亜空間マンション
「ねえ、今日学校で変な授業があったんだ」
ぼくはナポリタンを食べながら、
パパとママに均等に目配せしながら言った。
「へえ、どんな?」
パパはやさしい笑みで聞いてきた。
「ここに住んでいるひとたちは、
昔自分たちがどうやって暮らしていたか、
全然知らないし、興味もないんだって」
パパはナポリタンに伸びていたフォークを
いったん置いて、軽く咳払いしてから言った。
「いいじゃないか、それでなにが困る?」
「困るわけじゃないけど……、
だって、パパが来た世界には
昔のひとの話があったんでしょ、
それもいっぱい」
「そうだ、あったよ。
海からイモリみたいのが這い上がってきて、
やがてサルみたいなものになり、
それからもっと頭がよくなって、
たくさんのひとたちが殺し合ったのさ。
なまじそういう昔の話を知っているのも
考えものかもしれないよ」
パパはテレビを見ながら言った。
「ねえ、ママはそのことどう思ってるの?」
ママはゆっくり咀嚼してからナポリタンを飲み込んで言った。
「ママが生まれたときから、
ここはなんにも変わらないわ。
きっと100年前も200年前もそうだったのよ。
同じものが続いていることに興味はないわ」
✳︎
たしかに、このマンションのなかは、いつもとても平穏だ。
ぼくが生まれたときから、今に至るまで、
なにひとつ変わっていない。
しかし、このマンションの外には、
めくるめく変化にさらされる世界がある。
小学校の修学旅行で、はじめて
歴史のある世界に出てみたことがある。
このマンションは外から見るととても小さかった。
10階建ての中規模な建物だ。
このマンションがいまぼくの暮らしている、
無限に広大な屋内空間に通じていると、
最初に発見したのは、
むかしこのアパートを管理していたひとらしい。
やがて、マスコミが話を聞きつけると、
そのどこまでもどこまでも続く迷宮は、
まとまった人口を擁する、
巨大な屋内都市であることが判明した。
屋内都市はどこまでもどこまでも続いており、
その容積はマンションの体積と全く矛盾していた。
またたく間にマンションは観光名所になり、
多くのひとが訪れ、広大な空間に吸い込まれるように
定住するひとも現れはじめた。
その中のひとりにぼくのパパがいた。
そして中に住んでいたママと結婚した。
✳︎
ぼくはこのごろ、エレベーターを使って
どこまでじぶんの住んでいる部屋から遠くに行けるかためしていた。
マンションの内部は極めて複雑で、
あまり奥に行くと帰ってこれなくなると言われていた。
エレベーターをいくつもいくつも乗り換えて、
かなり奥まで冒険してみたことがある。
マンションの廊下は地下深くなるほど、
どことなく暗く、ジメジメしていて、
すれ違うひとたちもなんだか陰気な感じになっていく。
✳︎
「また、悲しむべき事件が起きました」
翌朝、先生が朝礼で言った。
「みんなのお友達が行方不明です。
どうやら地下に冒険に行ったまま帰らなくなったようです。
先生たちも地下40階より深くは危なすぎて探しに行けません。
みんなは絶対にお友達の真似をしてはいけません」
ぼくは内心ヒヤヒヤするのと、ワクワクするのを同時に感じていた。
不良の友達に教えてもらって、
40階より深く潜るエレベーターの乗り口を見つけたのである。
一度、41階の廊下をエレベーターの中から見たら外は完全な暗闇だった。
ぼくはとりあえず引き返すしかなかった。
「なあ、ぼくたちで41階の奥に行ってみないか?」
ぼくはエレベーターの場所を教えてくれた不良に持ちかけた。
深夜、ぼくと不良はそれぞれの部屋を抜け出して、
エレベーターの入り口で待ち合わせした。
二人とも頭につける懐中電灯を装備していた。
いざというときのために不良はバールを、
ぼくはエアガンを持っていった。
41階に到達してエレベーターのドアが開くと、
やはりその外は真っ暗だった。
懐中電灯をつけても、一寸先が見通せるだけだ。
「おれ、こんなことなら来なかったよ」
そう言って不良少年はぼくを41階の入り口に残して、
そのままエレベーターで帰っていった。
不良少年はやはり、ぼくとは少し違ったのだ。
彼はぼく以外の学校の子たちと同じで、
マンションの原住民の純血なのだ。
外の血が入っていない。
だから、マンションの掟が怖いのかもしれない。
ぼくはやがて、エレベーターの内部の光が上に上がっていってしまうと、
真の闇の中で懐中電灯の僅かな光だけを頼りに、
