ言葉をなぞるだけの絡繰りのように。




 友達になりたいと少女が告げたあの日から、神楽の練習にはいつでも少女が待っていた。約束もしていない、時間も同じではない。それでも巫女の前には少女が待っていた。雨の日も風の日も、炎天にあっても、少女は飽きることなく神楽を楽しみ、いつしか巫女に合わせて自身の身体を動かすまでになっていた。


 巫女は同じ歩幅で、同じ調子で、昨日と同じ場所に、一昨日と同じ場所に、まったく重なる精緻な舞であった。静かな中に狂気を覗かせるほどに神経質な正確さは次第に迫力を増し、凄みを増していく。


 初めは視界の隅に映る少女に何事も感じてはいなかった。


 巫女の無愛想にも、にこにこと満点の笑顔を向ける少女を。


 神楽だけでなく、通常のお勤めの折にも少女は頻りに姿を見せた。


 特別少女に優しくしているわけではなかった。無愛想で素っ気ない対応にも、何故か少女は満面の笑みを巫女に向けていた。


 少女が一番好きだったのは、最初の日と同じく、千早を羽織り、化粧を施し、普段よりも装飾を重ねた巫女を見られる日であった。足繁く通ううちに、神楽殿に上がらせてもらうまでになった。


 眼の前に少女が坐していても、巫女の動きが乱れることはない。彼女の瞳には何も映っていなかった。


 巫女にとって神楽の瞬間は、眠ることにも勝る好ましい時間であった。感情を消し、思考すら放棄できる瞬間であった。何もない、頭の中を空にして、ただ風に従い、花の香りに流され、小禽の囀りに合わせるだけであった。視界は水に潜ったよりも滲み、継ぎ接ぎのように取り止めがない。本番ともなれば、笛が、鐘が、太鼓が、人声が混ざり、音が跳ね、響き、弾け、唸る。


 感情を隠した自分が、更に人間ではなくなる感覚が心地好かった。


 手足を糸で弄ばれる操り人形になったようであり、自我まで失い虚となる。


 舞い終え、視界を取り戻し、徐々に風の音を、戦ぎを、花の、若草の香りを認識する。


 現実に戻ってきた巫女を迎えるのは、ささやかな拍手であった。


 少女はぱっと破顔して巫女の傍らへと歩み寄る。


 巫女は剣を左手に携え、右手には少女の手を取る。少女の右手には神楽鈴が握られ、歩みに合わせてしゃなりと鳴った。


 互いを認識する出会いから一箇月が経過する今になると、巫女は少女がいることが当たり前になっており、二人が時を同じくすることが多くなっていた。一方的に懐く様子を見せた少女に、神社の人間は戦々恐々と成り行きを見守っていた。彼ら彼女らにとって、巫女の性質は難しく、巫女が少女を拒絶しまいか、手を上げてしまわないか、散った火の粉が我が身に降り掛かりはしまいか憂慮し、積極的に係わりを持とうとはしなかった。


 かつて感情を見せていた巫女が変わってしまった理由を知っている者にあっては、一層不安を覚えていた。


 けれど、少女はそんなことは知らず。


 神楽の上手な巫女として。


 一人のお姉さんとして。


 憧れのお姉さんとして。


 自分を拒絶せず、隣にいてくれる、汚い言葉も使わない、所作の綺麗な、声の綺麗な、見目麗しい、素敵なお姉さん足る巫女を慕っていた。


 同僚たちの心配も杞憂に、二人の相性は悪くなかった。


 巫女は自室に少女を招くこともあった。


 反対に少女の家に招かれることもあった。初めこそ巫女を警戒していた少女の両親も、娘の眼を通じて得られる彼女の人となりを知れば、印象も大きく変じた。


 円満な家族の団欒は、今の巫女にとっては他人事の遠い過去であり、悲しい記憶であり、必死に忘れてきた記憶であった。


 それ故に少女を取り巻く環境は巫女にとっては眩むほど鮮やかだった。


 そして眩しく思えてしまった自分の心境に戸惑いを抱いたのだった。



 

