第七話 命の秤り
携帯に掛かってきた声は、前回とは全く違った重苦しいものでした。
「この度は大変ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。沢井さんへお願いした子がまさかタヌキとは分からず、猫の赤ちゃんとばっかり信じ込んでいたもので」
「そうでしょう。私たちもそう聞いて猫の乳飲み子とてっきり思っておりました。後で狸ちゃんとわかったらもう家内も私も笑い転げて」
「そうでしたかぁ…うーん」
「えっ? 元気のない声だけどどうかしました?」
「あれからどうしたものか私なりに真剣に悩みました。元の場所に戻す事も考えました。最終的に獣医さんにお願いして安楽死をお願いしようと思っています」
ぐさりと声が刺さりました。
「えっ、えっ安楽死? どうして?」
田中さんがそちらの方向へ気持ちが行くのが全く理解できませんでした。
「田舎の親戚に話しをしたら、家にもよく来て畑を荒らしているそうなんです。で、タヌキは害獣だから、絶対保護したらいけない。しかも田舎の方では、増え続けて困っているらしいです。だから私が今から引き取りに伺おうと思います」
スマホをスピーカーフォンにしておりますので、二人で聞いております。頭に冷や水を浴びせられた気が致しました。
「えーっ、ちょっと待って、折角助かった命じゃないの? 安楽死なんて絶対ダメダメ。ダメよ」
啓子も必死でした。実は私共には安楽死に対する強い嫌悪感があるのです。娘がカナダへ留学しておりました30年以上も昔の話です。夏休みで日本へ一時帰国し、再びカナダへ戻りますと今までそこで飼われておりました猫の姿がおりません。
「シェレン、ダスティーは?」
シェレンは留学先のママさんの名前で、ダスティーは猫の名前です。
「ダスティーはもう歳だから病院で安楽死させたのよ。これから先、病気してあの子が苦しむ事を思うと可哀そうでしょう? それと治療費もかさんでくる事だし」
「はぁ? まだあんなに元気だったし、ネズミやモグラもちゃんととってくれていたのに……」
その晩、娘は泣いて国際電話をかけてきたのです。異国の地でダスティーは娘を癒してくれた最初の友達でした。安易に安楽死に切り替えるのが、カナダの国民性なのかママさん個人の考えなのかはわからずじまいでした。少し脇道にそれましたので、田中さんからの電話に戻ります。田中さんの声を聞きながら、思わず目線は黒っぽい小さな姿に向かっておりました。目は全開しておりますがまだまだおぼつかない足で懸命に這っております。
その姿を見ておりますと、どうしても安楽死へ向かわせる訳にはまいりません。携帯へ向かって啓子が語気を強めました。
「私達夫婦にとってこの子の命を絶ってしまう安楽死なんて絶対にありえないの。何としても生きてもらわないと。どう? 私達に任せて、ね」
無邪気な顔を見ておりますと、この子の命を絶ってはいけないという必死の思いでした。すると田中さんはかすれた声で泣き出してしまいました。勿論、私達も真剣ですからもらい泣きしております。
「あの時側溝の穴から私がすくい上げなかったら、親狸がこの子も連れて行ってくれたかもしれません。私って余計な事をしたのではないでしょうか?」
自責の念にかられておられました。
「そんな事はないよ。次の日大雨だったでしょう。側溝も溢れる位水かさが増していたと思う。他の子達が無事だったかどうかも分からないと思います。心配しなくて良いですよ。折角助けた命。育ててやりましょう」
「…本当に良いのですか?」
安堵の声が返ってまいりました。
「まかせて下さい!」
「助かります。どうかどうかよろしくお願いします」
電話を切った後、安心したのかどっと疲れが出ました。分からない事だらけではございますが、タヌキが犬科とだけは分かっておりますので、犬と思って育てる事に致しました。
鳴き声をご紹介しましょう。
今のところ、「キューキュー」「ピーピー」「キュッキュ」それから
「ギューギュー」です。
数日後、ポン子と名付けました。ミルクは当初、キャットミルクがありましたのでスポイドで少しずつ飲ませておりましたが、その後、哺乳瓶に替えました。初めは12ml程やっておりましたが、徐々に増やしていきました。そのミルクですが、ポン子にちょっとした異変が起きたのです。そのお話はまた次回で。