第三話 祭りの熱狂、道化の二人
文化祭当日の朝は、突き抜けるような青空で迎えた。
校門には巨大なアーチが設置され、色とりどりの風船が風に揺れている。開場前から長蛇の列を作っていた来場者たちが、開門の合図と共に一斉に校内へとなだれ込んでくる。
瞬く間に校舎は熱気と喧騒に包まれた。焼きそばのソースが焦げる香ばしい匂い、吹奏楽部のファンファーレ、客引きをする生徒たちの野太い声や黄色い声。
一年に一度の祭典。誰もが主役になれる日。
そんなお祭りムードの中で、俺は放送室の窓から眼下を見下ろしていた。
「篠宮、カメラの設定大丈夫か?」
「はい、問題ありません。予備のバッテリーも充電完了してます」
同じ放送委員の仲間に答えながら、俺は手元の機材を最終チェックする。
俺の心は、周囲の熱狂とは裏腹に、氷のように冷え切っていた。緊張も高揚もない。ただ、淡々と事務的に「その時」を待つ機械のような心境だった。
ポケットの中にあるUSBメモリの感触を確かめる。
ここには、これからこの祭りの熱狂を凍りつかせる「真実」が入っている。
「じゃあ、俺は体育館の音響チェック行ってくるから、こっちは頼んだぞ」
「了解です。いってらっしゃい」
仲間を見送り、一人になった放送室で、俺はモニターの一つに校内の監視カメラ映像を映し出した。
画面の中には、メイド服に身を包んだ莉奈の姿があった。
クラスの出し物であるメイド喫茶は、予想通り大盛況のようだ。教室の前には行列ができ、その中心で莉奈が愛想よく接客している。
フリルのついたエプロン、ふわりと広がるスカート、頭には猫耳のカチューシャ。
「学校一の美少女」の破壊力は凄まじく、彼女目当ての男子生徒や他校生が群がり、一緒に写真を撮ろうと列を作っている。
『ご主人様、オムライス美味しくなーれっ♡ モエモエ・キューン!』
集音マイクが拾った音声に、俺は無表情のまま画面を見つめた。
彼女は今、人生で一番輝いている瞬間かもしれない。誰からも愛され、求められ、世界の中心にいるような全能感を感じているはずだ。
だが、その輝きが増せば増すほど、影もまた濃くなることを彼女は知らない。
昼過ぎ、俺は休憩をもらい、校内を少し歩くことにした。
目的は一つ。招かれざる客の確認だ。
人混みをかき分け、校庭の隅にある模擬店のテントの裏を通りかかった時、聞き覚えのある下品な笑い声が耳に入った。
「うっわ、マジでレベル低っ。こんな文化祭で喜んでるとか、高校生ってガキだよなー」
「ちょ、声デカいって。バレたらどうすんだよ」
「平気だって。俺のこの変装、完璧だろ?」
声の主は、サングラスにマスク、深めに帽子を被ったキョウヤだった。
隣には、同じような格好をした彼のバンド仲間らしき男がいる。
変装といっても、余計に怪しさが際立っているだけだが、祭りの喧騒に紛れて誰も気にしていないようだ。
キョウヤは手にしたフランクフルトを齧りながら、周囲の生徒たちを見下すように眺めている。
「で、例の彼女はどうしたんだよ?」
「ああ、今は接客で忙しいんだと。夕方のメインイベントまで暇だから、適当に遊んでてって言われたわ」
「お前、愛されてんなー。てか、他校の女子とかナンパしねーの?」
「バカ、莉奈が一番レベル高いって。それに、彼氏持ちを寝取るのが一番興奮すんだよ。あの優等生面した彼氏が、必死に動画作ってる間に、俺たちはトイレでヤッてきたしなw」
二人は下卑た笑い声を上げ、ゴミ箱ではない場所に串を放り捨てた。
俺は物陰からその様子をじっと見つめ、スマートフォンの録画ボタンを押した。
この会話も、素晴らしい「素材」になる。
編集済みの動画に、最後の最後で差し込むことができるかもしれない。
俺は冷静に彼らの行動を記録し、気配を消してその場を離れた。
夕闇が迫り、校庭の模擬店が店じまいを始める頃、校内のスピーカーからアナウンスが流れた。
『これより、体育館にて後夜祭のメインイベントを行います。生徒の皆さん、および来賓の皆様は、体育館へご移動ください』
いよいよだ。
俺は放送室へ戻り、メインコンソール卓の前に座った。
体育館にはすでに多くの生徒が集まり始めていた。ステージ上のスクリーンには「FINALE」の文字が映し出され、色とりどりの照明が会場を煽るように明滅している。
放送室のモニターには、ステージ前の最前列付近に陣取る莉奈と、その友人たちの姿が映っていた。
彼女はメイド服から制服に着替えているが、メイクは完璧で、興奮した様子で友人と話している。
『ねえ莉奈、湊くんの動画、楽しみだね!』
『うん! 私もまだ見てないからドキドキしちゃう。湊くん、すっごい頑張ってくれてたから』
