契約
「勇者様、どうぞ、こちらへおいでくださいませ」
異世界に──召喚されたらしい。
荘厳な神殿のなか、金の刺繍が付いた白いローブ姿の中年男がオレを案内していく。
神官──ユンドルと名乗ったこの男、言葉づかいが丁寧でやけに腰が低い。とにかく問題を起こさず、現場を回そうと四方八方に愛想をふりまくタイプ。神殿に仕える高僧というより、バイト派遣会社の中間管理職みたいだ。
目の前に伸びているのは、やけに荘厳な回廊だった。左右には石造りの柱がずらりと並び、天井を突き抜けるようにそびえ立っていた。
「で、オレ……いきなり召喚されたんだけど、これから何をすれば?」
「あ、ハイ──竜王の脅威から、この世界を救っていただきます」
きたきた! こういうのだよ!
オレは、ちょっと張り切っていた。元の世界では、やる気もなくブラックバイトに明け暮れ、楽しみと言えばネットとゲームとマンガばかりの暇つぶしの生活だった。
なのに、ついにオレにも巡ってきた! あこがれの召喚勇者生活が始まりそうだ。
しばらく床屋にも行ってなくて髪はボサボサ、運動不足で腹も出始めており、全然勇者っぽくない。でも、さっきもらった戦士風の服に着替えて革の防具とブーツを身に付ければ……まあ、コスプレの戦士くらいには見えるだろう?
何より、これから勇者として、いろんな能力や装備を与えられるはず。
「オレ、ただの一般人なんだけど……それでも、チートスキルとか……特殊能力があるのかな?」
「ございません」
即答かよ。
「じゃあ……聖なる剣! 無敵の盾! 特別装備がもらえる?」
「ございません」
「……えっと、元の世界でゲームやってた知識とかで無双できたりとか?」
「なにか特別な知識や経験をお持ちですか?」
「いや、特にないな……じゃあせめて、強力な仲間がいっしょに来てくれるとか? たとえば、こっちの助手の人とか……」
オレは、後ろから着いてくる補佐役っぽい人を振り返った。メガネをかけた女性で、編み込んだ髪を頭の上でまとめている。白魔術師役が似合いそうな、きれいなおねーさんといった印象だ。
何かの貴重品らしい分厚い書物を抱えてついて来ていたが、オレの問いかけには、困ったように首を横に振った。
「いえ、エレナは……野外活動には不向きでして……」
ユンドルの返事を聞いて、オレは肩を落とした。
「その代わり……」
少し声をひそめて、ユンドルがささやいた。
「……その代わり?」
「使い魔をご用意いたします」
回廊を曲がり、階段を降りた先に――かがり火に囲まれた広間が広がっていた。中央には、数段で登れる石造りの台座があり、周囲は同じく石の手すりに囲まれている。その台座の中央には、複雑な紋様が刻まれた金属製の檻がひとつ……中は、空だった。
台座の手前には書見台っていうのかな、立ったまま本が読める木製の台があって、職人の手作りふう模様がついている。
助手のエレナがそこに書物を静かに供えた。
「なんだよ、使い魔って……」
オレの問いに、ユンドルが重々しく振り返る。
「あなたの家来となる、聖なる生き物です。契約を結ぶと、主人の命令には逆らえない。なんでも言うことをきく存在」
家来っていうより──まるでペットだ。
「……で、その使い魔がいれば、なんとかなるの?」
「すべては、その使い魔の能力と──あなたの扱い方次第です」
ミニモンスターの特殊能力でバトルしていく感じなのか。というか、それなら勇者を呼ぶ必要ないじゃん。
オレの考えを読み取ったように、ユンドルが説明を加えた。
「使い魔は強力な存在ですが、そのままでは言うこと聞きません。そこで、主人となる勇者が必要なのです」
意味深な言葉に、妙な不安が胸のうちに湧き上がった。ブラックなバイト派遣で、現場に行けばなんとなると言われた感じだ。
ユンドルは無言のまま書見台の前に立った。書物の間に挟まれていた赤い革のしおりを指先で摘み上げる。パサリ、と静かな音とともにページがめくられる。
「では、こちらにおいでください……右手を本の横に添えて……」
そこに記されていたのは、見たこともない文字列。何語かもわからない、不規則にうねる曲線の羅列だった。
「……聖なるデルドールの神に、心よりお願い致します」
ユンドルが低く、しかし確かな声で、よく分からない文字を読み上げ始めた。緊張しているのか、首から下げた金属のメダルを強く握りしめている。数歩下がった位置で助手もいっしょに祈っていた。
空気がピンと張りつめた。いや、空気じゃない。石造りの台座が、うっすらと青白く光り始めたのだ。
金属の檻の格子が淡く輝きながら、まるで呼応するように震え出す。
