5. 伯爵令息セオドアの場合
「お兄様、わたし、温泉に入りたいわ」
妹のアリシアが六歳の頃、トライト伯爵領で暮らしていた時のこと。
地面から蒸気が吹き出し、水たまりはこぼこぽと泡立つ、岩がごろごろ転がった荒野が領地内の山の麓に広がっていると言うと、しつこくしつこく、本当にしつこく、そこに連れていけと言うから、仕方なく騎獣に乗せて連れていったのだ。
そして、その荒野を見るなり、にぱっと笑うと、アリシアはそう言った。
「……なんだって? オンセン?」
セオドアが問い返すと、アリシアは、しまったというように身をすくめてから、さっと指を立てた。
「この間読んだ外国の本に載っていたのよ」
そして、オンセンとやらの説明を始める。その詳しさといったら、その目で見たことがあるとしか思えないものだった。
(いや、ぜんぜん誤魔化せてないよ、妹よ)
セオドアは、なにかに憑かれたように語るアリシアに、内心ため息をつく。
誰も思いつかないようなことを話し出しては、『本に載っていた』と言い訳をしているが、そんなわけがないのは、妹と同じ本を読んで確かめたセオドアにはよくわかっている。
いつもにもまして、紫の瞳を期待に輝かせるアリシアに、そのオンセンとやらを、どうやって実現するかを、セオドアは考え始めた。かわいい妹がこんなに欲しがっているのだ。なんとか実現させてやりたい。
「オンセンを作るとしたら、協力してくれるかい?」
「もちろんよ」
この年齢にして、『水』魔法を使いこなすアリシアが指を軽く振ると、水たまりが見る間に広がっていく。
「あー、アリシア。広げるのは計画してからにしようか」
「わかったわ」
とたんに水たまりの広がりが止まる。
「温泉、楽しみね」
オンセンとやらができるのを疑っていないアリシアに笑みがこぼれる。ただ、名前はオンセンでない別のものを考えないといけないだろう。アリシアを守るためにも。
「アリシア」
「なあに、お兄様?」
「うちではいいけど、外では言葉に気をつけて」
「もちろん、わかっているわ」
まだ小さい頭をなでる。うんうんとうなずいているが、きっと、たぶん、わかっていない。
苦笑してから、この妹のためにもっと力をつけなければならないとの思いをセオドアは強くした。
◇◇◇
下の妹のアリシアはちょっと、いや、だいぶ変わっていた。まだ言葉もほとんど喋れない一歳の頃から、かじりつくようにして本を読んでいた。やっと王国公用語が書けるようになったところだというのに、教えてもいない外国語の本を読み出したときには、とても驚いたものだ。王都の図書館に行きたいと言われたのは、三歳だったか、四歳だったか。
魔法の才能が出現するのも早く、五歳の頃には誰に教えられるでもなく、『水』魔法を使っていた。
魔法は魔術と違い、個別性が高く教えるのが難しい。普通は魔法の源といわれる魔力について、親から実践を通して学び、そこから各自に適性のある魔法を磨いていくものだ。
セオドアが魔力を学んだのが六歳で、適性のあった『水』と『土』をなんとか使えるようになったのは、十歳をこえた頃だ。アリシアがいかに規格外なのかは、それだけでもわかる。
そして、いろいろ規格外な妹は、その時々で思いついたことをセオドアに話してくる。
いわく、下水道と疫病が関係しているだとか。手洗い励行だとか。また、ずっと同じ畑を使っていると収穫高が減るだとか。そのために、補うヒリョウだとか、休耕作物だとか。
荒唐無稽にも思えるその話を、まともに聞くのが、おそらくセオドアしかいなかったからなのだろう。両親でも上の妹にでもなく、セオドアによく話しかけてきた。セオドアにとっては、そのどこからくるかわからないアリシアの話は、いつも興味深いものだった。
その話の中から「これは」と思うものを拾いあげて、さらに詳しい話を根掘り葉掘り聞きとり、現地調査も行って、調査結果と計画書と予算案を作りあげ、トライト伯爵である父に奏上するまでが、いつもの一連の流れだった。
おかげで、トライト伯爵領の収穫高は格段に上がったし、ここ数年は大きな疫病もなく、つつがなく過ごせている。特産品であった果実も発酵させて果実酒となり、離れた地域まで運べるようになった。オンセンとやらは、町として整えられ、貴族御用達の保養地として好評を博している。
それもこれも、アリシアのおかげなのだが、両親や領地の間では、セオドアの功績とされていて、落ち着かない。
アリシアにそう言うと、呆れたような視線が返ってきた。
「わたしの思いつきを、実行できる計画にまで立案できるほうがすごいのよ、お兄様」
そんな貴族の娘らしくない、どちらかといえば天真爛漫であったアリシアの様子が変わったのは、八歳のときだった。