友人の言葉に、莉奈は頬を染めて答える。
その表情には、一点の曇りもない「良き彼女」の色が浮かんでいる。
本当に、彼女は自分が「愛されるべき存在」だと信じて疑わないのだな、と俺は妙に感心した。
自分の行いがバレている可能性など微塵も考えていない。湊は私のことが大好きで、私のために最高の動画を作ってくれたはずだ。そう信じきっている。
その無垢な傲慢さが、これから彼女自身を焼き尽くす燃料になる。
「篠宮、そろそろ時間だ。準備はいいか?」
小野寺先生が放送室に入ってきて、俺に声をかけた。
俺は先生の方を振り返り、力強く頷いた。
「はい、準備万端です」
「よし。頼んだぞ。最後をビシッと締めてくれ」
先生は俺の肩を叩き、ステージ袖の指示出しへと向かった。
俺は手元のPCにUSBメモリを差し込み、再生ソフトを起動した。
ファイル名は『Memories_of_Youth_Final.mp4』。
何の変哲もないタイトルだ。だが、中身は劇薬だ。
会場の照明が落ち、体育館が暗闇に包まれる。
生徒たちの歓声が一時止み、期待に満ちた静寂が広がる。
司会の生徒がスポットライトを浴びてステージ中央に立った。
「さあ、みなさん! 楽しかった文化祭もいよいよフィナーレです! 最後は、実行委員が総力を挙げて制作した『青春の思い出ムービー』で締めくくりたいと思います!」
ワアアアッ! と歓声が上がる。
俺はマイクのスイッチを切り、深呼吸をした。
震えはない。心拍数も一定だ。
ただ、指先だけが熱く脈打っていた。
「制作担当は、2年B組、篠宮湊! それでは、ご覧ください!」
司会の合図と共に、俺はエンターキーを押した。
スクリーンに光が戻り、美しいピアノの旋律が流れ始める。
画面には、春の桜並木、入学式、体育祭の汗と涙、そして今回の文化祭準備風景が、次々と映し出されていく。
生徒たちの笑顔。真剣な眼差し。ふざけ合う姿。
プロ顔負けのカメラワークと、絶妙なタイミングでのカット割り。
会場からは「うわぁ……」「すげえ」「懐かしい!」といった感嘆の声が漏れる。
俺はモニター越しに、客席の反応を観察していた。
莉奈は、うっとりとした表情でスクリーンを見上げている。時折、自分が映ると隣の友人と顔を見合わせ、嬉しそうに笑っている。
その笑顔は、かつて俺が守りたいと願ったものそのものだった。
だが今は、その笑顔が歪む瞬間を見たいという、暗い欲望しか湧いてこない。
動画は中盤に差し掛かり、BGMがアップテンポな曲に変わる。
文化祭当日の様子だ。
模擬店の賑わい、ステージ発表の熱狂、クラスごとの集合写真。
会場の手拍子が自然と起こり、一体感が生まれていく。
この「一体感」こそが重要だ。
全員が同じ方向を向き、同じ感情を共有している状態。
そこで異物が混入すれば、拒絶反応は一気に連鎖し、爆発的なエネルギーとなる。
動画の尺は残り3分。
いよいよ、クライマックスの「感謝のメッセージ」パートに入る。
BGMが再び感動的なバラードへと変わり、画面には先生や生徒会長からのメッセージテロップが流れる。
会場のあちこちから、すすり泣く声が聞こえ始めた。
『みんな、最高の文化祭をありがとう』
『この仲間と出会えてよかった』
『青春は、一度きり』
美しい言葉が紡がれる。
莉奈も目元を拭い、感動に浸っているようだ。
そして、画面がフェードアウトし、暗転する。
本来なら、ここで『END』の文字が出て、拍手喝采となるはずだ。
だが、俺の動画は終わらない。
暗転した画面に、不快なノイズ音が混じり始める。
『ザザッ……ザザザッ……』
会場の空気が少し変わる。「あれ?」「故障?」というざわめきが広がる。
そのざわめきを切り裂くように、スピーカーから男の笑い声が響いた。
『ギャハハハ! マジでチョロいよな、この学校!』
画面にパッと映像が戻る。
しかし、そこに映っていたのは美しい青春の1ページではない。
赤外線カメラ特有の、緑色がかったモノクロ映像。
場所は、見慣れた旧校舎の裏手。
そこに映っていたのは、タバコをふかしながら校壁にスプレーで落書きをするキョウヤと、その横で腹を抱えて笑う莉奈の姿だった。
一瞬、会場の時が止まったように静まり返った。
誰もが事態を理解できず、スクリーンを凝視している。
映像の中のキョウヤが、スプレー缶を放り投げながら言う。
『てかさー、お前の彼氏、今頃必死こいて動画作ってんだろ? マジウケるわ』
莉奈が答える。その声は、会場の高性能スピーカーを通し、体育館の隅々までクリアに届いた。
