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2. 侍女ラウラの場合

「おはようございます、奥様。もう起きられますか?」


 ラウラの声に、新しい主となった元伯爵令嬢アリシア様が、一人寝のベッドからゆっくりと起き上がる。さんさんと降り注ぐ日差しに、眩しそうに紫の瞳を細めると、彼女は目元を指でこすった。そのどこか幼い仕草に、ふと笑みがこぼれる。


「ええ、起きるわ」

 まだ気だるそうではあるものの、しっかりとした返答に寝起きの一杯を差し出す。

「ありがとう」

 律儀に謝意を示しながら受け取るアリシア様を、こっそりと注意深く観察する。どこかを痛がる様子はない。医者を呼ぶ必要はなさそうだ。首筋やデコルテには、いくつかの鬱血痕が残っている。あとで塗り薬を手配しておこう。

「今日こそは商会に顔を出さないと」

 ベッドで座ったまま、ぐっとこぶしを握りしめる様子に、また笑みがこぼれたが、今度は生温い笑みになったのは仕方がない。


 昨日の騒動については、思い出すのも馬鹿馬鹿しい。

 初夜から三日。レイフ様とアリシア様のお二人は、夫婦の寝室から出てこなかった。飲み物や軽食を定期的に差し入れてはいたものの、三日目の昼を過ぎても姿を現さないレイフ様に、侍女頭である母がキレた。

 夫婦の寝室に突入すると、ベッドからレイフ様を引きずり出して浴室においやり、気絶したように眠るアリシア様を起こさないよう細心の注意をはらって、体を拭き清め、シーツを交換し、浴室から出てきたレイフ様に寝室への立ち入り禁止を申し渡した。


 立ち入り禁止を聞いてレイフ様は、誰かを殺してきたかのような冷気を放っていたが、元宮廷官女であり、彼の乳母であった母には逆らえなかったのか、しぶしぶと執務室へと移動していた。

 母がドスの効いた声と氷点下な表情で、『奥様を殺すおもつもりですか?』と告げたのも、効いたに違いない。溺愛のあまりの衰弱死なんて、笑えない。


 その後、陽もとっぷり暮れてから、ようやく目を覚ましたアリシア様を浴室で洗い上げて、肌触りのよい寝巻きを着せると、まだ夢うつつなアリシア様を自身の部屋に誘導し、ベッドに寝かせつけたのが昨夜。

 そろそろまともな食事をさせないと危ないとの判断で、少し遅めの朝にアリシア様を起こしたところだ。


 この屋敷でいちばん日当たりがよく、庭の眺めもよい部屋を、アリシア様がゆっくりと見渡す。最初にこの部屋に入られたときはもう陽が落ちていたので、明るい時間にこの部屋を見るのは初めてのはずだ。

 白とグリーンに彩られた部屋に、落ち着いたダークブラウンの最高級家具がアクセントを添えている。レイフ様がみずから差配した部屋は、温かみのある居心地のよさが感じられる。

 ちなみに、並びにあるご家族専用の居間は、寝室のこちらより少し明るいトーンであつらえられていた。


 見慣れないのか、数回ぱちぱちと瞬きしてから、最後にラウラに目を止め、こてりと首をかしげる姿が可愛らしい。

「ええと……」

「申し遅れました。奥様の専属侍女になりましたラウラと申します」

 初夜がすむまでは慣例によりご実家の伯爵家の侍女たちが世話をしていたので、顔を合わせるのは、これが初めてだ。


「ああ、あなたが。話には聞いていたの。侍女頭の娘さんなんですってね。これから迷惑をおかけすると思うけど、よろしくお願いするわ」


 にこりと笑って言われた言葉に、「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と頭を下げた。

 使用人相手にも丁寧な態度に好感がもてる。


「朝食はどうなさいますか。こちらにご用意することも可能ですが」

 ラウラの問いに、アリシア様は首を横にふられる。

「食堂まで行くわ。今日は出かけたいの。出かけること、レイフに話さなきゃいけないしね」

 レイフ様を呼び捨てにした驚きを内心に押し隠し、軽く頭を下げる。

「その必要はないかと」

「ええ? でも、勝手に出かけるわけにもいかないでしょう?」

「旦那様には、奥様の要望はなんであれ、最優先で叶えるようにと、申し付けられております。事前の報告は不要と」


 アリシア様の表情が、かちんと凍る。


「……へええ? それはぜひとも朝食をご一緒して、お話をしないとね?」


(あああ、なんだか、ずいぶん怒っていらっしゃる?)


 ラウラは胸の中でおののく。

 身支度中に鏡の中に鬱血痕を見つけ、声のない悲鳴をあげたアリシア様は、さらにレイフ様に怒りを募らせていた。



 ◇◇◇



「おはよう、アリシア。よく眠れた? 体調はどう?」


 アリシア様の顔を見るなり、心配そうな顔で、レイフ様がいそいそと近寄ってくる。アリシア様のミルクティ色の髪を優しく撫で、そのこめかみにキスを落とす。


(いや、おまえ、誰!?)