巫女が少女に対する感情を自覚した出来事があった。


 少女の部屋に招かれた昼下がり、少女が午睡に落ちたことがあった。


 草双紙を読み聞かせていた時のことだ。草いきれの混じる風に明珍を聞きながら、隣り合っていた。


「お姉ちゃんの綺麗な声で読んで欲しいんです」


 請われるまま受け取り読み始めるのは、孤独なお姫様と美しい幽霊の悲恋。


最後のページを読むと、すかさず少女は二周目を求め、二周三周と繰り返すうちに、少女が舟を漕ぎ始めるのがわかった。物語を読む巫女は片側に軽さを感じながらも頁を繰り、ちらりと少女を見遣れば穏やかな寝息を零すのが眼に入る。夏風に押された少女の身体が巫女へと傾ぎ、やがて膝の上へと落ちたのだった。少女の無邪気な寝顔は如何にも幸せに溢れていた。柔らかな髪を梳るように頭を撫で、巫女はほんの少しの居心の良さを感じた。それは明確な意識ではなく、一枚羅を透かせたような曖昧を孕んでいた。けれど彼女が掴んだ感覚は、いつか忘れたはずの感情を幽かに思い起こさせた。


 それは必死に忘れようとした。亡くしたはずの自我を。殺したはずの自分を。




 やがて訪れる薪神楽の当日。


 境内には薪が誂えられ、集落の人間が垣を作る。四方が抜ける神楽殿では巫女の姿がどこからも見え、対面の人間の表情さえ、陰影が明滅に合わせて蠢いた。


 その日の巫女は他に比べ得るもののないほど華やかで、歴代の薪神楽の内で最も美しかったと評判であった。薪の燃える様、照らされる巫女の顔、白衣に広まる火の移ろい、火の粉を浴びる雪の膚は、その凄味は、見る者に言葉を失わせた。


 神楽鈴の音が、笛の響きが、琴の震えが、太鼓の重さに合わせて、巫女が舞う。静かに、嫋やかに、優雅に、凛として。幾度となく巫女の練習を見てきた少女にとって、これから彼女がどう動くのかは考えるよりも先にわかっていた。


 右足を一歩出し、左足は縦に揃えるように、少し腰を落とし、くるりと身体を回す。袴の裾が、千早の袂が、髢の先が、遅れて揺れ、簪の金飾りがちりりと鳴った。


 磨かれた板張りが炎の揺らぎを返す。


 両手を広げ、膝を折り、僅かに顔が近くなる。巫女の視線は望月へと捧げられ、表情は変わらず、足捌きは乱れもしない。


 しかし一瞬だけ。



 巫女は少女へと視線を遣った。




 舞い終えた巫女は池の畔に引き、汲んだばかりの井戸水を含むと、冷たさがさらりと胸に落ちる。


 休憩を経て我を取り戻す彼女に、神楽の瞬間の記憶は夢を彷徨うばかりに朧気であった。


 その間は疲れも緊張も、人の視線も気配すら感じない、宛ら操られる乙女文楽のままに。


 舞台を降りた今、疲労は一瞬で訪れた。呼吸が乱れ汗が吹き出す。心臓が鳴り、締め付けられる。苦しさに手足が震える。細い頤から垂れる雫が三和土に散る。


 神楽が終われば彼女の出番は終わり、残りを継ぐのは別の巫女や神職である。


 徐々に頭の冴える中、少女は今宵も巫女を訪う。


「お姉ちゃん、すっごく綺麗だったよ。私も大きくなったらお姉ちゃんみたいになりたい」


 少女は嬉々として神楽の感想を告げ、諳んじられるまでに憶えた舞いを踏んでいた。やがて隣に座り、憧れを詰め込んだ瞳を以て破顔する朗らかさが、息も絶え絶えの巫女に染み渡る。