かがり火が勢いを増した。格子に刻まれた紋章がくっきりと浮かび上がった。
……なんだこれ。完全に場違いなところに来ちまった気がする。
心臓がバクバクした。手の平も、じっとりと汗ばんでいた。なにかが起きる、いや、“出てくる”。そんな予感だけが、全身にまとわりついて離れなかった。オレは無意識に一歩後ずさった。
「手を離さないで!」
ユンドルが、オレの動きをとがめた。そしてページから目を離さぬまま、抑揚をつけて呪文を読み上げ続けた。
「アビル・ザバ……ウル・レイン……リシア・ナ・オルグ・ヴァイアス……来たれ!」
その瞬間。
檻の周囲が、一段と明るくなった。
いや──逆だ。台座の上、空っぽだったはずの檻の中に、影のような“なにか”が、じわじわと湧き上がってきた。
もやのようなものがゆっくりと渦を巻き、形になっていく。黒い影。
「……おい、あれって……」
言葉にした自分の声が、震えていた。
檻の中で、影がピクリと動いた。
なんだ……あれは。
動物か? いや、人間? どっちだ? 檻の中にしゃがみこんでいるその存在は──人の形をしていた。だが、人間じゃない。
フッと、台座の光が消えた。
残ったかがり火の明りに、影の輪郭が浮かび上がった。
まず目に入ったのは、その形だ……手足があり、頭がある。どこか女っぽい。そう、あきらかに女性のフォルムだ。小ぶりな胸、ふっくらした腰つき。お尻のあたりからはしなやかな尻尾が伸び、頭の上には三角の──耳?
そして全身を覆う黒く、艶やかな毛並み。裸ってわけじゃないけど……服も着ていない。そのせいで、人間らしい輪郭がやけにハッキリしていた。
超自然の力でむりやり呼び出されたせいか、ぐったりしていて、それが少し艶めかしく感じられた。
檻の中で、影がむくりと頭を上げた。
ふたつ、ひらりと光る眼──まるで星のように、こちらを睨んでいる。
と、そいつが檻の格子をつかんで、オレたちに向かって──叫んだ!
「──やいやいっ! なんなんだよオメエら! ルーア様になにしようってんだコラ!」
檻の中で、ぐわっと伸び上がった彼女──いや、ルーアと名乗ったその生き物は、檻の格子に前脚──じゃない、腕だ、毛に覆われた腕──をかけて、こっちに牙をむいてきた。
「急に呼び出してんじゃねーつーの! こっちは今からすっげー大事な用事があんだよ!? マジ意味わかんないし、チョーむかつく!!」」
声は……若い。女の子の声。全く神聖感ゼロ。むしろ、なんか……ギャル?
「さっさとここ出せっツーの! 今すぐ帰らせろこのヘッポコ共が!」
……いや、ちょっと待て。今、罵倒されたよな?
使い魔は、もっと神聖で従順な存在じゃなかったっけ?
何よりこのギャルっぽさ、想像の十倍くらい召喚に失敗してないか?
振り返ると、ユンドルと助手が慌てながら書物のページをめくっていた。
(あー、いかにも想定外のトラブルが起きたときの、中間管理職の仕草だよ)
と、ユンドルが咳ばらいをひとつして、何事も無かったふうに言ってのけた。
「これがあなたの使い魔です。契約を結んでください」
「え、マジで?」
「マジです」
即答だった。言い方が軽い。なのに目がちっとも笑っていなかった。
「あの、チェンジとか……できない?」
「できません」
こちらも即答。交渉の余地ゼロ。
「もしも、契約しなかったら?」
「聖なる生き物を呼び出してしまったので、契約せずに放置すれば──八つ裂きにされるか、喰い殺されるか……」
台座からギシギシと金属の軋む音がした。見ると、ルーアが両手で檻の格子を掴んで激しくゆすっていた。目がやばい。完全に殺意。激昂した野生動物の目だ。
「おいこら! なにグダグダやってんだよ! あたしはヒマじゃねーんだっつーの!」
あー、だめだこれ。怒ってる怒ってる。すっごい顔してる。牙まで見えてる。あんな目でにらまれながら契約……なんの罰ゲームだよ。
(……完全に八方ふさがりだ)
「とりあえず、近くで見てみませんか」
やさしげな口調でユンドルが言った。
その言い方がやけに軽いのが、逆に怖い。
でも──しょうがない。ここで断ったら「八つ裂き」コースだ。
オレは石段を一歩ずつ上がった。足音が反響するたびに、心臓の鼓動が跳ねあがった。
そして、檻の直前で足を止めた。
中では、ルーアがしゃがんだままこっちを睨んでいた。うなり声に似た音を喉から鳴らし、そして──
「シャーッ!」
「うわっ!?」
完全に野良猫の戦闘モードじゃん!
「ほら、よく見ると、猫みたいで可愛いじゃないですか」
すぐ後ろからユンドルの声が聞こえた。いや猫より怖いヨ! 牙むいて威嚇してくるあたり、猫型肉食獣のレベルじゃねえか!
