遺言
「父、ヴィルフリート危篤。至急、帰郷せよ」
それは、アルバドール修道院から来た1通の手紙だった。私が子どもたちを寝かしつけた頃に、ゼルヴァーダ神父から手渡された。
「ソフィ、早く支度をしなさい。なんとか、間に合えばいいのだが……」
いそいそと支度の手伝いをしてくれる神父に罪悪感を覚えつつも、余計なお世話だと言う想いが頭をかすめる。
……もう、顔すらも覚えてないのに父だなんて。
遡ること12年前、私はこの修道院に連れてこられた。それも3歳の頃の記憶で、どちらかと言うと引き取られた方のことを鮮明に覚えている。それからの生活は厳しかったが、なんとかみんなで助け合って、大して不幸を感じることもなかった。
「ソフィ姉さまはいつ頃お戻りになりますか?」
「……わかりません。できる限り早く戻ってくる気ではいるけども、冠婚葬祭はなにかと手が入りますから」
不安がるリズの頭をなでながら、思わずため息が漏れてしまう。階級は下の方だと言っても、貴族には違いない。なにかと手伝いはいるだろう。特に貴族は人の出入りが激しい。人の手はどれだけあっても、足りなくなるはずだ。
アルバドール修道院を馬車で出発し、2日ほどの道のりで故郷バルバラドルに到着した。父親のヴィルフリートはここの領地を任されているらしい。直径10キロほどの大きさで、領民が200人ほどの本当に小さな区域だそうだ。
「ここかぁ……」
貴族にしてはかなり小さな屋敷に見えた。シスターとして、冠婚葬祭の儀式で貴族の屋敷を回ることはよくあるので、どのへんの地位なのかはなんとなく察せた。下の方だとは言われていたが、恐らく最下級、もしくはその一つ上くらいだろう。ノックをすると、背が低く寸胴の中年男性が忙しそうな様子で出てきた。
「これは……もしや、ソフィ様ですか? お待ちしておりました。私は筆頭執事のマロンド=マシュと言います」
「はじめまして。父は……ヴィルフリート様の容体はいかがしょうか?」
「……ここで話すより、まずはご案内しましょう」
執事のマロンドは愛想のよい笑顔を浮かべる。横長で茶色のクルクル髪。口髭の両端が直角に上がっている。なんとも奇抜なスタイルだと思うが、貴族社会では流行っているのだろうか。
「……ソフィか?」
「はい」
ベッドに横たわっている父親は、すでにかなり顔色が悪い。職業柄、死体は見慣れているので、もうあまり長くはないことは察せた。
「……もう、時間がない。用件だけを話す」
「私にできることがあれば、なんでもおっしゃってください」
父親の顔はかなり苦しそうで必死だ。その様子を見てると、心がギュッと鷲掴みされるような気がした。ほとんど初対面ではあるが、血を分けた家族であることは間違いない。可能な限りは、希望に沿ってあげたいと言う感情が湧いてくる。
「ソフィ、お前にはこの……アーレンス家の後継者となって、このバラバラドルの統治をするのだ」
「えっ……でも、他に家族はいらっしゃるのですよね?」
修道院に入れられるぐらいなのだから、跡取りのアテぐらいはあるだろうと思った。そもそも、家長の前提は長男である。継承権としては女がもっとも低いし、貴族の社交場でも滅多にいない。
いくら貧乏の下級貴族だからって、養子ぐらいはとってるはずだけどな。
そう思いながら周りを見渡すが、私と執事のマロンド以外は、誰もいない。家長が逝こうとしているにもかかわらず、確かにこの状況はおかしい。妻も息子も親戚さえもいないことに、だんだん不安が増してくる。
「もうお前しかいないのだ。後妻とは半年前に離縁して、裁判で息子を取られた」
「それは……大変でしたね」
と言うことは、前妻が私の母なのだろうか。貴族は一夫多妻性だが、それは地位にも依存する。最下級の家族などはそこまで財力がないので、妻は一人と言う家庭が多いと聞く。
「しかし、あいにくですが私はすでにシスターとして洗礼を受けてしまっております」
すでに聖職者として、登録がされている。そもそも、その目的で修道院に入れられたのだから、文句を言われる筋合いもないが。
「……マロンド。あれを持ってきなさい」
「はい、かしこまりました」
私のお断りをまるで聞く様子もなく、執事が本棚から封筒を取り出す。そこ入っていたのは契約の書だった。書いてあったのは相続と権利の詳細である。手渡された書類を一通り眺めて、あらためてヴィルフリートを見る。
「あの……これはなんでしょうか?」
「私名義の資産だ。多くはない。土地もそれほど大きくはない。しかし、これがお前に渡せる全てだ。これからはお前がレイダースとしてアーレンス家を継ぐ当主となるのだ」
「いや、無理ですよ」
さすがに申し訳ないが、即答でお断りさせてもらった。なかなかに無茶が過ぎる父親だ。と言うか、よくそこまでの無茶をほぼ初対面の娘にできるものだと感心してしまう。大した領地でもないのに、という心の声は自粛した。
「……ゴホッ、時間がない。け、契約を」
「い、いや大変申し訳ありませんができないものはできないんです。お気持ちはわかりますが、私だって私なりに15年間生活してきたのです
「頼む! お前しか……もう、このアーレンス家を継ぐには、お前しか……」
「あの……でも……」
すがりつくように肩を掴まれ、鬼気迫る状況で睨まれる。なんで、そんなに必死なのか、素直に疑問に思った。反論したいことは、いっぱいある。そちらの都合で修道院に入れておいて、予定が狂ったから跡を告げだなんて、あまりにも勝手すぎる。
なにか……事情が……あったのかな。
もしかしたらと言う想いが頭をかすめる。じゃなきゃ、こんなことを頼めないだろう。たった一人の父親なんだから。なにか、すれ違いが起きていて、実は私のことを凄く想っていてくれていて。しかし、今はその誤解を解く時間もない。
「……わかりました、お父様」
「ほ、本当か?」
「ええ」
安堵の表情を浮かべるヴィルフリートに、私までホッとした感情が湧き上がる。よかった。誤解のままで死んでしまわないで、本当に。それから、急いで書類にサインを書かされる。
「あ、あのまだすべてに目を通して……」
「そ、そんなものは後でよい……と、とにかくサインを……ゴホッ、ゴホッ」
「わ、わかりました」
そして、私が書類にサインをしたのに安堵したのか、父はそのまま天に召された。