勇者
視界の端に、ふと違和感が走る。
花壇の奥。柵のすぐ手前に、見覚えのない人影が、じっとしゃがみ込んでいるのが見えた。
(誰だ……?)
人影は一瞬の迷いもなく、何かを大きく振りかぶった。――放たれたのは、ひと抱えもある麻袋のようだ。地面に落ちたその瞬間、中からぶわりと黒煙が広がった。
(なんだ……煙か? 違う、動いてる!?)
ブオーン!という低音が辺りを満たす。紫のドラゴンが身をよじった。
黒煙の正体は、無数の黒い点だった。――虫だと気づくのに、時間はほとんどいらなかった。
「ハチだ! 巣を投げ込まれた!」
誰かの叫びに応じて、周囲から人が駆け寄ってくる。しかし、空中を飛び交うハチの群れは凄まじく、火炎も、雷撃も、追いつかない。
(数が多すぎる! 一匹一匹は小さいのに、これじゃまるで嵐じゃないか)
みんなが逃げ惑い、ドラゴンたちも混乱に巻き込まれていた。その隙を突くように、さっきの人影がレイチェルの背後にするりと忍び寄った。
(まずい!)
気づいたときには、人影が、レイチェルを抱えたまま柵を飛び越え、森の奥へと駆け込んでいた。
(くそっ、まんまとやられた……あいつ、レイチェルを!)
気づけば、体が勝手に動いていた。柵を超えて、木々に分け入る。
「待ちやがれっ!!」
その背中が小さくなっていくのを、オレは歯噛みしながら追った。
足元の茂みに何度もつまずきそうになりながらも、オレはひたすら前を行く影を追った。
(見失うわけにはいかない。ぜってー、逃がさねぇ!)
森の中はじめじめと湿っていて、ぬかるんだ地面が足を取る。枝が顔をかすめて、目の前をふさぐ。だけど構ってる余裕なんてなかった。
相手は、レイチェルを抱えているにも関わらず、木々の間を敏捷に駆け抜けた。
(あいつ、いったい誰だ……?)
逃げるその後ろ姿。ボロボロの布切れを身にまとい、足元ははだしで血に染まっている。髪は長く、ほつれて汚れ、まるで獣のようだ。
やせ細った腕に、レイチェルを抱えたまま走り続け――
ふいに一瞬だけ振り向いた。
(……!?)
その顔は、髭に覆われ、目はぎらついている。顔中に、ハチに刺された傷跡が点々と浮かんでいた。腫れあがった頬、傷のようにも見える赤い斑点。
それでもなお、その目には――確かな執念があった。
森の中、大きな岩の間を流れる川に阻まれて、相手は行き場を失っていた。
やっと追いついた。深く息を吐きながら、オレは大きな岩の影で立ちすくむ人影をにらんだ。
肩で荒く息を吐きながら、その男はぽつりとつぶやいた。
「……なあ、お願いだ。使い魔を、1匹だけでいいんだ……あんた、いっぱいいるだろ? だったら、少しぐらい」
(何を言ってるんだ、こいつ)
「……お前、誰なんだ?」
返ってきたのは、正気とは思えないほど強い声だった。
「オレは、勇者だ! この世界を救う勇者様だぞ!」
(なんだと?)
よく見ると、身体にまとったボロボロの布切れは、勇者の衣装の名残に見えなくもない。
「わかるだろ、あんたも勇者なら!!……でも、使い魔にまで逃げられて……!」
男は疲れたのか抱えていたレイチェルを地面におろし、でも、がっしりと腕をつかんで離さない。
「……俺が契約した使い魔は……イフリートだったよ。こんな子猫とは違って、すげー強そうでさ! だけど、見た目はおっかないし、近づくとめっちゃ熱いし――思わず、あっち行け!って言ったら……そのままいなくなっちまったんだ………」
異世界で、使い魔に逃げられたら、かなりのダメージだ。それは、オレにも分かる。
「なぁ……俺、このままじゃ、なにもできない。ただの無力なやつなんだよ……」
絞り出すような声だった。
この世界で、特別なスキルも聖なる剣ももらえなかったら、普通の一般人と同じになってしまう。いや、この世界のことを知らないから、一般人以下の存在だ。使い魔こそが特別な力の証なんだ。
男は、震える手でレイチェルを抱き直すと、オレを真っすぐに見据えた。
「……だから、頼む。こいつを、オレに譲ってくれ!」
男の哀れさに、とっさに返す言葉を思い付かなかった。だが、泣き続けるレイチェルを放っておくことはできない。
「オレは……勇者なんかじゃないよ」
言いながら、自分の言葉の重さを噛みしめた。
「オレにも、スキルなんてない。剣もない。知識もないし、チートなんて夢のまた夢だ……お前もそうだろ。オレたちは、どこにでもいる普通の一般人なんだ」
男は顔をゆがめて、叫んだ。
「でも、使い魔を持ってるじゃないか!」
「……この子は、オレの使い魔じゃない」
オレははっきりと言い切った。
「使い魔は、勇者の持ち物じゃない。武器でも、家来でも奴隷でもないんだ……」
男は、レイチェルを見下ろした。
「じゃ、じゃあ、おまえ……俺の使い魔になれ! なっ!?」
「やだー! ゆうた、助けて―!」
レイチェルは、男の腕から逃れようと力いっぱい暴れた。
「俺と契約するんだ。俺を本物の勇者にしろ!」
もがくレイチェルを押さえ込んで男が叫ぶ。
「さあ、俺の指を噛め!血を流させろッ!!」
オレは深く息を吸って、男に向けて言った。
「やめろ!……そんなんじゃダメだ」
「なら、教えろ! どうすれば使い魔は言うことを聞く!?」
「わかったよ……こうやるんだ」
オレは、その場にしゃがみこんで、レイチェルと視線を合わせた。
レイチェルが、オレの顔をじっと見つめる。
オレは微笑みかけた。
「……レイチェル、みんなのところに帰ろうな」
「かえるー! あたしかえるー!」
「よーし。じゃあ――こうして」
オレは、胸の前でぎゅっと2つの握りこぶしを作った。
祈るように――ただ、願うように。
レイチェルも、それを見て、真似するように両手を握った。
「うむむむむ……!」
「うむむむむ……?」
「むむむむむ……!」
「むむむむむ……!」
レイチェルの瞳に、力がみなぎる。
「電撃っ!」
「エイッ!!」
2人そろって、気合を込めて両手を突き上げた!
その瞬間、レイチェルの身体が光った――ズバババッと、稲妻のような電撃が炸裂した!
「ギャーーッ!!」
ちょうど真後ろにいた男は、まともに電撃を浴びた。両手両足を突き出して、硬直させたまま、ばたんと後ろに倒れ込んだ。
「……やった!」
「ゆうた! ありがとう!!」
レイチェルが、オレに駆け寄った。
レイチェルを抱き上げながら、白目をむいて倒れている男にオレは言った。
「……な……命令するんじゃダメなんだよ」
神殿に戻ると、何とか黒いハチの雲も片付いていた。毒グモの網でからめとり、巣はドラゴンの炎で焼き尽くしたらしい。
「ママーッ!」「レイチェル!!」
ルーアがレイチェルを抱しめる。他の子どもたちも、レイチェルの名前を呼びながら2人にぎゅっと抱きついた。
分かってる。まるで絵に描いたような、おとぎ話みたいな光景だ。
――でも、それでいい。今だけは。
花壇の片隅に、小さな花が咲いていた。