第一話 ファインダーの向こう側
文化祭を一週間後に控えた校内は、独特の熱気とシンナーのようなペンキの匂いに包まれていた。
廊下にはダンボールの山が積み上げられ、あちこちの教室からトンカチを叩く音や、クラスメイト同士が笑い合う声が響いてくる。非日常へ向かって加速していくこの浮ついた空気感が、俺は嫌いじゃなかった。
俺、篠宮湊は、重たい三脚を肩に担ぎ、ハンディカムを片手に喧騒の中を歩いていた。文化祭実行委員の広報・記録担当。それが俺の役職だ。
クラスの出し物であるメイド喫茶の準備も手伝いたいところだが、俺には全校生徒と保護者、そして来賓が見守るメインステージで上映するための「青春の思い出ムービー」を制作するという、重大な任務が課せられている。
「あ、篠宮先輩! お疲れ様です!」
「おう、お疲れ。一年生の方は順調か?」
「はい! 先輩の編集テクニック、マジで尊敬してますから。今年の動画も期待してますよ!」
すれ違いざまに後輩の男子から声をかけられ、俺は苦笑交じりに手を振った。
地味で目立たない俺が、こうして周囲から多少なりとも認知され、評価されているのは、ひとえに俺が持つ映像編集のスキルのおかげだ。中学時代から趣味で動画を作っていた俺は、高校に入ってからもその手腕を買われ、行事のたびに記録係を任されてきた。
レンズを通して世界を切り取り、音楽と組み合わせて感情を増幅させる。その作業は、地味な俺が唯一「輝ける」瞬間だった。
だが、俺が「輝いている」と言われる理由は、もう一つある。
むしろ、そちらの理由の方が圧倒的に大きいだろう。
「あ、湊くん!」
廊下の向こうから、銀鈴を振るような明るい声が届いた。
雑然とした準備風景が一瞬で色あせ、彼女の周りだけスポットライトが当たったように華やぐ。
白石莉奈。俺のクラスメイトであり、恋人だ。
腰まで届く艶やかな黒髪、少しタレ目がちで愛嬌のある大きな瞳、透き通るような白い肌。入学当初から「学校一の美少女」として名を馳せ、他校にファンクラブすら存在すると噂されるほどの彼女が、小走りで俺のもとへ駆け寄ってくる。
「お疲れ様。重そうな荷物だね、手伝おうか?」
「いや、大丈夫だよ。これくらい慣れてるから。莉奈こそ、クラスの方はいいの?」
「うん。メイド服の試着が終わって、ちょっと休憩中。みんな盛り上がっちゃってて、私少し疲れちゃった」
そう言って、莉奈は上目遣いで俺を見つめる。
甘えるようなその仕草に、俺の胸はいつものように高鳴った。
俺と莉奈が付き合い始めたのは、半年前のことだ。文化祭の準備期間と同じように、体育祭の準備で一緒になったことがきっかけだった。地味で冴えない俺と、学校のアイドルである莉奈。釣り合わないにも程があると最初は陰口も叩かれたが、俺は彼女に相応しい男になろうと、勉強も委員会も必死にこなしてきたつもりだ。
莉奈もそんな俺の誠実さを認めてくれている……そう信じていた。
「湊くん、今年の動画も楽しみにしてるね。私が一番可愛く映るように編集してよね?」
「分かってるよ。莉奈が主役みたいなもんだからな」
「ふふ、さすが湊くん。頼りにしてる」
莉奈は俺の腕にそっと触れ、周囲に見せつけるような笑顔を浮かべた。
廊下を行き交う男子生徒たちから、羨望と嫉妬の入り混じった視線が突き刺さるのが分かる。
「あんな美人が、なんで篠宮なんかと」
そんな声が聞こえてきそうだが、今の俺にはそれが優越感でもあった。高嶺の花である彼女が選んだのは、他の誰でもない俺なのだから。
「じゃあ、私もう戻らなきゃ。頑張ってね、湊くん」
「ああ、無理するなよ」
莉奈はひらひらと手を振り、軽やかな足取りで教室へと戻っていった。その後ろ姿を目で追いながら、俺は改めてカメラのグリップを握りしめた。
彼女の期待に応えたい。最高の映像を作って、ステージの大画面で彼女を輝かせたい。その一心で、俺は再び撮影へと向かった。
撮影と素材集めに没頭していると、時間はあっという間に過ぎていった。
窓の外はいつの間にか茜色に染まり、やがて群青色の帳が下り始めていた。完全下校時刻を知らせるチャイムが鳴り響き、生徒たちが三々五々と校門へ向かっていく。
俺は放送室に籠もり、今日撮影したデータの取り込み作業を行っていた。実行委員には特例で遅くまでの残留許可が出ている。