数日、高熱でうなされていたらしいアリシアは、熱が下がっても部屋から出てこなかった。病気が移るといけないと嫡男であるセオドアは、見舞いも許されず、ずいぶんと気をもんだ。
一週間以上も経ってから、ようやく食事の席にあらわれたアリシアは、すっかり様子が変わっていた。こどもらしい様子はなりをひそめ、一気に醒めた大人びた表情を見せる。
「お父様、お願いがあります」
「なんだい?」
「魔術を習いたいのです。どなたか教師をつけていただけませんか?」
ときどきおかしな言動はあるものの、ふつうに愛情を注いでいた末娘のお願いに、父は首を傾げながらも、魔術の家庭教師をアリシアにつけた。
そこからのアリシアの魔術と魔法への傾倒は、常軌を逸したものだった。魔力切れを起こして何度も倒れているのに、回復するとまた何かに追われるようにして魔法を練習する。夜寝るのも忘れて、より効率のよい術式を求めて、魔術を組み上げる。
父と母と上の妹が、何度もいさめ、諭し、事情をたずねても、頑なに「なんでもないの」と言って話そうとしない。母は嘆いているし、父も顔を曇らせている。
見かねて深夜まで灯りのついたアリシアの部屋を訪れた。
「お兄様?」
机にかじりついているアリシアに、運んできた茶器を差し出す。
「根をつめてもいい結果は出ないよ」
「……でも」
「アリシア。わたしになにかできることはあるかい?」
ミルクティ色の髪をなでる。
「……『暁月の塔』に行きたいの」
暁月の塔。それは魔法を探求する学者たちが集う魔法研究の最高峰にあたる機関だ。
「『付与』魔法を使えるようになりたいの」
適性がなければ使えないのが魔法というものだ。だが、アリシアがこう言うということは、可能性があるのだろう。
腕を組んで顎に手を当てる。
「お兄様には迷惑はかけないわ。だから、お願い」
「『暁月の塔』に行けば、アリシアの助けになるかい?」
「たぶん?」
確証がなくても試すことを望むのが、アリシアらしいと思う。
「わかった。父さんに話してみよう」
もう一度、アリシアの頭をなでる。
「だけど覚えておいて。わたしたちは、いつもアリシアを心配しているよ」
「お兄様」
アリシアの小さな手がぎゅっとセオドアの服をつかむ。カタカタとその手が震える。
「アリシア?」
顔を覗きこむと、その顔は完全に色を失っていた。
「……わたし、殺されたくない」
ひゅっと小さく息をつめる。
「それは、誰かがアリシアの命を狙っているってこと?」
「違う、違うの。ただ、怖くて。だって、道を歩いているだけで、事件に巻き込まれるかもしれないでしょう?」
アリシアに付けている護衛から、そんな報告は受けていない。今のアリシアには殺されかける経験などないはずだ。
「それは、君の『誰も知らない』記憶と関係がある?」
「それは」
黙り込む妹の小さい体を抱きしめる。
「大丈夫。君をちゃんと守るから。だから、そんなに怯えなくていい」
すがりつかれている胸が濡れていくのを感じる。妹が泣きつかれるまで、ずっとそうしていた。
「えへへ、泣いちゃった」
泣き腫らした顔のアリシアが照れたように笑う。ひさしぶりの笑顔にほっとした。
「さあ、今日はもう寝なさい」
こくりとうなずくと、ベッドへと潜り込むと、そっと手を差し出してきた。
「眠るまで、そばにいてくれる?」
「もちろん」
手を握ると、嬉しそうに笑って、すとんと眠りに落ちた。いろいろ限界だったのだろう。
「君を傷つけた人間が目の前にいたら、死んだほうがましなほど後悔させてやるのにね」
簡単に殺してなどやらない。生まれたことを後悔して、死にたいとみずから願うほどに苦しめてやるのに。
ここではない、どこかであれば、それも叶わない。
それから、アリシアの生活はあらためられ、魔力切れで倒れることも無くなった。笑顔も見せるようになり、家族みんなでホッとしたものだ。
魔術研究に資金が必要だと、冒険者となり魔獣狩りを始めたときは、またひと騒動だったが。
『暁月の塔』でも、なんだかんだとかわいがられているらしい。たまに出かけていく妹の顔が楽しそうだ。
守護石を完成させて、妹が晴れやかに笑ったのは、彼女が十四歳の時だった。
それをまさか商会に売りこみ、商売にするとは予想もしていなかったけれど。
◇◇◇
「ご無沙汰しています、トライト伯爵」
領地にあるトライト伯爵邸の応接室。白銀色の髪を持った青年が頭を下げる。セオドアは昨年、父から爵位を継いだ。引退した父は母を伴い、しばらく各地を回ってくるといって、旅行に出たまま、まだ戻らない。
彼とここで会うのは、三度目だ。
一度目は、まだ彼がグラント侯爵の次男であったとき。彼は一人でやってきて、アリシアに婚約を申し込んだ。本来、格上からの婚姻申し込みは断れないものだが、彼はグラント侯爵の名を使わなかったので、デビュタント前であることを理由に断った。爵位をもたない侯爵家の次男では、アリシアを守るには足りない。