ゆっくりとエレベーターを出てから右手に進んでいった。
もしここで懐中電灯の電池が切れたらどうしよう、
不意にそんなことを思った。
両手で握りしめたエアガンが汗で湿ってきた。
あたりはぼくがリノリウムの床をペタペタと
歩く音以外、完全な静寂である。
不意にエレベーターに戻れるか不安になり後ろを振り向いた。
しかし、そこは完全な闇だった。
「おい」
そのときどこからか女の声がして、心臓が飛び出そうになった。
声から察するに、ぼくと同じくらいの年齢の女だ。
「だれだ?」
ぼくは前方を振り向いた。
すると、闇の中に一条の光が刺していた。
廊下に面したドアが開き、中から灯りが漏れているのだ。
そこからひとりの少女が顔出してこちらを見ていた。
「おまえ、上から来たろ。その様子からしてこの階の住人ではないな」
ぼくはなにも声が出なかった。
「まあ、ここから引き返しても絶対エレベーターは見つからない。
いいから上がっていけ」
そう言って少女は手招きした。
部屋の中はごくふつうのマンションの一室だった。
キッチン、リビングがあり、寝室が一部屋あった。
部屋には少女以外住んでいないようだ。
少女はコーヒーを二人分入れて、
リビングのちゃぶ台の前にぼくを招いた。
「よくあの闇の中を進む気になったな」
少女は言った。なにか異様な眼光である。
「ふつう、あそこで引き返すか、
進んでも闇の中で永遠に迷子になるんだ。
あの唯一上に通じるエレベーターの入り口は
この階の中で常に移動しているし、
41階の面積は東京都より広い」
ぼくはそれを聞いてゾッとした。
「わたしがたまたま散歩に行くところに鉢合わせしてよかったな。
一年に一度行くか行かないかだからな。
運がいいとしか言いようがない」
そう言って少女はコーヒーを一口飲んだ。
「しかし、どうしてここに来た?」
ぼくは冷めゆくコーヒーを見つめながら言った。
「マンションのひみつを知りたい。
マンションの住人はどうして過去を知らないで
あんなに平然としていられるのかわからない。
ひみつのカギがあるとしたらここだと思っている」
「過去を知りたいのか」
少女が言った。そしてコーヒーを飲み干した。
「この階はこれより上のどの階よりも広大で、
そして最も暗く、寂しく、呪われている。
ここにはあらゆる矛盾が皺寄せされているからだ。
かつて、このマンションが『外』から発見される前、
マンション内は殺伐とした閉鎖空間だった。
ふたつの民族がマンションの中を激しく陣取り合戦していた。
『外』がないとひとびとは閉塞感から凶暴になるのかもしれない。
やがて、一方の民族が、もう一方の民族だけに有効な
ウィルスを開発し、それをマンション中にばら撒いて決着がついた」
「そんなこと初めて聞いた」
ぼくは担任の先生の顔を思い出した。
「彼らはわたしたちを41階の闇の世界に
永遠に追放すると、なにか特殊な技術を使って、
じぶんたちのやったことを意図的に全て忘却した。
その技術を開発し、使用したものに至るまで、
あらゆる残酷な歴史の記憶を徹底的に消去したのだ」
ぼくは、彼女のとうとうと話す内容を聞き入った。
✳︎
「ぼくはこの話を歴史小説にして、
マンション内のネットワークに掲載する」
少女に帰りの道のりを案内してもらっているときに言った。
「ありがたい気もするが、あまりいいことが起こらない気がする」
少女の表情は暗くてよくわからなかったが、そう忠告された。
しかし、ぼくの決心は固かった。
✳︎
翌朝からぼくは学校に行かず、
部屋で小説を書きはじめた。
はじめのうち、文章は下手だったが、
半年ほど特訓したらずいぶん小慣れた。
そして、満を持して書き溜めた小説を、
マンション内のネットワークに掲載した。
小説はよく読まれた。
そして、マンションのひとびとは
じぶんたちの呪われた来歴を知った。
そして、その呪われた来歴を持たない
外から来たひとびとは、マンションの原住民を
激しく嫌悪するようになった。
平穏だったマンションの中は、たちまち修羅の世界になった。
✳︎
ぼくはふたたび41階に行った。
しかし、また彼女に会える確証がない以上、
恐ろしくてエレベーターから出ることができなかった。
ぼくは小説の内容が「嘘」であるという声明を発した。
ひとびとの憎悪はぼくに一点集中した。
ぼくはリンチに会い、そして死んだ。
その後、マンションの中はまたなにごともなかったかのように
平穏な世界に戻ったという。