第36話 立場の違いⅡ
ワンヘルス会議当日、私は紺のスーツに緑と青の格子柄のネクタイを締めて身支度を整えました。久しぶりのスーツ姿だったため、首元に少々圧迫感を覚えました。啓子は、紫の絞りの着物をリフォームしたワンピースに身を包んでいます。
福岡県庁に到着すると、玄関口には秘書の方が待機されており、すぐに第一応接室へと案内されました。部屋に入ると、スーツ姿がいかにも不似合いに見える65歳前後の男性と、同年代と思われる奥様が既に着席されていました。間もなく例の課長が紹介してくれました。
「こちらがタヌキのポン子さんを飼っておられる沢井良一様、並びに奥様の啓子様ご夫妻です」
私たちはゆっくりと頭を下げました。
「そしてこちらが、飯塚市で農業を営んでおられる前田一郎様と竹子様ご夫妻です」
相手も会釈されましたが、ご主人の皺深い顔にある鋭い目がこちらを刺すように見つめてきます。張り詰めた緊張感が漂っていました。私は気まずい沈黙を破ろうと、意を決して声をかけました。
「前田さんは、どのような作物を作っておられますか?」
「米に野菜類、それに大根、かぶ、ニンジン…ジャガイモ、ホウレンソウなどです。うちら農家ですから」
口調はたどたどしく、まるで対決姿勢をとっているかのようでした。
「そうですか」
「うちらは、今日“害獣”の駆除をお願いに来ました」
冷えた空気の中、それ以上会話は進まず、やがて課長が迎えに来ました。
「それでは大会議室にご案内いたします」
長い廊下を進むと、大きなドアが開かれました。
「お名前の垂れ札が下がったお席におかけください」
議員たちは既に着席しており、私たちが入室すると全員が立ち上がって出迎えてくれました。最前列中央には、知事の姿も見えました。私たち夫婦と前田夫妻は、左右に分かれて設置された2つのテーブルにそれぞれ座りました。テーブルの上にはスタンドマイクが置かれています。
私が驚いたのは、後方にテレビカメラが4台も並んで、こちらを向いていたことでした。その瞬間、緊張とともに胸が高鳴りました。
「えー、それでは只今より、かねてより議題となっておりましたワンヘルスの立場から、本日はタヌキをペットとして飼っておられる沢井様ご夫妻と、いわゆる“害獣”の被害にあわれている農家の前田様ご夫妻から、直接お話を伺う機会を設けさせていただきました。まず初めに、ワンヘルスを提唱しております知事より、ご挨拶をいただきます」
「本日はご多用の中、四名の方々にご足労いただきありがとうございます。ワンヘルスは、人と動物、さらには地球全体を一つの大きな“健康”と見立て、その調和を目指すものです。地球全体が健やかであるために、今後もさまざまな対策が必要です。被害を受けておられる農業従事者の方もいれば、野生動物を保護・飼育されている方もおられます。本日は双方のお話を伺い、今後の参考とさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします」
知事の挨拶に拍手が送られたあと、司会者が話を続けました。
「それではまず、福岡県における害獣による農業被害の実態について、パワーポイント資料をご覧いただきます」
照明が落とされ、スクリーンに写真や統計が次々と映し出され、司会者がそれに沿って説明を始めました。
「福岡県では、アライグマ、イノシシ、イタチ、ハクビシンなどの害獣による被害が年々増加しております。これらの動物は農作物を荒らすだけでなく、住宅に侵入して建物を損傷させるなど、地域住民や農家に深刻な影響を及ぼしています。特に福岡市近郊では、目撃情報や被害報告が増加しており、被害の範囲も拡大しています。また、これらの動物が感染症を媒介するリスクも問題視されており、今後は農林水産物の鳥獣被害防止対策費を増額して対応していく方針です」
明かりが戻り、司会者が続けました。
「それではまず、前田様から具体的な作物の被害状況についてお話をお願いします」
前田さんは一つ咳払いをして姿勢を正すと、ゆっくりと話し始めました。長年の農作業で背中は丸まり、日焼けした顔には波のように刻まれた皺が目立ちました。
「うちは先祖代々この土地で、米や野菜などさまざまな作物を作ってきました。今どき、米だけでは儲けはほとんど出ません。その上、野菜畑をタヌキやイノシシに荒らされたら、うちら農家は生きていけません。これは死活問題です。年々被害が酷くなっており、私も年ですし、このままでは農業を辞めざるを得ないかもしれません。先祖から受け継いだ土地を守れないと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいです」
感極まったのか、声が震え始め、奥様もハンカチで目元をぬぐっておられました。後方からカメラマンが前田さんをクローズアップしに前へ出てきます。
「うちらは、ペットを楽しみで飼っておられる方々とは違って、生活がかかっております。農協に出す作物がなければ、日々の生活が成り立たなくなります。だから猟師に頼んで、できるだけ害獣の被害を減らすようにお願いしています。けれど最近は猟師も高齢化が進んで、なかなか思うように動いてもらえません。そこで自分たちで罠を仕掛けて対処しています。もちろん、罠にかかったタヌキやイノシシは食用にします。害獣どもの当然の報いです」
数人の議員から拍手が起こりました。その辛辣な発言に、私は思わず身体がこわばりました。おそらく隣の啓子も、同じような思いだったでしょう。明らかに対抗意識を持っているのでしょう、害獣の話の冒頭で「タヌキ」を口にされました。実際には、前田さんが言っている「タヌキ」はアライグマのことではないかと思いながら聞いておりました。
「前田様のお気持ち、痛いほど伝わってまいりました。知事をはじめ、議員の皆さまにもその訴えが深く響いたことと思います。次に、沢井様をご紹介いたします。沢井様ご夫妻は、自宅でタヌキのポン子さんを飼っておられます。ご発言の前に、事前に撮影させていただいたビデオをご覧ください」
照明が落とされ、自宅で撮影されたポン子と私たち夫婦の様子が映し出されました。ポン子が「おすわり」や「お手」、「おかわり」をし、さらには私の頭に手を乗せる仕草が映ると、場内から「ホ〜ッ」と感嘆の声が上がりました。
照明が戻ると、司会者が言いました。
「それでは、沢井様のお話を伺いたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします」
次は私の番とわかっていましたが、頭の中は真っ白でした。いまこれを書いていても、手のひらにじっとりと冷や汗がにじんできます。ですので、私の発言については次回にご報告いたします。それではまた。
-続-