 雲から覗く月影に浮かぶ少女の両手が、まだ火照る巫女の手を握った。


 何の意図もなく。


 蒲公英の綿毛が風に吹かれるほどの気安さで。


 悪意から自分を守るために自分を殺していた少し以前なら、境内の騒めきも遠く、提燈の灯りも届かない薄闇で、眠らない虫の声を、夜鳥の囀りを聞くのは一人きりだった。


 だから。


 隣に人がいることが新鮮だった。


 手を握ってくれることが嬉しかった。握り返すと仄かに頬を染めるのを可愛らしいと思えた。


 決して動かなかった表情に、仄かな微笑が覗いたのは、自然なことだったのだろう。


 巫女の微笑みに少女は一瞬間眼を丸くし、すぐに燦然と瞳を輝かせた。



 お姉ちゃん、初めて笑ってくれたね。



 少女の笑顔は夜すらも明かしてしまうように、いつにも増して晴れやかだった。




 その日以降も巫女の鉄面は相変わらずであったけれど、少しだけ雰囲気が柔らかくなったと巫女たちは密かに褒めそやした。


 少女は当然のように巫女の隣にあった。


 言葉が増え、何気ないことを話題にし、少しずつ距離が近くなる自覚があった。少女の手に指先を触れ、そっと指を、手の甲を撫でる、二人だけにわかる符牒が出来た。


 少女の巫女に対する感情は友人に向けるそれとは少しだけ異なっていた。


 憧ればかりでなく、一歩進んだ恋心に近い感覚は一緒にいるほどに、少女の中で芽を出し、葉を広げ、花を咲かせるようだった。


 不愛想で、感情の起伏も見えない、自分と一緒にいるのをどう思っているのかも云ってくれない、楽しいのか、つまらないのかもわからない。けれど、自分を拒絶することは決してない。


 嫌なことがあった時、友人と喧嘩をした時、親に叱られた時。そんな時はいつだって巫女の元を訪ねていた。


 少女を迎えた巫女は気の利いた助言はできずとも、少女の気が済むまで一緒に過ごした。


 少女と並んで座り、手を触れ合わせ、抱きしめ、頭を撫でていた。


 少女は巫女に頭を撫でられるのが好きだった。


 すぐ傍に巫女を感じることができるから。


 巫女の温もりを感じることができるから。


 巫女の手を感じることができるから。


 巫女の香りを感じることができるから。


 最初の日を想い出すことができるから。


 一頻り巫女に甘えて落ち着きを取り戻した少女を家まで送り届けることも、巫女の日常になっていた。


  


 少女に初めて微笑み掛けた日を境に、巫女は仕事中にもぼんやりとすることがあった。


 季節を問わず、時刻を問わず、抜かりなく仕事を熟してきた。だからこそ他の者がしたのであれば気にも留めないような小さな粗相が眼に付くようになった。


 本人はそれを恥じる一方、近くで見ている同僚たちが僅かに安堵したのもまた事実である。


 まるで人形のように淡々と、完璧な巫女よりも、小さな失敗をし、動揺を瞳に浮かべる、人間めいた今の方が、より好ましく思われた。


 本人に伝えると、きっと彼女は嫌な顔をするだろう。しかしこれまでの彼女はそんな顔すら、人に見せることはなかったのである。


 ひとえに少女の影響であった。


 他人の視線も評価も気にしない巫女に唯一変化を齎したのが少女であった。


 その数日後。

  


 少女が訪ねた折、数年振りに巫女は人前で笑顔を見せたのだった。


  

 初めて見た者もあっただろう。


 その姿は可憐の一言に尽きた。


 きりりと引き締められた口許、睨むように鋭い双眸。指先までぴたりと整えられた作り物めいた所作。凛然と伸びる背筋に涼やかで鋭い眼差し。


 それらは忘れられ、柔らかで、穏やかな、微風に濡れる木漏れ日の微笑みであった。


 巫女の微笑に少女も裏のない笑みを返し、二人の様子を見た同僚たちは、その日一日密かに騒めいた。


 普段からあの様子であれば、自分たちはもっと彼女と仲良くなれただろうか。


 少女のように、今一歩踏み込んでいれば関係性は変わっていただろうか。


 何もしなかったわけではない。


 同僚の巫女や神職たちも彼女のことは気に掛けていた。休憩時間、食事時、一緒に境内を歩く時、社務所で顔を合わせた時。それとなく話を振ることはあった。複数人を交えて喋ることもあった。それでも彼女が感情を表出させることはなく、しかし無下にされることもなく。捉えどころの無い性質に手を拱いていた。


