竜王
その朝は、なんとなく空気がざわついていた。
湿気を含んだ風が吹き、空は重たく沈み込んでいる。低い雲が、山の稜線を呑み込もうとしていた。
どこからか、ぴりついた気配が空気に混じっている。
(……いやな感じだ)
と思った、まさにそのとき。
ゴゴゴゴォォォン!
地の底から、突き上げるような揺れが来た。
「うぉっ! でかい!」
オレは思わず、洗濯かごを抱えたまま踏ん張った。物干し台とロープがギシギシときしむ中、ルーアが、いつものように庭をうろついていた子どもたちをかばった。
揺れはすぐに収まったが、雲はさらに低く、重く、色を濃くしていた。
全員、立ち止まって空を見上げた。
(……火山か? 本気で噴いたか?)
曇り空のせいで、遠くの様子がわからない。
少し遅れて、ユンドルとエレナが神殿の中から出てきた。2人とも眉間にシワを寄せ、空をじっと見つめている。
一方で――
ルーアと子どもたちは、逆にテンションが上がっていた。
「わぁ、なにこれー!」
「くらーい! けど、かっこいい!」
「あれ、見てぇ!」
「でっかい雲が降りてきてるー!」
空の異変に、好奇心が大爆発。
「うぉー、なんかすごくない!?雲の塊が、ぐるぐるしてる」
あろうことか、ルーアまでウキウキしていた。
子どもたちはキャッキャとはしゃいでいたが、オレの中では違う感覚がじわりと広がっていた。
何かが、来る――それも、こっちの都合を無視して。
風が止んで、空気が変わった。
誰かが冗談で「神が通った」って言っても信じるレベルの、圧倒的な気配。
見上げれば、雲の底に黒い影がゆっくりとうごめいていた。
そして、曇り空を音もなく切り裂いて――それは現れた。
1匹のドラゴン。
輪郭がにじむような青黒い身体。腹は丸く太く、厚いうろこにびっしりと覆われていた。
長い首と尾が激しくうねる。その先にあるのは、まるでワニのようなごつい頭。目は、炎のように濁った赤。
翼は意外と小さい。だが、気流を読むように旋回しながら、周囲の様子を探っている。その目だけが、赤く、じっとこちらを見下ろしていた。
「なんだ……あれ……」
思わず声が漏れたとき、2匹目が現れた。
緑色のうねりが、空気を切り裂いて飛び出した。
森の奥の苔を思わせるような、深い緑。さっきの青に比べ、動きは荒々しい。
ぐるりと空中を旋回すると、勢いそのままに青へと突っ込む。けれど、青のドラゴンは翼をひと振りしてそれをかわし、再び間合いを取った。緑は、口から煙をたなびかせて、なおも上空を威嚇するように旋回する。その軌道は直線的で、どこか苛立っているようにも見えた。
そして、3匹目。
雲が割れる。
そこから、ゆっくりと──紫の巨体が姿を現した。
青でも緑でもない。どこか幻のような滑らかさ。淡く光るうろこが、雲の切れ間で鈍く輝きながら舞い降りてくる。翼は他の2体よりもさらに大きく、優雅に広がっていた。速さはない。けれど、一歩一歩、空気を押しのけるような重みがある。
そのまま紫のドラゴンは、神殿の尖塔に向かってゆっくりと降下し――
ガシィッ
太い後肢で、塔の先端をわしづかみにした。
そのまま止まった。尖塔がギシリとゆれた。動かない。動く必要がない。それだけで、支配者のようだった。
グオオォォオオ……ッ!!
