後日談 泥濘に咲く花はなく
放課後のチャイムが鳴り響く。
かつて、この音は私にとって「輝く時間の始まり」を告げるファンファーレだった。
部活終わりの湊くんを待たせてクレープを食べに行ったり、あるいは湊くんには「委員会がある」と嘘をついて、キョウヤくんの車で夜の街へ繰り出したり。
一日の中で一番、私が「学校一の美少女」として世界を謳歌できる時間。
けれど今は、この音がまるで処刑の合図か、あるいは終わりのない孤独の始まりを告げる警報のように聞こえる。
「……帰らなきゃ」
私は誰にも聞こえない声で呟き、机に突っ伏していた顔を上げた。
教室にはまだ多くの生徒が残っている。
楽しそうに談笑するグループ、スマホを見せ合って爆笑する男子たち、メイク直しの相談をしている女子たち。
その誰もが、私という存在を「いないもの」として扱っている。
いや、正確には違う。「そこにいる汚物」として、あえて視界に入れないようにしているのだ。
私は逃げるように鞄を掴み、席を立った。
椅子の引く音が教室に響くと、一瞬だけ周囲の会話が止まり、氷のような冷たい空気が流れる。
背中に突き刺さる無数の視線。
「まだいたんだ」「空気読めよな」「メンタル強すぎ」
そんな囁き声が、鼓膜を直接やすりで削るように響いてくる。
私は俯いたまま、早足で教室を出た。
廊下に出ても、地獄は続く。
すれ違う他クラスの生徒、後輩たち。彼らは私を見ると露骨に顔をしかめたり、クスクスと笑いながらスマホを向けたりしてくる。
『あ、あの人だよ』『伝説の』『トイレ動画の先輩じゃん』
シャッター音が鳴る。
私は反射的に顔を背け、髪で横顔を隠した。
かつては、カメラを向けられれば最高の笑顔でピースサインを返していた。
自分が被写体として価値があると信じて疑わなかったからだ。
でも今の私は、動物園の珍獣か、見世物小屋の怪物でしかない。
トイレの個室に逃げ込み、鍵をかける。
ここだけが、私の唯一の聖域だ。
便座に座り込み、荒くなった息を整える。
目の前の扉には、また新しい落書きが増えていた。
『学校の恥』『消えろ』
油性ペンの黒いインクが、私の心を黒く塗りつぶしていくようだ。
「……うぅ」
込み上げてくる嗚咽を、手で必死に押し殺す。
泣いても誰も助けてくれない。
湊くんはもういない。
数日前、中庭のベンチで私を見下ろしていた、あの冷たい瞳を思い出す。
『俺の人生には何の関係もない』
『俺は前に進む。お前は勝手にすればいい』
そう言い放ち、彼は私をゴミのように捨てて去っていった。
縋り付こうとした私を、汚らわしいものを見る目で拒絶した。
あの瞬間、私はようやく理解したのだ。
私が失ったのは「便利な彼氏」なんかじゃなかった。「私を一人の人間として大切にしてくれていた、世界でたった一人の理解者」だったのだと。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
ビクリと肩が跳ねる。
通知を見るのが怖い。でも、見ずにはいられない中毒のような衝動がある。
震える指で画面をタップする。
通知の山。
SNSのダイレクトメッセージには、見知らぬ他人からの罵詈雑言が溢れかえっている。
『まだ生きてるの?』
『お前の住所、ここの掲示板に晒されてたぞ』
『親が泣いてるぞ、ビッチ』
添付されているURLを開くと、そこには私の卒業アルバムの写真や、キョウヤくんと撮った過去のプリクラ、さらには盗撮された今の私の写真までが並んでいた。
「現在の白石莉奈、ボロボロすぎて草」というスレッドタイトル。
私の不幸は、顔も知らない誰かにとっての「最高のエンターテイメント」になっている。
「嫌だ……消してよ……」
画面をスクロールする指が止まらない。
自分の全てが解体され、消費されている。
デジタルタトゥー。
一度刻まれた烙印は、私が死んでも消えることはない。
就職も、結婚も、普通の幸せな未来も、すべてこのネットの海に沈んでしまった。
キョウヤくんのことも書かれていた。
彼は大学を退学になり、実家からも絶縁され、今はどこかの地方のパチンコ屋で住み込みバイトをしているらしい、という噂。
「お似合いのカップル」の成れの果てだ。
あんなにキラキラして見えた「刺激的な恋」の代償が、これなのか。
宝石だと思って掴んだものは、ただの砕けたガラス片で、握りしめた私の手は血まみれになっていた。
トイレを出て、昇降口へ向かう。
できるだけ人のいないルートを選び、影のように移動する。
靴箱を開けると、私の上履きがなくなっていた。
代わりに、生ゴミのような匂いがする泥団子が詰め込まれていた。
まただ。
今週に入って三回目。
犯人を探す気力もない。先生に言ったところで、「自業自得だろ」という目で見られるだけだ。
私は無言で泥をかき出し、予備の袋に入れていたローファーを取り出した。
もう、上履きを買い直すお金も親には頼めない。
昇降口を出ると、秋の夕暮れが広がっていた。
冷たい風が吹き抜け、スカートを揺らす。
寒さが心細さを加速させる。
ふと、校門の先に人影が見えた。
「……あ」
心臓が止まりそうになった。
湊くんだ。
彼は一人で、駅の方へと歩いていた。
その背中は、以前よりも少し大きく、逞しく見えた。
隣には誰もいない。新しい彼女ができたという噂はまだ聞かない。
でも、彼は決して「孤独」には見えなかった。
背筋を伸ばし、しっかりとした足取りで、自分の足で自分の道を歩いている。
私は吸い寄せられるように、数メートル後ろをついて歩いた。
声をかけるつもりはない。
いや、かけられない。
「関わるな」と言われたあの言葉が、見えない壁となって私の前に立ちはだかっている。
ただ、彼の背中を見ていたかった。
かつては「地味で頼りない」と思っていたその背中が、今はどうしようもなく遠く、そして尊いものに見えたから。
駅前の大通りに出ると、湊くんはふと足を止めた。
新しくできたクレープ屋の前だ。
彼はメニュー看板を少し眺めた後、財布を取り出して列に並んだ。
一人でクレープ?