 砂を吐きそうな甘い行為に、食堂にいた使用人一同の心の声が一致したのをラウラは感じた。

 レイフ・グランテル子爵といえば、その苛烈さと冷徹さで知られた若き英雄。魔獣討伐で多大な功績をあげ、侯爵家の次男としてではなく、自身の力だけで陞爵された実力者。

 王国随一の全属性魔法使い。

 さらに魔道具士であり、さまざまな魔道具を考案し、特許をいくつも取得している。

 爵位は低いものの、王家ですらその意をはばかると、まことしやかに噂されている。


 その実力を知らず、表面上の柔和な態度に騙され、レイフ様に笑顔のまま、切って捨てられたものは数知れず。物理的に切られることはめったにないが、精神的にざくざく切り裂かれているのを見るのは、もはや、ありふれた光景だ。レイフ様に徹底的にやり込められ、社交界に出てこられないものもいると聞く。

 敵どころか、味方からすらも血も涙もないと怖れられるレイフ様が。

 

 アリシア様の手を引いて席まで誘導。自分の膝に座らせようとして、アリシア様に冷たく微笑まれ断念。みずから椅子をひき自分の隣にすわらせると、アリシア様の顔を眺めながら、にこにこと満面の笑みを浮かべている。


(ほんとに、おまえ、誰だよ!?)


 驚愕におちいる周囲に気づかず、レイフ様の溺愛をまったく動じることなく受け流しているアリシア様がさらりと告げた。


「レイフ、話があるわ」

「ん? なに? なんでも聞くよ?」

「わたしの行動に事前報告はいらないって、ほんとう?」

「ああ。アリシアには自由に過ごしてほしいからね」


 アリシア様に何があっても対処できる自信があるがゆえの放任。本人にすら気づかれないよう隠れて護衛のできる手練が、嫁いでくる前から、すでに何人もつけられている。

 ご実家の伯爵家にも侍女を送り込み、アリシア様の日々の予定すら把握している過保護ぶりに、使用人一同、呆れ返ったものだ。

 それなのに、それなのに。


「じゃあ、わたし、愛人つくるわよ?」


(どうして、三日間片時も離さず、抱き潰されたあとの発言がそれなんですか、奥様!?)


 声にならない絶叫が、食堂を席巻する。

 レイフ様は、笑顔のまま固まり、やがて、こてりと首を傾げた。


「殺すよ?」

「わたしを? 愛人を?」


(いやいやいや、奥様、そこは、怯えるところでしょ!? さらっと問い返すところじゃないから!)


 ラウラの心の声は届かず、会話はつづく。


「愛人に決まってる。アリシアの前で少しずつ削いで殺してあげるよ。それで、アリシアは監禁だね。この屋敷から一歩も出さない」


 完全にだめで、ありえない発言をされているにも関わらず、アリシア様はただ肩を軽くすくめた。

「それは遠慮するわ」


(……いま遠慮したのは監禁であって、殺人ではないですよね、奥様……?)


 始まってすらいない朝食の席で、物騒な会話をつづけるご夫妻に、ラウラの肝が冷えた。背中に冷たい汗がつたう気配がする。女性の使用人たちは、あまりの怖ろしさに、部屋の隅で身を寄せあっている。侍従がラウラに必死に視線を送ってくるものの。


(これ、どうしろと……?)


 ラウラは頭を抱えたくなった。侍女の矜持として、態度に出してはいないが。主人の話に割り込むことは侍女としてありえないし、話題が物騒すぎて関わるのも嫌だ。

 怖れ慄く使用人たちの恐慌を意に介さず、笑顔は変わらないまま、それでもどこか憮然とした雰囲気を漂わせて、レイフ様は頬杖をついた。


「それで、アリシアはなにを怒っているの? おれはなにを間違えた?」


「わたしは会話のできない愛玩動物じゃないのよ?」


 真顔できっぱりと告げるアリシア様に、レイフ様が面白いことを聞いたと言わんばかりに口元を歪ませる。


「……金も行動もご自由にって言ったら、喜んでもらえると思ったんだけど」

「少なくとも、わたしは嬉しくないわね」


 嫁するまでは父に従い、嫁したあとは夫に従うのが、貴族として生まれた娘の務めだ。家門のために、最大限、利用されるための所有物。アリシア様のご実家であるトライト伯爵家もあからさまではないものの、王家も一目置くグランテル子爵家とのつながりを考えなかったわけではないだろう。

 所詮、家の所有物でしかない夫人に、最大限の自由を与える。事前の報告も相談もいらない。貴族家の夫としては、破格で最上の配慮といえるだろうに。


(奥様は、なにがご不満なの……?)


