第三話
沼の底で重石をつけられながら、水上の美しい世界を見ている。
君の歌声は、僕と世界をつなぐたった一筋の聖なる光。
広い広い会場に、見渡す限りのお客さん。みんなが私のイメージカラーである水色のサイリウムを持っている。無数の光が、会場の宇宙に、青いホタルのように揺れている。
飛び撥ねるような、軽快なピアノのイントロが流れ、歓声が沸き起こる。
「まりりー!」
私はMilky Shakesのセンターとして、マイクを握って歌い始める――。
これが、大家さんと話しているときだけ、胸のなかで見ることのできる私の姿だ。
現実のステージは、小さなライブハウスやイベント会場。ポジションは2列目で、ソロパートは数フレーズだけ。それでも大家さんと音楽室で過ごしているときは、そんな現実を少しだけ忘れられた。
あれから折を見ては、大家さんの家を訪ねるようになった。何かしらの使命感がなかったと言えば嘘になるけど、大家さんと過ごす時間は純粋に楽しかった。それに防音の効いた部屋で、歌やダンスの練習をさせてもらえるのは、実際ありがたかった。
大家さんは定期的な通院以外、基本的には家にいて、気まぐれに近所を散歩したり少し買い物したりする生活を送っているらしく、訪ねたときにはたいてい家にいた。大家さんのお母さんも同様だった。
「ステージって、お客さんの顔がほんとによく見えるんです。どういう表情をしてるかまで、細かくわかるんです」
高音質のオーディオセットからCDコレクションが流れる部屋で、私は彼にアイドルの話をする。
「最初はつまらなそうにしていたお客さんが、ふとした瞬間に笑顔になるときがあって。私たちの思いが届いたんだなあって思えて、私、その瞬間が一番好きなんです。こないだは中野のイベントに出させてもらったんですけど、そのとき……」
楽しかったライブのことを思い浮かべて、笑顔になる。お気に入りのミルフェイ曲「プリズムにお願い」を口ずさむと、「ああ、いいですね」と言って、大家さんはピアノの鍵盤の上に指を転がした。
いま歌ったばかりのメロディがピアノで再現され、「すごい!」と私の頬が紅潮した。
「一度全部聴かせていただければ、弾けると思いますよ」
「じゃあ、これ」
iPhoneから、「プリズムにお願い」を流す。曲入りの完パケバージョンと、練習用のカラオケバージョンの2つが並んでいたが、私はそっと後者を選んだ。
歌声入りのバージョンを聴かれたら、私の声がそれほどフューチャーされてないことがわかってしまうと思ったからだ。
そんな思惑を知らない大家さんは、「なるほど、ここで転調するんですね」などと言いながら、真剣に耳を傾けている。
「ちょっと弾いてみましょうか」
大家さんの再現は完璧だった。
♪お願いプリズム 笑顔広がるように
輝いてプリズム 大好きな人たちへ
大好きなサビを思いきり歌う。ピコピコした打ちこみで、みんなでマイクリレーする原曲と違って、ピアノと私の喉ひとつで表現すると、まったく違う新鮮な曲に聴こえた。
「繊細だけどひ弱じゃなくて、綺麗に伸びる、いい声質ですね」
それほどでもないですと謙遜すると、大家さんは「いいえ」と続けた。
「なによりあなたの歌声は、歌う歓びや楽しさであふれている。それは、人を自然に笑顔にさせてしまうと思います」
恥ずかしいくらい屈託なく、大家さんは私の歌声を褒めてくれた。その言葉を聞くと、もっともっと頑張ろう、と素直に思えた。このまま頑張れば、嘘じゃなくて、いつか本当にセンターになれるんじゃないかと思えた。
「小学生の時に合唱部に入ったのがはじまりで、それがすごく楽しかったんです。本格的に歌いたくなって、親に頼みこんで街のボイストレーニングに通わせてもらって。うちはあんまり裕福じゃないんで親には迷惑かけたんですけど、はやく成功して、親孝行したくて」
いつしか私は、大家さんにいろんなことを話すようになっていた。
「親に変な心配かけたくないので、あんまり連絡も取ってなくて。ほんとのこと言ったら、だから東京の一人暮らしは危ないでしょって言われそうだし――」
「本当のこと?」
相槌をうっていた大家さんが、首をかしげた。
「あ、部屋は全然問題ないんです。すごくいいお部屋で満足してるんですけど、夜にバス通りから曲がって帰るときが、たまにちょっと心細いなっていうか、誰かに見られてる気がしたことがあって……」
「そういえば、僕とはじめて会ったときも言っていましたね。『いつもついてきてる』って」
その時の話をされるとバツが悪い。私は苦笑した。
「いつもっていうか、何回かそういうの感じただけで。でも最近は全然ないし、いま考えたら単に自意識過剰だったのかなって気がします。一人暮らしに慣れなくて、たぶん気が張っていたんだと思います」