「……よし、今日の分はこれで全部か」
モニターに並ぶサムネイルを確認し、俺は大きく伸びをした。
首の骨がパキパキと音を立てる。
ふと、今日撮影した莉奈の映像を再生してみた。ファインダー越しに見る彼女の笑顔は、やはり格別だった。だが、編集中にコマ送りをしていて、ふと違和感を覚える瞬間があった。
友人と談笑しているシーン。カメラが向いていることに気づく直前、莉奈がふと見せた表情。それはどこか冷ややかで、退屈そうな、俺が今まで見たことのない瞳をしていた。
カメラに気づいた瞬間、いつもの愛らしい笑顔に切り替わるのだが、そのコンマ数秒の落差が、妙に胸に引っかかった。
「……疲れのせいか?」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
連日の準備で疲れているのは彼女も同じだ。常に笑顔でいることなんて誰にもできない。
考えすぎだ、と頭を振って雑念を追い払う。
それよりも、動画の構成上、どうしても足りない素材があった。
「夕暮れの旧校舎」の画だ。
今年の文化祭のテーマは「温故知新」。新しくなった本校舎と、歴史ある旧校舎の対比を映像に盛り込むことになっていた。
ちょうど今の時間帯、マジックアワーが終わりかけた薄暮の旧校舎は、哀愁があって絵になるはずだ。
俺は機材をまとめると、誰もいない放送室を出て、渡り廊下へと向かった。
本校舎から渡り廊下を抜けた先にある旧校舎は、現在は倉庫や一部の部室として使われているだけで、人気はほとんどない。
老朽化した木造の廊下は、歩くたびにギシギシと音を立てる。
夕闇に沈む旧校舎は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
カメラを構え、廊下の奥行きや、窓から差し込む街灯の光を画角に収める。
録画ボタンを押し、ゆっくりとパンニングしていると、不意に人の話し声が聞こえた気がした。
「……ん?」
風の音だろうか。それにしては、はっきりとした声だった。
俺はカメラを回したまま、音のする方へと足を向けた。
声は、旧校舎の奥、立ち入り禁止になっている旧音楽室の方から聞こえてくる。
こんな時間に誰だろう。警備員の見回りか、それとも俺と同じように残っている実行委員か。
もし生徒なら、下校時刻を過ぎているので注意しなければならない。
俺は足音を忍ばせ、旧音楽室の扉へと近づいた。
「――ねえ、もう。こんなところで大丈夫なの?」
その声を聞いた瞬間、俺の足が凍りついた。
聞き間違いようがない。
つい数時間前、俺に「頑張ってね」と言ってくれた、莉奈の声だった。
心臓が嫌な音を立てて早鐘を打つ。
なんで莉奈がここに? クラスの準備は終わって帰ったはずじゃなかったのか?
「へーきへーき。こっちの校舎、ボロくて誰も来ねーし。それに、このスリルがたまんなくね?」
答えたのは、聞き覚えのない男の声だった。
低く、少し鼻にかかったような、チャラついた響き。少なくとも、うちの生徒の誰かの声ではない。
俺は震える手でカメラを握り直し、少しだけ開いていた扉の隙間から、中を覗き込んだ。
そこにあったのは、信じがたい光景だった。
埃を被ったグランドピアノの側に、二つの影が重なっている。
窓から差し込む月明かりが、その人物を照らし出した。
一人は、間違いなく莉奈だった。制服のリボンを緩め、スカートが乱れている。
そしてもう一人。莉奈の腰に手を回し、馴れ馴れしく密着しているのは、派手な金髪にピアスをした、いかにも軽薄そうな男だった。制服は着ていない。おそらく大学生かフリーターだろう。
「ん……っ、キョウヤくん、激しいよぉ……」
「莉奈が可愛いのが悪いんだろ? てかさー、マジで綺麗な顔してんな。これなら学校でチヤホヤされるわけだ」
「もう、からかわないでよぉ」
莉奈の口から紡がれる、甘ったるい声。
俺に向けられる「頼れる彼氏への信頼」の声とは全く違う、媚を含んだ「女」の声。
頭の中が真っ白になった。
理解が追いつかない。
莉奈は、俺の彼女だ。俺と付き合っているはずだ。
なのに、どうして見知らぬ男と、こんな誰もいない教室で、あんなに親密そうに触れ合っているんだ?
