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第二話

 目の前に、サングラスをかけた、背の高い男が立っていた。

「あっ、あの、人を呼びますよ」

 私は震えながら声を絞り出した。

「いつも、ついてきてますよね。やめてください」

「……なんのことでしょうか」

 男が口を開いた。サングラスで顔の半分が隠れているので、表情はわからない。

「私わかってます! 尾行とか、ほんと、迷惑なんです」

 言っているうちに、なんだかどんどん興奮してくる。

「ここ、1階に大家さん住んでるんですから。呼んでつかまえてもらいますから!」

「いや、それは……」

 男が戸惑った声を出したので、だんだん恐怖よりも怒りが湧いてきた。これだけ人を怯えさせておいて、逃げようなんて許せない。

「大家さん、呼びます! あなたもう逃げられませんよ」

「まあ、いったい何の騒ぎ?」

 1階の奥から、白髪の女性が現れた。入居したときに一度挨拶した大家さんだった。これ幸いと、私は男の腕をつかみ、大家さんに向かって叫ぶ。

「この人、変質者です!」

「変質者? あなたが?」

 大家さんが、男を見上げて怪訝そうに尋ねる。

「あなた、このお嬢さんに何かしたの」

「いや、僕は、たまたま後ろを歩いていただけで……」

 男が弱った声を出した。大家さんは、「だから、あんまり一人で外出するなと言っているのに」と少し悲しそうにつぶやいた。

「お嬢さん、彼は私の息子で、ここに一緒に住んでいます。息子がこのアパートの正式な大家です」

 彼女の言っていることが、すぐに理解できなかった。

「それに息子はあの、目が悪いですから、わざとあなたを尾けるようなことはできないと思います」

 私は男の顔を見上げた。サングラスの奥の目は見えない。視線をおろすと、男の右手に白い杖が握られているのが見えた。その杖が盲目の人を示すということは、私でも知っていた。

 いったいなんて失礼な勘違いをしてしまったんだろう!

「ごめんなさい」

 私はあわてて腕から手を離し、頭を下げた。

「私、勘違いして……。大家さんなら、同じ道を歩いてるの、当然ですよね。目が見えない方に対して、あの、本当にごめんなさい」

「いえ、夕暮れ時に若い女性のうしろを歩いてたら、怖いですよね。僕こそすみません」

 私たちが謝り合っていると、正式には大家さんのお母さんである人は、「料理の途中だったから、先に戻ります」と言い残して、奥の部屋に引っ込んでしまった。どういうふうに場をおさめていいかわからず、私は閉じられたドアのほうを見て立ちつくす。

「あの、201号室の方ですよね?」

「えっ、はい、そうです。201号室の宮原です」

 思わず、大家さんを見上げた。

「どうして、私の部屋がわかるんですか? 目が……」

 見えないのに、という言葉を呑みこむと、代わりに彼は言いにくそうに口を開いた。

「すみません。ちょうど僕の家が真下なので。歌っている声が、よく聴こえるので……。あなたが、同じ声だったので」

 彼は少し照れたように口角をあげた。私はものすごく驚いた。

「歌声でわかるんですか。耳がいいんですね」

「家にいらっしゃるときは、いつも大きな声で歌っているようだから」

「ご、ごめんなさい。近所迷惑ですよね!」

「いえ、そういうわけではなくて。あの……とても美しい歌声なので。なにか、そういう仕事をしてらっしゃる?」

 あまりにも嬉しくて、私は赤面した。ついさっきまでこの人を不審者だと思っていたことを棚に上げて、握手したいくらいの気分だった。

 意図しないところで、純粋に、歌声を褒められるなんて。「とても美しい歌声」なんて。

 ミルシェイの“まりり”ではなく、ひとりの宮原万里花の歌を評価してもらえたのだ。しかも、この人は目が見えないのだ。そんな人に褒められることは、とても尊いことのように思えた。