振り返って直接文句を言ってやろうと思う間もなく、ユンドルの手がオレの背中をトンと押した。
「って、うわっ──!」
思わず前につんのめった。
うまくバランスが取れず、とっさに両手が前に出た。
その手が、檻の格子をつかんだ──
スパッ。
「ッ痛てっ!!」
ルーアの爪が、鋭くオレの指先を引き裂いていた。
細い赤い線が指の先に走り、ぴゅっと血がにじんだ。
痛みをごまかすために、オレは反射的にその指を口にくわえた。
ひりひりする感覚と、鉄みたいな味。
──その瞬間。
ズズンと、脳みそに何かが落ちてきた。
真っ白な空間。いや、空間じゃない、音も匂いも時間もない、無のような場所で──
なにかが繋がった。
目の奥がチカッと光り、喉の奥が熱くなり、心臓のリズムが、一瞬だけ誰かとシンクロしたような感覚。
同時に、ルーアの瞳がピクリと揺れた。何か見えない感覚にすばやく飛びずさった。
「……な、なんだ今の……」
オレは、指先の痛みなんて忘れていた。
ルーアが目を見開き、口を半開きにしていた。
「……って、え? あんた今、なにした──」
後ろから、ユンドルの声が響いた。
「契約が、成立しました」
呆然と振り返るオレに、神官は肩の力を抜いて微笑んだ。取引に成功した詐欺師の笑いだ。
「使い魔にキズをつけられ、その血をなめたとき、契約は自動的に成立します。おめでとうございます」
「ちょ、ちょっと待って!? それ聞いてないんだけど!?」
「聞かれる前に済んだので、大丈夫です」
文句を言おうとしたオレより早く、ルーアが檻の中で格子をつかんで叫んでいた。
「ちょっと! マジで何なの!? あたしこれから大事な用事があるって言ってんだろ! くだらねーことに付き合っている暇はねーんだよ!!」
暴れまくるルーアを見て、オレはただ固まってた。
……ごめん。呼んだのオレじゃないけどさ……うん、これは悪い気しかしない。
すると、横から神官ユンドルが相変わらずの低姿勢で口を開いた。
「いかがでしょう。ちょっと試してみませんか」
オレは、ユンドルを見つめた。
「契約は成立しました。これで、あなたの言うことには逆らえません」
そう言われても。どうしろってんだよ。
「大丈夫です。なにか、簡単な命令を……」
ルーアはまだ「帰せ!帰せ!」って騒いでいるし。正直、近寄りたくなかった。
なのにユンドルは、ニコニコしながら「どうぞ」とばかりに圧力をかけてきた。
「えーと……じゃあ、オレをキズつけるな」
言った瞬間、ルーアの目が見開かれた。
顔を真っ赤にして、身体を小刻みに震わせた。
「な……なんで……!?」
抵抗しようとしているのがわかった。でも、止まらない。
「わかったよ!キズつけない怪我させない……でも、おめえをぶっ殺す!!」
ぷるぷると震える腕が、じりじりと上がってきた。
「殺すのもダメ」
「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおお!!」
ルーアの動きが固まっていた。
「おめでとうございます。契約は完全に有効です」
ユンドルが静かに言った。
(……これは、違う)
誰かを無理やり動かすって──こんなに気持ち悪いものなのか。
特殊な能力を手に入れたはずなのに、まったく喜べなかった。
「大丈夫ですか?」
がっくりと肩を落としたオレの様子を見て、ユンドルが声をかけてきた。
「……ダメだよ」
思わず、そう口にしていた。
「こんなの違うよ……命令して、従わせて……それって、勇者っぽくない」
オレは、大きく息を吸った。そして、もう一度、ちゃんと彼女の目を見た。
ルーアの瞳が、揺れた気がした。
「この世界を救えって言われたんだけど……でも、オレにはチートスキルもないし、すげぇ武器も持ってない。正直、何もない。だから…………君の力が必要だ……どうか、力を貸してくれ……お願いします」
オレはそっと手を差し出した。
ルーアは、しばらく黙って、じーっと、こっちを見ていた。
そして──
「……なんだよ、面倒くせーな」
ふわっとした手が、オレの手に重なった。
握手だった。
握り返すその瞬間、ふっと肩の力が抜けた。内心の緊張が、ひとつほどけた。
「……ありがとう」
オレがそう言うと──
ぎゅ。
ルーアの手に力がこもった。
「……アタシの頼みも、ちゃんと聞いてくれよ」
「……いいよ。なんだよ?」
「……実は…………子どもが生まれそうなんだ」
「……は?」
「今すぐ……」
時が止まった。
次の瞬間──
「えええええええええええええええええっ!?」
オレと、神官と、助手の声が、神殿中に響き渡った。