「君との婚約は破棄する!」と宣言されたので隣国へ渡ったら、冷酷と噂の皇帝陛下に仕事ぶりを見込まれて手放してもらえません
婚約破棄を告げられた時、私は少しも泣かなかった。泣くほど驚かなかったからだ。
「リディア、お前との婚約はここまでだ」
王都の夜会、その中央で。公爵家次男であり私の婚約者でもあったエドモンドは、晴れやかな顔で言い放った。
隣には、最近彼が熱心に世話を焼いている男爵令嬢がいる。
会場はざわめき、視線が一斉に集まった。けれど私は扇を閉じ、ただ一度だけ頷いた。
「承知いたしました」
それだけ答えて一礼すると、周囲の方が戸惑った。もっと取り乱すと思っていたのだろう。あるいは縋りついて醜態を晒すとでも。そんなもの、見せる価値もない。
そもそも私は、今日この瞬間のために半月前から準備していた。婚約者の署名が必要な委任状は差し替え済み。私名義の資産は現金化し、携行可能な証書へ。国境通行の許可証も、隣国側の商会を通して手配してある。この場で婚約が切れたなら、明朝には祖国を出られるように。
私は夜会を途中で辞し、屋敷へ戻ると、あらかじめまとめておいた書類箱を侍女に運ばせた。
「本当に出られるのですか、お嬢様」
「ええ」
「ご実家へ戻るのではなく?」
「戻っても、また誰かの帳簿と根回しを押しつけられるだけでしょう」
父は優秀だったが、娘を便利な補助線として扱う癖がある。婚約者もまた同じだった。彼らは私を賢いと言う。頼りになると言う。だがそれは、都合よく使えるという意味に過ぎない。ならば、使われる場所はこちらで選ぶ。
その夜のうちに、私は最後の確認を終えた。
金庫から取り出した証書の束。祖国の商会との清算一覧。婚約に紐づく贈与品の返還目録。帳簿に印をつけながら、私は自分でも笑いたくなった。婚約破棄の夜にやることが涙ではなく資産整理なのだから、可愛げがないにもほどがある。
けれど、可愛げの有無で私を守ってくれる人はいなかった。
ならば、守れる形にしてから出るだけだ。
夜が明ける前、私は最低限の荷物と書類だけを持って屋敷を出た。
王都の門を抜け、街道をひたすら東へ向かう。
冬の朝靄は深かったが、気分はむしろ軽い。婚約破棄された女ではなく、ようやく手を離せた人間の足取りだった。
◇
隣国アルフェリアへ着いたのは三日後だった。
国境の検問所で通行証を出した瞬間、兵士の顔つきが変わる。
「リディア・エーヴェルン殿でしょうか」
「ええ」
「入国後は王都へ向かってください。手配済みです」
思っていたより話が早い。私は少し眉を上げたが、余計なことは聞かなかった。紹介状を託していた商会が、きちんと仕事をしたのだろう。
隣国の王都は、祖国より石の色が明るかった。
建物は質実で、通りは静かで、兵士の足並みが妙に揃っている。
その印象どおり、役所も驚くほど無駄がなかった。
受付で名前を告げると、すぐに奥へ通される。
待たされたのは五分もない。
「エーヴェルン嬢」
案内された部屋で私を迎えたのは、財務局の次官だった。
「提出いただいた帳簿整理案、拝見しました。大変興味深い」
私は書類箱を抱え直す。
「それは光栄です」
「光栄というより、こちらとしては切実です」
机の上には、数冊の台帳が開いていた。
ざっと見ただけでも、輸送税の記録が部局ごとに二重化している。しかも港湾側と街道側で数字の基準が違う。これでは毎月どこかで齟齬が出る。
「三日で把握できる範囲ではありませんが」
「一日で十分です」
私がそう言うと、次官は苦笑した。
「その自信、嫌いではありません」
結局その日、私は休む間もなく台帳をめくり続けた。
昼を過ぎる頃には、どこで数字が食い違うのか、どこに責任の穴があるのか、だいたい見えた。問題は、輸送税そのものではない。