「アイドルなんです。グループで歌ったり踊ったりしています」

「それはすごい」

 大家さんは感心したように声をあげた。

「センターっていうやつですか?」

 その言葉は私の自尊心を大いにくすぐった。

「はい」

 彼の目が見えていないのをいいことに、私は少しだけ嘘をついた。


 大家さんの家を訪ねたのは、それからしばらく経った頃だった。

 部屋のポストに、達筆な字で「近いうち、暇なときに101号室に来てほしい」と書かれた手紙が入っているのをみつけたときは動揺した。こないだの無礼を責められて、契約解除なんて言われたらどうしよう。おそるおそるドアのブザーを押した私の前に現れたのは、あの男性だった。

「わざわざ来てくださってありがとう。どうぞ、中に入ってください。あいにく、いまちょうど、母が出ていまして。えーっと、お茶はどこだったかな。あ、そのソファに座ってください」

 自分の家だからか、目が見えないとは思えないくらい、大家さんはスムーズに私を招き入れた。家の中でも白い杖を持っているのかと勘違いしていたが、そんなことはなかった。彼は今日もサングラスをかけていたが、以前会ったときよりレンズの色が薄いものだった。

「まいったな、若いお嬢さんに出せるようなお菓子がなさそうだ。母に、何か甘いものでも買ってきてくれるよう、電話します。もうすぐ戻る頃なので」

「いえ、そんな」

「こんなにすぐ来てくださると思ってなかったから、準備できていませんでした。手紙を見て驚かれたでしょう? 母に代筆してもらったんです」

「あの、私、追い出されるんでしょうか」

 いてもたってもいられず、立ち上がって私は尋ねた。

「こないだのことは、本当にすみませんでした。反省しています。それで勝手だと思うんですけど、私、まだこちらに住まわせてほしいです。どうか追い出さないでください」

 大家さんは一瞬きょとんとしたあと、アハハと笑った。

「追い出すなんてそんな。先日のことはまったく気にしていません。……と言いつつ、あのことがあったから、呼べば来ていただけるかもしれないと思ったのは事実です」

 よくわからずにいると、大家さんは私を隣の部屋へと手招きした。

 ドアを開くと、そこには立派なピアノとオーディオセットがあり、壁一面にたくさんのCDがおさめられていた。

「すごい……。私の部屋と全然違う」

 あっけにとられていると、アパートの1階は大家が住む用に、3部屋をつなげた特別な間取りになっていることを説明された。

「この部屋は、いつでも音楽を楽しめるように、防音にしてあるんです」

「防音!」

 防音機能のついた家は憧れだが、とてもじゃないが賃料が高くて借りられない。それがこんな身近にあったことに、私は驚いていた。そんな私のほうに顔を向けて、大家さんはニコニコとした。

「この部屋で、ぜひあなたの歌声を聞かせていただきたいと思って」

「え?」

 彼の言葉に反射的に身構えると、その反応が見えているかのように、彼は困った顔をした。

「ごめんなさい、変な言い方をしてしまいましたね。怖がらせるつもりはありません。もちろん強制でもありません。ただせっかく素晴らしい歌声だから、思いきり歌える環境があったほうがいいんじゃないかと思って……」

 言いながら、彼はピアノの椅子に腰を下ろした。

「ああ、上手く言えないな。ごめんなさい。人と話す機会自体が少なくて、舞い上がっているようです。いきなりおじさんに変なことを言われて、気持ち悪いでしょう」

 声を上ずらせて早口で話す姿は、見おぼえがあった。ミルシェイの握手会に来るファンの男の人たちの多くは、こんなふうに喋るのだ。

「別に気持ち悪くないですよ」

 私はなんだかおかしくなった。

「それに、おじさんだなんて。若いじゃないですか」

 こないだは気付かなかったが、大家さんは男性にしては珍しいほど、白くて綺麗な肌をしていた。

「若くないですよ。35歳です」

「若いですよ」

 私は笑った。本当に握手会のやり取りみたい。そう思うと、緊張もほどけてきた。

「お誘いはすごく嬉しいんですけど、私はアイドルなので、男の人と室内でふたりきりになってはいけないんです」

「そうですよね。愚かなことを言って、ご迷惑をおかけして申し訳ありません。誤解してほしくないのは、あなたのお仕事の邪魔をする意図は決してありませんでした。そしてあなたの品位を汚す意図もまったくありません」