以前の私なら、「男一人でウケる」と笑っていたかもしれない。
でも今の彼は、周囲の目など気にする様子もなく、堂々としていた。
やがて、チョコバナナクレープを受け取った彼は、それを一口かじると、ふっと表情を緩めた。
笑顔。
私がもう二度と向けられることのない、穏やかで、心からの笑顔。
誰かに媚びるわけでも、見栄を張るわけでもない、純粋な幸福の表情。
「……っ」
私は近くの電柱の陰に隠れ、口元を押さえた。
涙が溢れて止まらない。
彼は幸せなのだ。私がいなくても。
いや、私がいないからこそ、あんなに穏やかな顔ができるのだ。
私が彼の人生における「ノイズ」であり「重荷」だったという事実を、これ以上ないほど残酷な形で突きつけられた気がした。
湊くんはクレープを食べ終えると、ゴミを捨て、再び歩き出した。
その足取りは軽い。
イヤホンをつけて、リズムに乗るように歩いている。
彼が見ている世界は、きっと鮮やかで、希望に満ちているのだろう。
私が見ている、灰色に濁った世界とは正反対の場所。
「さようなら、湊くん……」
私は小さく呟いた。
その声は雑踏にかき消され、彼に届くことはない。
彼は一度も振り返らなかった。
私の気配になど気づきもしない。
今の私にとって、それが一番の救いであり、同時に最大の罰だった。
彼は私を憎んでさえいない。ただ、完全に忘却し、無関心でいるのだ。
私は彼とは逆方向、暗い路地裏へと続く道を選んだ。
家に帰りたくない。
家には、ヒステリックに叫ぶ母親と、無言で酒を飲む父親がいるだけだ。
「お前のせいで近所を歩けない」「恥さらし」
そんな言葉を聞くたびに、自分が生きていてはいけない存在なのだと思い知らされる。
とぼとぼと歩いていると、路地のゴミ捨て場に、割れた鏡が捨てられているのが目に入った。
ふと、そこに映った自分の顔を見る。
髪はボサボサで艶がなく、目の下には濃いクマができている。
肌は荒れ、唇はカサカサに乾いている。
かつて「学校一の美少女」と呼ばれ、自分でもそうだと思っていた顔。
でもそこに映っていたのは、中身の腐敗が表面まで滲み出てきたような、醜い妖怪の姿だった。
「……ブスじゃん」
自嘲気味に呟いた言葉は、乾いた音を立てて消えた。
キョウヤくんが最後に電話で言った「ブス」という言葉。
あれは単なる悪口じゃなかった。
私の本質を、的確に言い当てていたのだ。
心も、行いも、そしてその結果としての今の姿も、すべてが醜い。
ポケットに手を入れると、指先に硬い感触が触れた。
キョウヤくんがくれた、ゲームセンターの安っぽい指輪。
捨てようと思って持ち歩いていたのに、まだ捨てられずにいた。
未練があるわけじゃない。
ただ、これを捨ててしまったら、私には本当に何も残らない気がして怖かったのだ。
たとえそれがゴミのような偽物でも、かつて私が「愛された」という(それが勘違いだったとしても)唯一の証拠だったから。
でも、さっき見た湊くんの笑顔が、私に決断をさせた。
彼は本物の幸せを掴もうとしている。
なら、私はせめて、この偽物を手放さなきゃいけない。
私はゴミ捨て場の前に立ち、ポケットから指輪を取り出した。
夕闇の中で、プラスチックの宝石が鈍く光る。
メッキが剥がれかけ、所々黒ずんでいる。
まるで私の人生そのものだ。
「……いらない」
私は指輪を、生ゴミの袋の上に放り投げた。
音もなく、それはゴミの中に埋もれていった。
何のドラマチックな感慨もない。
ただ、ゴミがゴミ捨て場に戻っただけのこと。
手が空っぽになった。
心も空っぽだ。
寒気がして、自分の体を抱きしめる。
これからどうしよう。
転校? 通信制? それとも中退?
どの道を選んでも、茨の道だ。ネットの書き込みが消えることはないし、私の犯した罪が許されることもない。
「寒っ……」
吐く息が白い。
冬が近づいている。
湊くんの隣にいれば、温かい缶コーヒーを買ってくれただろう。
私の冷えた手を、その大きな手で包んでくれただろう。
「莉奈の手、ちっちゃいな」って笑って。
でも、その温もりはもうない。
一生、手に入らない。
私は空を見上げた。
街の明かりにかき消されて、星なんて一つも見えない。
あるのは、どす黒く濁った夜空だけ。
私は泥で汚れたローファーを引きずり、重い足取りで歩き出した。
どこへ向かえばいいのかも分からないまま、ただ、誰もいない闇の中へ。
遠くで、楽しげな笑い声が聞こえた気がした。
それはきっと、湊くんが新しい人生で手に入れた、光あふれる世界からの音なのだろう。
私にはもう、永遠に届かない音色だった。