中継地の確認票を、港湾局と財務局で別々に起票していることだ。
片方は荷の到着日、片方は徴収日を基準にしている。
これではズレるのが当然だった。
「書式を一本化し、確認印を二重ではなく連番管理にしてください」
私は次官へ修正案を書きつけた紙を差し出す。
「それだけで?」
「それだけで毎月の差分確認時間は半減します。責任の所在も追えます」
次官はしばらく紙を見つめ、それから静かに息を吐いた。
「祖国では、こういう仕事を?」
「ええ。名前の出ない場所で」
「惜しい国ですね」
あまりにもあっさり言われて、少しだけ笑ってしまう。
その日のうちに、私は仮机と補助官一人を与えられた。
祖国では私が何時間働いても「手伝ってくれて助かる」で終わっていたのに、こちらでは一日で椅子と権限が与えられる。違いが露骨すぎて、かえって笑えてくる。
だが、本当に驚いたのは翌日だった。
朝一番で財務局へ行くと、局内の空気が妙に張っている。
「何かありましたか」
尋ねると、補助官の青年が青ざめた顔で答えた。
「北部穀倉地帯の納入記録が合いません。領主側は送ったと言い、倉庫側は届いていないと」
「差額は」
「銀貨換算で相当額です」
次官は既に別件で宮殿へ呼ばれており、不在だった。局員たちは報告書を抱えたまま右往左往している。
私は一番近くの台帳を取り上げた。
「積荷番号は」
「こちらです」
「倉庫の受領印がないわね」
「ですから未着かと」
「違うわ。印がないのに、街道使用税だけは徴収されている」
頁をめくり、運送許可証と照合する。さらに三冊目の台帳を開くと、私はすぐに原因を見つけた。
「中継倉庫で荷札が差し替わっている」
「差し替え?」
「同じ日に同じ商会が別件の荷も動かしているでしょう。荷札の末尾二桁が似ているせいで、受領側が取り違えたのよ」
私は地図を広げ、中継地点を指でなぞった。
「本来の荷は西倉庫ではなく南の軍需仮置場へ回されているはず。急ぎ人をやって。そこならまだ封印が残っている」
半刻後、使いが戻ってきた。
結果は私の指摘どおりだった。
局内が一気にざわつく。
「どうして、そこまで」
「取り違えは必ず痕跡を残すもの。書類は嘘をつけても、移動記録は隠しきれません」
祖国で散々尻拭いをしてきたから、こういう歪みだけはすぐ見える。
次官が戻ってきた時には、問題はほとんど片づいていた。
「……半日で?」
「半日もかかっていません」
私が言うと、次官は額を押さえた後、笑った。
「陛下に報告する言い回しを考え直さねばなりませんね」
「誇張は不要です」
「事実だけで十分誇張になります」
◇
その夕方、私はさらに上の執務室へ呼ばれた。
重厚な扉の向こうにいたのは、噂の人物だった。
アルフェリア皇帝、アーヴィン陛下。
冷酷無慈悲、容赦なく切り捨てる、必要のない言葉は一切話さない。
祖国でもそんな噂ばかりを聞いていた。
実際、玉座の前に立った瞬間、空気の温度が一段下がった気がした。
「リディア・エーヴェルン」
「はい」
「財務局の台帳を半日で読み解き、北部の納入差額まで止めたそうだ」
「読み解いた、というほどでは」
「謙遜は不要だ」
そこで会話は切れた。
なるほど、確かに愛想のある人ではない。
だが、次に返ってきた言葉は少しだけ意外だった。
「遠路ご苦労だった。滞在先が狭いなら替えさせる」
私は瞬きをした。
最初に出るのが労いとは思わなかったのだ。
「……ありがとうございます」
「礼より結果を期待する」
「その方が得意です」
答えると、陛下はほんのわずかに口元を緩めた。
気のせいかと思うほど小さな変化だったが、それだけで十分だった。少なくとも、私が差し出す結果そのものを楽しみにしている目だった。この人は、私を見下した上で便利に使うつもりではない。