咆哮が、空と地を震わせるように響いた。
振動が全身を震わせる。オレの心臓も、一瞬だけ止まった気がした。
曇天の下、3匹の金属色のうろこがギラギラと光って周囲を威圧していた。
ラルフィは、それを見て「うおー、つよそー!」と興奮している。リアーナは口をあんぐりと開き、ルディは半泣きでレイチェルにしがみついている。ルーアは、子どもたちを守る位置にいる。
だが――まだ、これだけじゃない。
大きく雲を割って、何かが降りてきた。
2匹のドラゴンの間を、ゆっくりと降下してくる。
女――だった。たぶん。
輪郭は人に近い。でもその骨格は、俺の常識からズレてる。
腰回り、肩、胸元――すべてが、あり得ないスケールで整っている。
露出の多い黒革の衣装が、まるで彼女自身の皮膚のように体に馴染んでいる。
“戦う女神像をそのまま戦場に投げ込んだ”って表現が一番しっくりきた。
そいつは、そのまま神殿の上に降り立ち、屋根の端にどっかりと腰を下ろした。
「……あんたが、今年の勇者か? なかなか遊びに来ないから、こっちから来てやったぞ」
女は、余裕の笑みを浮かべながら、オレたちを見下ろしていた。
その声は、甘くて低い。喉の奥で転がる蜜のように、じわりと響いた。
そのときオレは気が付いた。
「……おまえが……竜王なのか!?」
女はにやりと笑って、手を振った。
「そのとーり♡」
軽く言いやがった。でも、笑ってるくせに、空気が震えてる。体の奥で“こいつは本物だ”と理解していた。
「ずっと退屈で、困ってたんだよ……」
挑発的な竜王の口調に、ユンドルが一歩も引かずに問いかけた。
「……これまでの勇者たちは、どうなったのだ?」
「あー、うん。頑張ってたよ。マジ、全力でね。こっちも手加減してたんだけど……全滅、しちゃったかな。悪いけど」
「……力不足だったか」と、ユンドルが悔しそうにうつむいた。
そのとき、ルーアがスッと前に出た。
そして、竜王の黒革の衣装を、頭のてっぺんから足の先までじろじろと眺めてから言った。
「……その格好、マジでやばいじゃん。スタイルもガチだし」
その笑顔は、完全にケンカを売っていた。
肩をぐるりと回し、ゆるっと腰に手を置いた瞬間――足元に、バチバチと雷が走る。
「でもさ……ナメられてんのチョー無理だから。アタシ、負ける気ゼロなんで!」
鋭い電撃が地面から一気に突き上がり、竜王へとほとばしった!
だが――
尖塔の上、紫のドラゴンがふっと首を持ち上げた。
その口から、灼熱の炎が放たれる。
電撃と炎が空中でぶつかり合い――ボンッ!と軽く弾けて、何事もなかったかのようにかき消された。
「……はぁ!? 何それ、マジうざっ!」
ルーアが、舌打ちしながら地を蹴った。背中に翼が広がる。そのまま跳躍、くるっと一回転しながら、左手の爪に風を巻き込んで切り裂く!
けれど、それを待っていたかのように、上空の2匹のドラゴンが同時に大きく羽ばたいた。
ゴウッ!
生まれた突風が、ルーアの身体を横殴りに吹き飛ばす。
「うわッ、ちょ、ちょっと!!」
風に煽られ、弧を描いて飛ばされたルーア。
だが――
そのまま空中でくるんとバク転しながら、ピタリと体勢を整え着地した。
「なかなかやるねぇ」
挑発にも似た笑みを浮かべながら、竜王が楽しげに肩をすくめる。
「でも、まだまだかな」
そのとき、静かに前へ出たのは――
「……では、私がお相手しましょう」
ユンドルだった。後ろに手を組み、ゆっくりと進み出る。
と、両手に握られていたのは、短い手斧が2本。柄に黒い紐が結んであり、両手に握った回し始めた。空気がうなり、斧の刃の軌道が残像を描く。
それは、地方に飛ばされた“仕事のできない”中間管理職の雰囲気ではなかった。
むしろ、仕事ができすぎたせいで左遷され、不得意分野を押し付けられている――そんな、チョー優秀な人材そのものだった!
そして、後ろで並び立つのは――ハンスさんとハンナさんだ。
ハンスさんの手には、T字型のレーキ。庭掃除の道具とは思えない重み。たくさんの歯がぎらりと光る。ハンナさんは、いつもの台所用ホウキ――ただし、その先端は鋼線の束。鋭くとがり、殺気を帯びて広がっている。
(え……ちょっと待って。あんたたちまで!)
神殿に勤める人が少ないことは、彼らの隠された実力を物語っていた。
3人が、ぐっと腰を落とす。その姿勢に、空気が張りつめた。
言葉になる前に、ユンドルが斧を放った。
キン、と硬質な音を立てて、手斧が石造りの屋上に突き刺さる。そのまま両腕を引きしぼり、一直線に紐を張り詰めた。
ハンスさんとハンナさんが、同時に地を蹴った。
軽い。速い。音すら置いてきぼりにして、ふたりは──紐の上を駆け上がる。
(なにこれ、ワイヤーアクション!?)