 頭を抱えながら早口で謝る大家さんを見ていると、あのとき、どうしてあんなに怖がったのだろうという気さえしてくる。大人の男の人が照れている姿を見ると、可愛いなあと思ってしまう。もっと喜んでもらいたくなる。

そう、私はアイドルなのだから。

「だから、お母さんが帰ってくるのを、外で待たせてください」

 サングラスをかけていても、大家さんが驚いた顔をしたのがわかった。

 

 アパートの外階段に並んで腰掛けた私たちを見て、帰ってきた大家さんのお母さんは驚いたようだった。お茶を淹れながら、小さな声で何度も「申し訳ない」と繰り返していた。

 いろいろ考えた挙句、披露する歌はカーペンターズの「トップ・オブ・ザ・ワールド」にした。

 昔学校で習って歌を覚えていたのと、大人の人だったらカーペンターズが好きかなという安易な発想だったのだが、大家さんは手を叩いて喜んでくれた。

「せっかくだから伴奏をつけてもいいですか」

 大家さんは慣れた手つきでピアノを演奏した。その流麗な音に、逆に私が聴き入ってしまった。

「すごい。スティービー・ワンダーみたい」

「恥ずかしいから、そんな偉大な音楽家と比べないでください」

「目が見えないのに、こんなに上手に弾けるなんて……」

 そう言って、私はしまったと思った。

「ごめんなさい、失礼なことを言って」

「何故? 目が見えないのは単なる事実ですから、触れないほうが不自然です」

 大家さんは穏やかに笑った。

「ずっと見えないんですか?」

 大家さんのお母さんの顔色を気にしながらも、思い切って気になっていたことを訊いた。大家さんは、生まれつき目が悪かったけど、それでも10代までは見えていたこと、今はほとんど家の中で過ごしていること、目が悪い代わりに昔から耳がよく、音楽が大好きであることなどを、丁寧に語ってくれた。

 大家さんのお母さんが出してくれた紅茶とクッキーを食べながら、私は大家さんの語りに聴き入った。大家さんはとても綺麗な日本語を使う人だった。きっと、育ちがいいのだろう。実際、家の中はすっきりと片づけられていて、花瓶に綺麗な花が飾ってあった。自分と同じアパートとは思えないような、優雅な空間だった。

 気付くと、もうアルバイトに出掛けなければいけない時間だった。少ししかいられなかったことを詫びると、大家さんはとんでもないと首を横に振った。

「夢のような時間でした。本当に楽しかった。あなたの親切に感謝します」

 大家さんの代わりに、大家さんのお母さんが玄関の外まで見送ってくれた。それまでほとんど口を開かなかった彼女は、独り言のように突然ぽつりと言った。

「息子はね、音大を出ているの」

「そうだったんですか」

 それは単なる音楽が好きというレベルではない。私なんかよりよっぽど専門的な教育を受けているのだ。確かにあのピアノの音色を思い出せば、納得だった。そんな人に歌声を褒められたことが、いよいよ凄いことのように思えた。

「音楽の先生を目指していたから、今日あなたとお話しできて、本当に嬉しかったんだと思います。私がお礼を言うのもなんだけど、ありがとう」

 大家さんのお母さんは、深々と頭を下げた。白髪の頭頂部が目に入る。大家さんが35歳というから、きっと60歳前後なのだと思うが、それにしては老けている気がした。

「私もすごく楽しかったです。あの、よかったら、また来たいです」

 大家さんのお母さんが、顔をあげた。

「私なんかでよければ」

 私はえへへと笑った。


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