必要だから働きを求め、働きに対して正しく場所を与える。
それだけのことが、なぜ祖国ではできなかったのか。
その夜のうちに、滞在先は本当に替えられた。
以前の宿でも不満はなかったが、新しく用意されたのは宮殿近くの官吏用邸宅の一室だった。机は広く、保管箱には鍵がつき、夜間でも使いを呼べる。
待遇の差が、言葉より先に胸へ落ちる。
丁重に扱われるとは、たぶんこういうことだ。
しかも翌朝には、私専用の補助机だけでなく、記録係が二名ついていた。
「エーヴェルン嬢の整理方式に合わせるように、と」
年若い記録係の少女が緊張した顔で言う。
「誰が?」
「陛下の侍従長からです」
私は一瞬だけ黙った。
半端に期待させるくらいなら、最初から何もしない方が優しい。そういう意味では、祖国の男たちよりよほどたちが悪いのではないかと思いかけたが、すぐに打ち消す。
違う。これは曖昧な好意ではない。仕事を進めるために必要なものを、必要だから用意しているだけだ。
その割り切りが、かえってありがたかった。
◇
三日後、今度は税ではなく、軍需品の調達記録で揉め事が起きた。
北部警備隊へ送るはずの防寒布が、予算上は二百反、現物は百六十反しかないという。
局員の一人が震える声で言った。
「帳簿上は不足していません。ですが現場が……」
「誰が確かめたの」
「担当官が」
「担当官の名前は」
書類を見た私は、思わずため息をついた。
祖国にもいた。数字の整合だけ合わせて、現場確認を部下任せにする人種が。
「倉庫封印の更新日が妙ね」
「え?」
「布が搬入された日より先に、倉庫封印が一度開け直されている」
「それは点検では」
「点検なら立会人が二人要るでしょう。でも署名は一人分しかない」
私はその場で、倉庫係、運搬係、会計係の記録を並べた。
数字だけを見れば一致している。
けれど、時間が合わない。
「この十日間で、同じ荷印のついた布が王都南区へ再搬送されている」
「南区?」
「仕立て工房街よ。誰かが軍需品を横流しして、市場向けに回しかけた」
局員たちが息を呑む。
「証拠は」
「搬送札の控え。ここに番号が残っているでしょう」
私は数字を示した。
「この控えを消し忘れている時点で、相手は帳簿だけ整えて現場を侮っている」
すぐに調査が走り、その日のうちに横流しは発覚した。
関わっていたのは下級官吏一人と業者二人。額は大きくない。だが、放置すれば国境警備隊の冬支度に穴が空いていた。
次官はさすがに無言で私を見た後、深々と頭を下げた。
「あなたを紹介してきた商会へ、あとで礼をしなければ」
「礼より、記録運用を改めてください」
「もちろんです」
その日の夕刻、私は再び宮殿へ呼ばれた。
今度は長机のある会議室で、陛下のほかに数人の高官もいる。
「軍需品横流しの件、報告を」
陛下に促され、私は簡潔に説明した。
誰が何を見落とし、どこに穴があり、どう塞ぐべきか。
高官の一人が怪訝そうに言う。
「エーヴェルン嬢。あなたは到着してまだ日が浅い。そこまで口を出せる立場では」
「立場の話ではありません」
私は相手をまっすぐ見返した。
「穴があるなら塞ぐだけです。放置する理由はありません」
場が少しだけ冷えた。
けれど次の瞬間、陛下が淡々と告げる。
「私が報告を求めた。立場は足りている」
高官は黙り込んだ。
その一言で、私は初めて自分がこの国で庇われたのだと知った。
甘やかすためではない。必要な発言をさせるために、邪魔を退けたのだ。
そういう庇い方を、私は知らなかった。
会議後、退室しようとした私へ陛下が声をかける。
「よく見ている」
「ありがとうございます」
「見落としを拾う者は貴重だ」
短い言葉だ。
それでも、その短さの中に余計な飾りがないからこそ、かえって真っ直ぐ届いた。