『ほんとそれ! 「こだわりたいシーンがある」とか言っててさー。バカみたいに真剣な顔してんの。あーあ、地味な湊より、キョウヤくんの方が断然カッコいいし、私にお似合いなのにね』
会場の静寂が、悲鳴のようなざわめきに変わった。
「えっ?」「今の白石さん?」「嘘でしょ?」「隣の男誰?」
動揺が波紋のように広がっていく。
最前列にいた莉奈の表情が、一瞬で凍りついたのがモニター越しでも分かった。
彼女は口を半開きにし、青ざめた顔でスクリーンを見上げている。隣の友人が、恐る恐る莉奈の方を見ているが、彼女は身動き一つできないでいる。
映像は切り替わる。
今度は旧音楽室の中。
窓から差し込む月明かりの下、二人が抱き合っているシルエット。
顔ははっきりと映っている。
『ねえ、文化祭当日も来てくれるんでしょ?』
『おうよ。他校生立ち入り禁止とかカンケーねーし。不法侵入上等だろ』
『あはは、スリルあって最高! 湊くんには内緒で、いっぱいイチャイチャしよ?』
『おう、あの真面目くんが作った動画の裏でなw』
決定的な言葉。決定的な証拠。
ざわめきは怒号へと変わった。
「おい、あれ犯罪じゃね?」「不法侵入って言ってるぞ」「白石さん、彼氏いるのにあんなこと言ってたの?」「最低……」
生徒たちの視線が一斉に、最前列の莉奈へと突き刺さる。
憧れの眼差しは、軽蔑と嫌悪の眼差しへと反転した。
さっきまで彼女を囲んでいた友人たちが、潮が引くように彼女から距離を取り始める。
莉奈は震え出し、両手で顔を覆ったが、スクリーンから流れる自分の声からは逃げられない。
『湊は便利だけど地味だからさー。アクセサリーとしてはイマイチなんだよね』
『下僕としては優秀なんじゃね?』
『あはは、それな!』
俺への侮辱の言葉が、会場中に木霊する。
俺は放送室で、ただ冷ややかにその光景を眺めていた。
不思議と、胸がすくような快感はなかった。
あるのは、ただ重たい事実が白日の下に晒されたという、厳粛な達成感だけだった。
これが「真実」だ。
お前たちが美しいと信じていたものの裏側には、こんなにも醜い欲望が渦巻いていたんだ。
映像の最後。
今日の昼間に撮影した、あの模擬店裏での会話が流れる。
『あの優等生面した彼氏が、必死に動画作ってる間に、俺たちはトイレでヤッてきたしなw』
ドン引きするような空気と共に、嫌悪感が会場を埋め尽くす。
その時、ステージ袖から小野寺先生をはじめとする教師たちが飛び出してきた。
「放送を止めろ! 篠宮、何をしてるんだ!」
インカムから怒鳴り声が聞こえるが、俺は無視した。
もう止まらない。動画はあと数秒で終わる。
スクリーンに、俺が最後に編集で加えたテロップが映し出された。
『Happy Ending?』
疑問符のついたその文字が消えると同時に、動画はプツリと終了した。
会場は、異様な重苦しさに包まれていた。
誰一人として言葉を発せない。
ただ、最前列でへたり込んでいる莉奈のすすり泣く声だけが、微かに響いていた。
突然、会場の後方で騒ぎが起きた。
「おい、あいつだ! 動画の男だ!」
生徒の一人が叫び、指差した先に、変装したキョウヤがいた。
彼は状況を察知し、青ざめた顔で逃げ出そうとしていたが、すでに周囲の体育会系の男子生徒たちに囲まれていた。
「逃がすかよ!」「警察呼べ!」
怒りに燃える生徒たちに取り押さえられ、キョウヤは無様に地面に這いつくばった。
その様子を見届け、俺はゆっくりと立ち上がった。
俺の役目は終わった。
放送室のドアを開けると、血相を変えた小野寺先生が駆け込んできた。
「篠宮! 貴様、一体何を……!」
「真実を流しただけです、先生」
俺は静かに答えた。
先生は絶句し、俺の顔と、停止したモニターを交互に見た。
俺は先生の横を通り抜け、廊下へと出た。
向かう先は体育館ではない。
もう、あそこには俺の用はない。
莉奈も、キョウヤも、これからは社会的な制裁と、周囲からの冷淡な視線の中で生きていくことになるだろう。
俺が手を下すまでもなく、彼らの「青春」はここで終わったのだ。
廊下を歩いていると、体育館の方から莉奈の悲鳴のような泣き声が聞こえた気がした。
「違うの! 湊くん、聞いて! お願い!」
そんな幻聴かもしれない声に、俺は一度だけ足を止めた。
だが、振り返ることはしなかった。
俺はポケットから、予備のUSBメモリを取り出し、ゴミ箱へと放り投げた。
カラン、と乾いた音がした。
さようなら、莉奈。
そして、さようなら、馬鹿みたいに純粋だった俺。
俺は前を向き、夕闇に沈む校舎を後にした。
外の風は少し冷たく、けれど熱った頬には心地よかった。
文化祭は終わった。
そして、俺の新しい人生が、ここから始まるのだ。