私は軽く流したが、大家さんのサングラスの奥の目が、心配そうに揺らいだ気がした。
「昔からある住宅地ですから、治安はけっして悪くないはずなんですが……」
「全然大丈夫なので、気にしないでください」
「若いお嬢さんだから、気をつけるに越したことはありません。ましてやあなたはアイドルだから……。きっと、とても可愛らしいはずだから」
サングラス越しに、焦点のぼんたりした目が、私の視線をとらえた。目が見えないといっても、まぶた自体は開いている。大家さんに私の顔が見えてないことはわかっていても、なんだか、むずがゆく、気恥しかった。
念のため、大家さんが交番と町内会に報告してくれることになった。私が恐縮すると、大家さんは安心させるように言った。
「店子を守るのは、大家の役目ですから」
この家に引っ越してきてよかった。私は心からそう思った。
「ねえ万里花、最近やせたんじゃない? ダイエットしてるの?」
ダンスレッスンが終わって着替えていると、千晶が私の二の腕をつまんで話しかけてきた。
「え、そうかな」
「そうだよ。さっきうしろから踊ってるの見てたら、二の腕のラインが細くなってたもん。ていうか肌も綺麗になった気がするし、なんか全体的に可愛くなった!」
いろいろと褒められて、思わずニヤニヤしてしまう。ここ1か月ほど、夜は脂肪燃焼スープだけのダイエットをしているのだ。
指摘してくれたのは千晶が最初ではなく、実はツイッターにあげる写真でも、「痩せた」「可愛い」という反応が増えてきていた。正直なところお腹はすくけど、目に見えて効果が出ているのが嬉しくて、やる気が出る。
「そうなの。実は、ダイエットしてる」
「やっぱり! 何ダイエット? 教えてよー」
「何何、ダイエットの話あたしも混ぜて~」
1個下の香絵も混ざってきておしゃべりに興じていると、「おつかれさまでーす」とえれなが入ってきた。今日えれなはアイドル雑誌のグラビア撮影に呼ばれていて、ひとりだけレッスンに参加していなかったのだ。
「えれな、おつかれー。撮影どうだった?」
「楽しかったよー。プール付きの豪華なスタジオだった」
「すごーい。今回6ページもあるんでしょ? めっちゃ注目されてるよね」
「でも半分は水着だからね。もっとカラダしぼんなきゃって思ったよ」
メンバーたちが羨望の眼差しをむけるなか、特にはしゃぐでもなく受け答えするえれなはかっこよかった。あの佇まいがセンターの風格なんだろう。私だったら、ソログラビアなんて、嬉しさが顔に出てしまいそうなのに、さすがえれなだ。
「えれなも来た? じゃあみんな、こっち来て」
近藤さんに呼ばれ、私たちは改めて広い部屋に集められた。何人かスタッフさんも待っていた。
「集まってもらったのは、今から、大事な発表があります」
私は隣に立っていた千晶と顔を見合わせた。
「今度のイベントで、新曲のお披露目をします! タイトルは『純情トワイライト』」
メンバーがわっと湧いた。そのイベントは、人気グループが一堂に会する大型のアイドルフェスで、テレビカメラも入る。ミルシェイがこれまで出演したフェスのなかでも最大級のものだった。
スタッフさんが曲を流す。80年代っぽい、少し懐かしく、爽やかなメロディの曲だった。
「ちょっと路線を変えて、踊れるけど歌もしっかり聴かせる曲にしました。ウチはダンスだけじゃなく、歌もいいんだよっていうことを打ち出していきたいと思います」
近藤さんの言葉に、私は息を呑む。まさに私が望んでいた展開ではないか。
「それで、今回はフォーメーションも新しいチャレンジをしようと思っています」
場の空気がざわっと粟立ったのがわかった。私は手のひらをぎゅっと握った。
「EXILE方式っていうか、歌える子を前に出して、ダンスは全体的に見せる感じで……。センターは2名です。優菜と、万里花」
近くにいた子たちが私のほうを振り向く。
「万里花、おめでとう!」
千晶が手を握ってくれる。優菜を見ると、すでに感極まって泣いていた。信じられなかった。
優菜はえれなに続いて人気の高いメンバーだし、歌も上手いほうなので、選ばれたのは納得だった。でも、あのえれなが選ばれず、私がWセンターなんて。
今までずっと真ん中だった子が、センターを外されるなんて、どんな気持ちなんだろう。私はえれなの横顔を盗み見た。
えれなは静かな表情をしていた。
私は虚を突かれ、何も言えないでいた。近藤さんの説明が続く。フリのレッスンは週明けから開始。それまでに曲をよく聴いて歌詞の世界観を理解すること。情報を漏らさないように気をつけること……。
夢の中にいるように、ぼんやりとそれを聞いていた。