◇
一週間後、アルフェリア財務局の月次報告は三年ぶりに期日どおり提出された。
次官は珍しく上機嫌で、局員たちは誰も大声を出していない。
混乱が減ると、人はこんなにも静かになるのかと感心した。
報告書の最終版を届けた帰り、私は回廊の窓辺で少しだけ足を止めた。
冬の光が白い石壁に反射して眩しい。
この国へ来てから、毎日が早かった。
だが不思議と、追い立てられている気はしない。
やるべき仕事があり、それに見合う椅子があり、結果を見ている人がいる。
たったそれだけで、人はこんなにも楽に息ができるのだ。
その日の夕刻、私は宮殿の回廊で見覚えのある封蝋を渡された。
祖国からの急使だった。
中には父の手紙がある。
『至急帰国されたし。王宮財務の整理が滞り、大至急貴女の助力が必要である』
さらに別紙には、元婚約者エドモンドの署名まであった。
『あの時は感情的になっていた。話し合いたい』
私はしばらく無言で紙を見つめ、それから折りたたむ。
話し合うことなどない。不要だと切り捨てられた時点で、もう終わっている。
むしろ、こうして困った時だけ思い出されることの方が腹立たしい。
必要だったのではない。
便利だっただけだ。
「祖国からですか」
低い声に顔を上げると、アーヴィン陛下が立っていた。
「ええ。今さら、ですけれど」
「戻るか」
問いは短い。
けれど声音に圧はなく、ただ確認だけがあった。
私は首を横に振る。
「戻りません」
「そうか」
それだけで終わるかと思った時、陛下は一歩だけ近づいた。
「ならば、こちらで正式に席を用意しよう」
「席、ですか」
「暫定顧問ではなく、継続の席だ。財務局横断の監査補佐官を置く。必要な権限も与える」
私は息を止めた。
暫定ではない。
手伝いでも、借り物でも、都合のいい補助線でもない。
席そのものを与えると言われたのだ。
「必要な人材に、必要な待遇を与える。私はそういう国にしたい」
胸の奥が、じわりと熱くなる。
甘い言葉ではない。けれど、そのどんな甘言よりも欲しかった一言だった。
必要な人材。
必要な待遇。
不要だと切られた国から逃げてきた私に、それをまっすぐ告げる人がいる。
「でしたら、お受けします」
「助かる」
相変わらず言葉は短い。
それなのに、不思議と冷たくは聞こえなかった。
陛下は少しだけ視線を落とし、私の手元の手紙へ目をやる。
「返事は必要か」
「不要です」
「ならば処理させよう」
「……処理、ですか」
「不要な書状を、お前が何度も開く必要はない」
あまりにも自然に言われて、私は一瞬だけ言葉を失った。
丁重に扱われる、というのは、ただ優しい部屋を与えられることではない。
もう傷口を触らなくていいように、先回りして線を引いてくれることだ。
その認識が遅れて胸へ届き、熱が一段増した。
「では、お任せします」
「ああ」
陛下は短く頷く。
そのまま去るのかと思ったが、彼はほんのわずかに足を止めた。
「一つ聞く」
「はい」
「こちらでの席が落ち着いた後も、残る気はあるか」
今度こそ私は瞬いた。
それは人材確認の問いであるはずなのに、どうしてだろう。ほんの少しだけ、別の意味を含んで聞こえた。
「……待遇次第、ではありません」
そう答えると、陛下は初めて、はっきりと笑った。
「知っている」
その笑みは長く続かなかったが、十分だった。
噂に聞く冷酷さではなく、正しく見極めた相手にだけ向く柔らかさが、確かにそこにあった。
回廊の外では夕焼けが石壁を淡く染めている。
祖国では終わったはずの私の席が、ここではようやく始まろうとしていた。
そしてたぶん、冷酷と噂のこの皇帝陛下は、誰よりも正確に人を見る。
今さら祖国が青ざめても、もう遅い。
私は手紙を閉じ、振り返らずに前へ進んだ。