屋根の端で、紐を蹴って跳躍。
ホウキとレーキをそれぞれ振りかぶり、竜王の頭上へと飛びかかる!
同時に、ユンドルも紐を引いて、その反動で宙へと舞い上がった。
その刹那──刺さっていた手斧を抜いて旋回!
空中で、重力すら無視するような動きで再び手斧を構える。
一瞬のうちに、3人が一点に収束した。
標的は、ただひとり――竜王。
だが、竜王は動かない。
(……避けないのか?)
違う。
彼女の眉が、わずかに動く。口元だけで笑い、右手がふわりと掲がる。
――次の瞬間、青白い光がうねりとなって吹き上がった。
ブゥン……ッ!
竜王の全身を取り巻くように展開したそれは、ノコギリのような無数のトゲを備えた、渦巻く魔力のムチだった。
空中の3人が、ギリギリの間合いで身体をひねる。見えない空間を蹴るようにして、進行方向を強引に逸らした。
屋上の端へと着地――その瞬間。
ハンスさんのレーキの柄も、ハンナさんのホウキも、真ん中で無惨にへし折れていた。
それでも、3人は息をつく間もなく跳躍する。
そこへ追撃の炎が落ちてきた。
3匹のドラゴンが吐き出した燃え盛る火球が、3人のいた位置に着弾し、屋根を激しく砕く。
まともに食らえば、黒焦げではすまなかった。だが、3人は――
庭園へと舞い降り、ふわりと地面に着地する。
子どもたちと一緒に、オレもついつい拍手していた。
「すげー!」
「かっけー!」
「うぉー」
「やばーい」
だが、それは、竜王も同じだった。
「……すばらしい! 今までの勇者より、ずっと強いじゃないか!」
竜王が手をたたきながら笑う。
「でも……物足りないなあ。まだまだ、こんなもんじゃないだろ?」
ユンドルが、静かに一歩を前へ出る。だが
「……残念だが、スキがない……せめて、竜王とドラゴンを分断できれば」
言葉とは裏腹に、その目には光があった。敗北を認めた眼じゃない。
その時、どこからか微かな振動が這い上がってきた。それは次第に強くなり、空気を震わせるような轟音へと変わっていった。
「ん……何だ」
竜王が眉をひそめた。
オレは音の聞こえる方向を見上げた――音の発信源は、神殿の中。
次の瞬間――
ドォン!
神殿の屋上が、内側から爆発した。石片が弾け飛び、砂煙と破片が激しく舞い上がる。
尖塔に止まっていた紫のドラゴンが、翼を広げて空に身を翻す。
さっきまで屋上の端に座っていた竜王は、軽く身体をひねってふわりと地上へ舞い降りた。
その姿を見て、オレたちはあわてて距離を取る。
だが、竜王はそこから一歩も動かず、崩れた屋上の向こうをじっと見上げていた。
……現れたのは、黒光りする巨大な影。金属質の脚が8本。背中の甲殻は鋼鉄のように輝き、全身を覆う剛毛は雷のように逆立っている。
あれは――毒グモだ。
かつてユンドルと地下倉庫で追い払った、あの毒グモ。けれど今のそれは、ひとまわりも、ふたまわりも巨大化し、異様な存在感を放っていた。
竜王が、崩れかけた屋上を見上げて笑う。
「ふふ……これはまた、愉快な登場だ」
巨大毒グモの背中に、エプロンの裾をなびかせて片膝をつくのは……エレナだった。
(おいおい……飼い慣らしてたのか……?)
「……ハッちゃん!行きます!」
短くそう告げたエレナに応え、毒グモが唸り声を上げた。
(……ハ?ハッちゃん!?……それって毒グモの名前か!?)
口元から、粘着質の糸がシュルシュルと飛び出した。空中に、細く、それでいて弾力のある網を次々と張りめぐらせていく。崩れた神殿と尖塔のあいだに、幾重にも巣が編みこまれていく。
気づけば、それは天井のように広がり、竜王の頭上をふさぎ込んでいた。
そして──空にいたドラゴンたちの進路を、完全に遮断していた。
「……結構、やるじゃないか……」
その隙をついて、ルーアとユンドルが仕掛けていた。
ルーアが稲妻を解き放ち、まっすぐ竜王の胸を狙う。竜王はそれを紙一重でかわす──だが、避けた先にはユンドルの手斧が鋭く飛来していた。
斧がわずかにかすり、竜王の体勢が崩れる。
そこに、ハンスとハンナが折れたレーキとホウキを両手に構え、突進。レーキの鉄爪が下から、ホウキの鋼線が上から、十字を描いて交差する!