二度目は、子爵に叙されたとき。数ヶ月にわたる魔獣討伐の末に、掴み取った爵位。それが誰のためなのかは、すぐにわかった。
一度断られたにも関わらず、命がけで爵位を得て、「いくらでも待つから、婚約だけでもさせてほしい」と願った青年に、顔合わせもせず、断りの言葉を告げるのは忍びなかった。
『結婚する気もないのに、待たせるのは申し訳ない』
それがアリシアの言葉で。せめて顔合わせだけでもとすすめたが、「時間の無駄だわ」とアリシアは切って捨てたので、諦めた。
そして、これが三度目。
今度は、アリシアが向き合わざるをえないよう、商会の仕事がらみで縛ってきた。
「アリシアとの婚姻の条件が、商会への融資とはね」
セオドアであれば簡単ではなくともつぶせる条件に、目を細める。
「アリシア嬢には、了承をいただきました」
「そうか。アリシアが納得しているのなら、構わないよ」
セオドアはアリシアの才能を潰すような婚姻をさせる気はない。どんなに爵位があろうと、アリシアの価値がわからないものに、彼女を渡す気などなかった。アリシアの後見人を自認する『暁月の塔』の主座も、それを暗黙の了解としてくれている。
爵位は低いが、英雄といわれるほどの戦闘力と西の辺境伯の後見。魔道具士としての財力。アリシアを守るに相応しいものを青年はきちんとそろえてきた。
そして、今回、王家を動かした、その手腕。
(自分の使い方をよくわかっているということだな)
なんにしろ、アリシアが納得したのなら、それでいい。かわいい妹には、女性としても幸せになってもらいたい。このまま放っておけば、あの妹はいつまでも仕事にかまけて結婚しなかっただろう。
どうしても気に入らなければ、いくらアリシアでも泣きついてきたはずだ。それをしないということは、青年のことが嫌いではないのだろう。自覚があるかは知らないが。
少なくとも、この青年がアリシアに執着し、手放す気がないのはわかっている。
「どうして王命での婚姻を望まなかったんだい?」
今回の支払い差し止めが、王命であることは知っている。なぜ、こんなまわりくどい手を使うのかが、よくわからない。
「そんなものに縛られてほしくはないんですよ。彼女にはおれを選んでほしい」
(アリシアが断れない状況に追い込んでおいて、どの口が言うのか)
「逃がす気はないのに?」
青年はにこりと笑った。それが答えだろう。
「伯爵はおれでよかったんですか?」
「言ったはずだよ。アリシアがそう決めたのならいい。それに君なら、アリシアを大切にしてくれるだろう」
婚姻後もアリシアの自由を保証する婚姻前契約書をながめる。貴族の妻としては、破格の条件だ。ゆっくり内容を確認してから、サインをする。
婚約の誓約書は、すでにアリシアから彼女のサイン入りで受け取っている。それを差し出すと、青年はさらさらと二通ともに署名して一通を渡してきた。
これでアリシアは、グランテル子爵の婚約者だ。
「アリシアは政略結婚だと思っているようだが、君はそれでいいのかい?」
「ここまできて、逃げられたくはないので」
ほがらかな笑みに、ヒヤリと冷たいものが混じる。おそらく青年がその想いを少しでもみせれば、アリシアがその途端、しっぽを巻いて逃げだすのは日を見るよりあきらかだ。
アリシアは若いにも関わらず、色恋沙汰が苦手のようだ。潔癖とも違い、自分には関係ないと思い込んでいるふしがある。
(枯れているというか、なんというか)
「ーーまあ、婚姻後のことは君に任せよう」
妹とはいえ、他者の色恋沙汰に首をつっこむことほど、馬鹿馬鹿しいことはない。アリシアが絆されなければ、また別の縁を探すだけだ。
書類をまとめて、控えていた家令に渡すと、手を振って侍女に指示する。
「庭に茶席を用意させている。よければ、寄っていくといい」
青緑色の目を輝かせて礼をいうと、侍女の後におとなしくついていく青年を見送る。庭で茶をかたむけているアリシアの引き攣った笑顔が見えた気がした。
「『暁月の塔』へ使者を送られますか?」
家令の問いかけに、セオドアはうなずく。
「一応、報告はしておこう。もう耳に入っていらっしゃるだろうが」
がっしりと組まれたアリシア守護包囲網をかいくぐって本丸を射止めたのだ。しばらくは見守っていてもいいだろう。
「彼がアリシアを口説き落とせるかどうか、楽しみだな」
含み笑いとともにもらされたセオドアの呟きに、できる家令は無言を保った。
以下、設定です。興味のある方はどうぞ。
◾️トライト伯爵領◾️
王都から一週間ほどかかる田舎。力のない田舎貴族と思われていたが、セオドアが領政に助言するようになり、飛躍的に経済状況が向上。温泉も貴族の保養地として発展し、周囲に一目置かれるようになってきている。