「で、例の彼氏はいいの? まだ学校に残ってんじゃねーの?」
男――キョウヤと呼ばれた男が、ニヤニヤしながら尋ねた。
その言葉に、俺は息を止めた。
莉奈が何と答えるのか、聞きたくない。でも、聞かなければならない。
莉奈はキョウヤの胸に指を這わせながら、くすっと笑った。
その表情は、俺が先ほど編集中の動画で見た、あの一瞬の冷ややかな表情と重なった。いや、それよりももっと残酷で、あざけりに満ちた顔だった。
「あー、湊くんのこと? 大丈夫だよ。あの子、真面目だし鈍いから。私が『先に帰る』って言えば、疑いもしないもん」
「へえ、随分と信頼されてることで」
「信頼っていうか、便利なんだよね。委員会とか頑張ってるし、私の言うこと何でも聞いてくれるし。アクセサリーとしては地味だけど、尽くしてくれる下僕としては優秀かな」
下僕。
その単語が、鋭利な刃物のように俺の心臓を抉った。
俺の献身は、愛情は、彼女にとってはただの「便利な機能」でしかなかったのか。
「でもさー、やっぱり退屈なんだよね。湊くんといても、全然ドキドキしないの。優等生ぶってて、手もろくに出してこないし」
「ハハッ、そりゃつまんねーな。俺とは違う?」
「全っ然違う! キョウヤくんといる方が、私輝いてる気がするもん。地味な湊より、派手でカッコいいキョウヤくんの方が、私にはお似合いだよ」
莉奈はそう言って、自分から男の唇に口づけをした。
濃厚で、背徳的な口づけ。
俺には一度だって見せたことのない、情熱的な姿だった。
カメラを持つ手が震え、カタカタと微かな音を立てそうになるのを、必死で押さえつけた。
怒りだろうか。悲しみだろうか。それとも絶望だろうか。
あまりにも大きな感情の奔流が押し寄せすぎて、逆に涙も出なかった。
ただ、冷たい氷のような何かが、熱を持ったまま腹の底に沈殿していく感覚だけがあった。
「ねえ、文化祭当日も来てくれるんでしょ?」
「おうよ。他校生立ち入り禁止らしいけど、変装して忍び込むから。またこっそり抜け出して遊ぼうぜ」
「嬉しい! 楽しみにしてるね。……あ、そうだ。湊くんがね、私のために動画作ってくれてるんだって」
「マジ? ウケるw 何それ、愛のメモリー的な?」
「そんな感じかも。ステージで流すんだって。傑作だよね、彼氏が必死で作った動画の裏で、私がキョウヤくんとイチャイチャしてるなんてさ」
二人の笑い声が、静かな旧校舎に響く。
俺は、唇を噛み締めすぎて血の味がする口の中で、深く息を吸い込んだ。
逃げ出したかった。
今すぐここから走り去って、全てを忘れてしまいたかった。
あるいは、扉を蹴破って怒鳴り込み、二人を引き離したかった。
だが、俺は動かなかった。
いや、動けなかったのではない。俺の本能が、それを拒否したのだ。
広報・記録担当としての習性か、それとも復讐心という名の新たな感情か。
俺の指は、無意識のうちにハンディカムの録画ボタンを確認していた。
赤いランプが点滅している。
正常に記録されている。
高感度モードに切り替えたレンズは、暗闇の中でも二人の表情を、その醜悪な笑みを、鮮明に捉え続けていた。
(……撮れている)
俺の中で、何かがパチンと音を立てて切り替わった。
愛おしかった彼女の笑顔が、今はただのグロテスクな仮面にしか見えない。
俺を「下僕」と呼び、「退屈」と切り捨てた彼女。
不法侵入を犯し、俺の恋人を奪い、俺を嘲笑う男。
感情のスイッチを切るように、俺は深く冷静になった。
ファインダー越しに見る世界は、残酷なほどに客観的だ。
そこには、俺の主観的な悲しみなど入り込む余地はない。あるのはただ、「事実」という名の映像データだけだ。
俺は呼吸を整え、カメラを構え続けた。
手ブレを抑え、構図を調整し、二人の顔と会話が最もクリアに記録されるアングルを探る。
涙は出ない。叫び声も出ない。
ただ、心の中にどす黒い炎が静かに燃え上がっていた。
「傑作だよね」
莉奈、お前の言った通りだ。
これは間違いなく傑作になる。
お前たちが望むような「愛のメモリー」ではないかもしれないが、全校生徒の記憶に一生焼き付くような、最高のエンターテイメントにしてやる。
俺は闇の中で、カメラのモニターの光に照らされながら、誰にも見えない笑みを浮かべた。
それは、今までのような穏やかな笑みではなく、獲物を追い詰める狩人のような、冷酷な笑みだっただろう。
レンズの向こう側で繰り広げられる裏切りの劇を、俺は最後の一秒まで、余すことなく記録し続けた。
これが、俺の復讐の始まりであり、彼女への最後の手向けとなる動画の、最初の素材だった。




