3話・私と彼の名前の由来の話
目が覚める。ゆっくりと意識が覚醒して、夢の名残を置いていく。
おかあさん、と口の中で小さく呟いた。夢には母の面影があって、叶うならば、まだ夢の残滓にまどろんでいたかった。
うっすらと開いた目にカーテンの隙間からこぼれる朝日が眩しい。避けるようにごろりと転がって、その視線の先に胡坐をかいて座っている人影を見つけて飛び起きた。
文字通り、本当に飛び起きたものだから、ただでさえ薄い夢の名残は頭から吹き飛んでしまった。
「おはよう」
「あ、おはよう、ございます」
さわやかな笑顔で朝の挨拶をされ、反射的に返事をして。ようやく回りだした頭で昨日の事を思い出す。自分で部屋につれてきておいて、不審者! ってなるなんて、あんまりだ。
目を瞑って昨日の事を詳細に思い出そうとしても、私は彼の名前と年齢しかしらない事実に突き当たっただけだった。
小さく唸り声を上げて目を開けば、やっぱりカーテンを引いた部屋の中でもきらきらしい輝きを纏ったレイスが朝に相応しいさわやかな笑顔でこちらをみている。……とりあえず顔を洗ってきてもいいだろうか。
「あ、朝、ごはん……」
私一人なら抜いてしまっても問題はないけれど、晩御飯も抜いているのに朝ごはんまで抜いては成人男性には辛いだろう。冷蔵庫に何か残っていただろうか、そもそも、ご飯炊いてない……? と頭を悩ませていたら、存外落ち着いた声音が振ってきた。
「俺のことは気にしなくていいから、自分のペースで色々やってくれ」
「あ……」
「俺は転がり込んでるだけだから。居場所をありがとう……名前を、聞いてもいいか?」
落ち着いたテノールが、優しく優しく問いかけてくる。そのことに無意味に混乱をしてしまう。父親と……中学の恩師の先生以外の、男性の落ち着いた声なんて、久しく聞いていないから。
「あ、え、と。幾月、依玖、です」
「イクツキ?」
「依玖、が名前」
「イクか! いい名前だ。私の友人もイクという者がいる。そいつは男だけどな」
にこにこと笑いながら解説するように言葉が続く。
「イクは男だと『護り手』という意味だが、女性ならば『幸福の女神』という意味だな。とてもいい名だ」
「それはレイスの国の言葉の意味?」
「ああ、俺の国の古語での意味だ」
つっかえながらもなんとか名乗れば、にぱりと太陽のような輝いた表情が返って来る。昨日から思っていたけれど、表情が豊かな人だ。……私とは違って。
名前の意味もとてもすごいものになってしまった。国が違えば文化が違うのは当たり前で、名前ひとつとっても日本では何の変哲もない名前がそんな意味をもつなんて。なんだかすごすぎて実感がない。私には過ぎた名前のような気さえしてくる。
イク、イク、と外国の人特有の鉛のある発音で呼ばれる名前は、どこか新鮮で、温かみがあって、居心地がよかった。
なんならずっと聞いていたかったけれど、そういうわけにもいかない。
「朝ごはん、ちょっと待って。顔洗って、買ってくる」
ご飯が炊けるのには時間がかかるし、そもそも買い置きなんてしないから食材がない。第一、この見るからに日本人離れした外見の人に日本食の朝ごはんを渡していいのかもわからない。せっかく徒歩五分のところにコンビニがあるのだから、パンでも買って来たほうが無難だろう。
洗面所で着替えようとジーンズとTシャツ、パーカーをとりだす。
「俺も一緒にいっていいか?」
「……昨日の、お巡りさんがいると困るから……」
「あ、えっと、軍の人か? こっちではお巡りさん、というのか」
「軍じゃなくて警察の人。交番、近いから」
だから、留守番をお願い、というと存外素直に頷いてくれた。ほっと胸をなでおろして(いきたいと駄々を捏ねられたら丸め込める自信など皆無だった)洗面所に引っ込む。
パジャマ代わりのスウェットの袖をまくって今日はぬるま湯になるのをまってから顔を洗う。
顔を洗う前に一つに結んだ髪に泡がはねてタオルで顔を拭いてから、髪に手を伸ばす。
(不思議な、人)
そう思った。
いくら私が生きることに無気力な人間でも、初対面の人間の、それも素性も分からない人をいきなり部屋にあげるなんて暴挙は、普段なら多分しない。
それをしてしまったのは、レイスが不思議な人だからだった。
不思議な気配を持つ人。
不思議と懐かしくなる人。
不思議と、温かな気持ちにさせてくれる人。
だから、私は彼に警戒心を抱かず、ほんの僅かに抱いた警戒心の欠片は色んな言い訳に包んで見なかった振りができた。
泡を手でぬぐって、鏡の中の自分を見る。
久々に、まともな人間の顔をしていると、思った。
それがなんだかとてもおかしくて、くすりと笑みがこぼれる。まともな人間、なんて、そんなはずがないのに。私は到底『まともな人間』にはなれない人種であるのだから。
だけどいつまでもそうしているのもレイスに悪い。
手早くスウェットから着替えて、洗い物は直接洗濯機に突っ込む。髪の毛を軽くシュシュで結べば準備は完了。
祖母から高校入学の祝いに買ってもらったピンクの財布をバッグから取り出す。近くだから財布だけあればいい。スマートフォンはベッドの上に放置のまま。
「じゃあ、ちょっと、いってくる、ね」
ぎこちなく不器用に笑った私にレイスは満面の笑みを向けてくれた。それだけで心が温かくなる。ぽかぽかとした気持ちを大切に抱えて、私は部屋の鍵を閉めた。