その頭上――青のドラゴンが、急降下した。
翼を一閃。雷光をまとって、一直線に突っ込む。
ゴォッ!
空気を切り裂く突風とともに、青の体が毒グモめがけて突き進んだ。
クモが迎え撃つ。牙をむき、口元から糸を吐く。
粘着質の細糸がドラゴンの雷光に触れた瞬間、バチッと閃光が走った。
青はそれをものともせず、大きな爪でクモの脚をわしづかみにする。
――だが。毒グモの金属質の脚は、鋭く、重く、強かった。
その重さを支えきれず、青の体がそのまま横滑りして流される。
そして、その先には――尖塔と屋上に張り巡らされた、あのクモの巣が待ち受けていた。
その隙を、緑のドラゴンがすかさず埋めた。
高く飛び上がり、屋根全体を俯瞰しながら、弧を描くように旋回する。毒グモの動き――脚の角度、網の範囲、そして次の一手を読み取ると、翼をたたんで急降下。
だが、それを迎え撃つかのように、毒グモが青の身体の離し、ねばつく毒液を噴き出した。
緑の翼の端を毒液がかすめ、速度が鈍る。
上空で距離を取っていた紫のドラゴンは、するりと尖塔の影へと回り込んでいく。
「いけーっ!!」
「がんばれッ!!」
「みんな、しっかり!」
「負けんなぁ!」
あたりに、子どもたちの声援が響いていた。
(まずい……子どもたちを守らないと……!)
戦いの激しさに、とっさに子どもたちを引き寄せると、オレは少し離れた柱の陰へと身を隠した。
――竜王は、ハンスさんとハンナさんの攻撃をぎりぎりでかわしていた。
クモの巣のすき間をかいくぐり、滑るように前へ出る。そして――
ブゥン……ッ!
青白い光が、竜王を中心に渦を巻いて吹き上がる。
無数の鋭いトゲをまとった魔力のムチが、嵐のように空間を切り裂く。
その横合いをすり抜けて、ルーアとユンドルが突っ込む。
電撃と手斧、そして光のムチが交錯する。
攻めてはかわし、かわしては斬る――目まぐるしい攻防。
上空では、ドラゴンたちの動きが糸に絡まり、もがくように止まりかけていた。
「今です!」
屋上でエレナが叫んだ、その瞬間。
毒グモが、青のドラゴンに跳びかかる。
だが、緑のドラゴンが横合いから炎を吐き、毒グモをなぎ払う。
甲殻の半身が焦げ、脚がよろめく――。
その間に、紫のドラゴンがさらに火を放った。
それは、ただの火ではなかった。
ゆらめき、波打ち、幻影をともなう高熱の奔流――
屋根全体を焼き払うように広がり、毒グモを包み込む。
熱風が吹き抜ける。
屋根が崩れ、クモの巣が燃え上がる。
地上では、ルーアの稲妻、ユンドルの斧、竜王のムチがぶつかり合う。
攻めと守りがめまぐるしく入れ替わり、もはや主導権は見えない。
その背後では――焼け落ちたクモの巣が、赤い雫となって舞い落ちていた。
そしてついに。
呪縛から解き放たれた3匹のドラゴンが、揃って火炎を吐き出す!
轟音と熱が一帯を包み込み、地上の全員が身をすくめた。
ドラゴンたちは神殿の屋根に陣取り、上空から地上すべてを、完全に制圧する構えをとる――。
ルーアとユンドルが、歯噛みしながら一歩後退。
ハンスとハンナも、竜王と間合いを取る。
毒グモは焼けた脚を引きずりながら、屋上の陰へと退避する。
エレナが身をかがめ、その身体をかばうように手を添えた。
竜王が、肩を回しながらうそぶくように言った。
「うーん、今のは悪くないね……いい準備運動になったよ」
その顔には、まだ余裕があった――だが確かに、さっきよりも楽しげな色が混ざっていた。
(くそっ……ここまでやっても、敵わないのかよ……!)