 だから、彼女から欠けた部分を取り戻してくれた、感情を氷解させてくれた少女には、誰しもが少なからず感謝していた。


 少女は朝一から神社にやって来ると、巫女の仕事振りを眼で追い、後に付き、手を振っていた。初めから神社の一員であったように馴染み、休憩時間には巫女の方から少女に近付き、声を掛けるようになっていた。


「最近変わったね」


 事務的なやり取りしかした覚えのない先輩巫女から問い掛けられた。


「私がですか?」


「うん。最近表情が柔らかくなった」


 一瞬眉根を寄せる鹿爪らしい表情を見せたけれど、それすら絵になる少女の造形に少なからず嫉妬も抱きながら続けた。


「そう。あの娘が来るようになってからそんな気はしていたんだけど、特に薪神楽の夜から変わったよ。気付いてなかった」


「はい。私はこれまでと同じつもりでした」


 手鏡を巫女に向けるけれど、彼女にとっては見飽きた自分の顔があるばかり。表情が柔らかくなったようにも思えなかった。苦慮の果てに人形になれた巫女にとって、変わったと云われたことが、好ましいことなのか、好ましからざることなのかはわからなかった。


 それでも巫女は少女を前にすると自分の感情を明確に自覚し、少女の感情に触れ、その度に現状を悪くないと思うのだった。


 少女が笑えば自分も嬉しい、楽し気に話し掛けてくる様子に心が弾んだ。少女が浮かない顔をしていれば傍に居たいと思った。


 彼女の中で複数の感情が鬩ぎ合う。昔に戻るべきなのか、今のままでもいいのか。


 それぞれに揺れながらも、少女の感情の機微を察することができる今を、嬉しく思う自分がいた。


 少女が喜んでくれるならば感情を晒すことも吝かではなかった


 少女の笑顔は巫女にとって、掛け替えのないものとなった。




 そしてこの冬。数年振りに白羽の矢が立った。

 


 

 神職が立ち去り、雪山に残ったのは巫女と少女である。


 道中一度も眼を覚まさなかった少女は、徐々に雪の勢いが増す今も静かな寝息を立て、時折身震いをする。


 一陣の風に乗り、寒さは容赦なく二人を襲う。とても寒く、凍え、身体が震える。歯の根が合わず、手足の感覚がなくなっていた。白衣も緋袴も乾いている場所が無いほど濡れつつあった。衣を重ねていても、袖や襟元、裾からは寒風が入り込み身体を冷やす。


 疲労に重く沈む身体は力なく雪に落ち、それでも頭の中は少女との想い出に満たされ、幻灯機が巡っていた。


 眼の前の少女は、あとどれだけ息が続くだろう。少しずつ息が細くなるのがわかった。


 傷一つ無い少女の綺麗な顔をまじまじと見つめ、贄となってしまったことを悲しみながらも、彼女の表情が穏やかであることだけが救いであった。苦しい思いはできれば一秒だってしてほしくなかった。


 もう二度と触れることのできない少女の頭を撫でる。積もる雪が少女の繊細な黒髪を凍らせるように、撫でる巫女の指も感覚を失い少女を伝えてはくれなかった。


 こんなに近くにいるのに、触れているのに、柔らかな少女の温もりを伝えてくれない。


 それがとても悔しかった。悲しかった。憎かった。


 それでも。



 想いが伝わったように。



 少女を撫でていた巫女の手を少女が握った。



 そして巫女の手の甲を人差し指で撫でる。


 二人にしかわからない、秘密の仕種。


 そのいじらしさに、涙が頬を伝い、瞬く間に凍り付く。


 少女の手を握り返し、氷のように冷えた手の甲を撫で返した。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 人身御供という悲しい流れから、巫女と少女との心の繋がりに心が温まる素敵な物語でした。 少し難しい単語のチョイスが、作品の厳かな雰囲気に見事に当てはまっていました。雪を踏む重みですら伝わって…
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