 ラウラは首をひねった。

 レイフ様のアリシア様への溺愛ぶりは、すでに、いやというほど思い知っている。以前のレイフ様を知っている身としては、中身が別の人間と入れ替わっているのかと疑うほどだ。

 二回も求婚を断られているにも関わらず、搦め手で完全に攻め落とし、真綿に包むようにして囲い込んだ。レイフ様が、望みに望んで、ようやく手に入れた最愛だ。


「あなたは、わたしが、あなたより下だと思っている。手のひらで転がせると思っている。あなたがわたしの自由を保障してくれなくたって、わたしはいつだって自由だわ。わたしは、あなたのモノではないの」


 アリシア様の紫の瞳が、怒りできらきらと輝く。ヒトを平気で殺すと口にする夫に、臆することなく言葉をたたきつける。


「カゴの中だと知っているから、どれだけさえずろうと気にしない。あなたが言っているのは、そういうことよ。わたしは、鳥籠の中でピーチク鳴いている小鳥ではないの」


 貴族家の夫人としててはなく。ひとりの人間としての矜持を侵そうするものへの怒りをあらわすアリシア様に、ラウラは目を見開く。凛と告げる姿が眩しい。

 レイフ様は青緑の瞳を驚きに揺らしたあと、へにょりと顔を崩す。


「わかった。おれが悪かった。謝るから許して、アリシア?」


(旦那様が謝ったーーー!?)

 愕然とする使用人一同に構わず、アリシア様はつづける。


「わたしをちゃんとパートナーとして扱って。報告、連絡、相談は大事なの。わたしは相談したいし、あなたからも相談してほしい。大事なことは二人で決めたいわ」

「わかった」

 レイフ様は、アリシア様のミルクティ色の髪を一房ひきよせると口付けた。

「誓うよ」

 真摯に告げられた言葉に、アリシア様が破顔した。いままでの緊迫した雰囲気がふわりとほどける。

「反省した?」

「すっごく」

「なら、いいわ。この話はおしまい」

 今度はアリシア様の手をひきよせると、レイフ様はその手のひらに唇を落とした。男性が女性に愛を請う仕草だ。


「おれをどれだけ堕としたら、気がすむの。愛してるよ、アリシア。ーーーキスしていい?」


 レイフ様はご実家である侯爵家の名にふさわしい整った容貌をされている。そのレイフ様にとんでもなく甘い声でささやかれたというのに、アリシア様はあっさりとなんでもないようにつづけた。


「あ、それも言おうと思ってたの」

「それ?」

「口づけの痕よ。見えるところに付けるのは、やめてほしいんだけど。着れる服が限られちゃうでしょう?」


 今朝は、首筋の痕が見えないようにハイネックカラーのドレスを選ばせていただいている。その首筋をほっそりとした指先でさすと、首をかしげるアリシア様。レイフ様に愛を請われたというのに、まったく意に介していない。

 とうとう、とりつくろうことをやめ、完全に憮然とした表情で、レイフ様は不機嫌そうに目を細めた。


「……他の男にアリシアの首元を、さらしたくないんだけど」

「それじゃ、夜会服が着れないじゃない」

「だから、アリシアが他の男の目にふれる夜会になんて行きたくないんだけど?」


(それ、ご自身も参加する気がありませんよね、旦那様……)


 レイフ様の社交嫌いは以前からだが、拍車がかかっている。アリシア様を独占したい気持ちがあふれすぎてて、目も当てられない。


「夜会は商品を売り込む絶好の場よ? 商売の邪魔をしたら、怒るから。また、喧嘩したいの?」


 夫の溺愛のあまりのわがままを軽くいなすアリシア様に、レイフ様の頭ががっくり落ちる。ここまでレイフ様が勝ちを譲るところを、ラウラは見たことがない。

 つかんだままのアリシア様の手をそっと、でも逃さないとばかりに握ってひきよせると、近づいたアリシア様の顔を下から見上げるようにレイフ様がのぞきこむ。


「わかった。じゃあ、見えないところに付けるのはいいんだよね。ーーー奥さん?」


 アリシア様の顔が赤く染まる。


(ーーー赤くなるタイミングが遅すぎだと思います、奥様……)


 ラウラの切実な心の声は、ご主人様たちには届かない。

 我慢の効かなくなったレイフ様が夫婦の寝室にアリシア様を連れ込もうとするのを、ようやく駆けつけた母が叱りつけたのは、しかたがないことだったと思う。

 いまのアリシア様には、きちんとした食事が必要だ。今後のことを考えると、できるときに栄養をつけさせねばならない。


 なぜレイフ様が、令嬢としては評判のよろしくなかったアリシア様を選んだのか。

 執着ともいえる愛情を注ぐのか。


(……お互い妙なところの価値観が一致しているというか、余人には理解できない感覚を共有しているというか……)


 理解したくなかったと思いつつ、不思議な相性の良さを思い知ってしまったラウラは、この二人に付き合っていく多難さを思って、痛む頭をそっと押さえた。

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