14. 前世持ちアリシアと闇堕ちレイフの場合(4)
「国から出ていくって、どういうこと?」
「いや、だから、いろいろ見てみたいかなーって」
「おれから逃げるつもり? そんなことをおれが許すとでも?」
目の前の光景にアリシアは自分の目を疑った。
いま聞いた言葉を信じたくない。
レイフが片手を壁について、壁際に追い詰めたマヒロをねめつけていた。
「閉じ込められたい? それとも『誓約』魔法で縛ろうか?」
「じ、人権侵害はよくないと思うよ?」
レイフは鼻でハッと馬鹿にしたように笑う。
監禁は確かによくないが、それだけ彼がマヒロに執着しているのは、明らかだった。
グランテル子爵邸で、彼が何度かマヒロの部屋に一人で入っていくのを見かけた。研究のためだと必死に言い聞かせてきたけれど、もうごまかすことはできなかった。
抱えていた本が手をすり抜け、落ちた音が響く。
その音にはじかれたようにレイフが振り返る。マヒロも驚いたように目を見開いていた。
「アリシア?」
彼が自分を呼ぶ声に、びくりと身をすくませる。いま、自分はどんな顔をしているのだろう。表情をとりつくろう余裕なんてなかった。
「アリシア? 大丈夫?」
こちらに慌てて駆け寄ってきたレイフが、頬に手をのばしてくる。ぴしりと音がして、彼の手を弾き飛ばした。
守護石が反応したのだ。害意に自動で反応するだけでなく、持ち主の触れられたくない意思にも反応して、力を発揮する。
弾かれたことに、レイフは呆然としている。
アリシアの守護石が、レイフを弾いたことは、いままで一度もなかった。
彼がアリシアを害することは一度もなかったから。彼のことを信頼しているせいだと思っていたけれど。
その手でふれられることが嫌ではなかったのだと、アリシアは初めて気づいた。
「アリシア?」
今度はふれないようにして、レイフは慎重に近づいてくる。
自分が拒否をしたからだというのに、そのふれられない距離が悲しい。
どうして、自分にはただ殺されるだけの記憶しかないのだろう。前世の記憶がもっとあれば、ずっとレイフと一緒にいられたかもしれないのに。彼の執着の先が、もう自分ではないことに、泣きたくなる。
こんなに手遅れで、どうしようもなくなってから、アリシアは気づく。いつの間にか、レイフを好きになってしまっていたことに。
マヒロさえいなければ、と思う醜い自分をレイフには知られたくない。
レイフからじりっと身を遠ざける。
落とした本を拾うこともなく、アリシアはレイフの前から逃げ出した。
◇◇◇
サンルームに設えられた茶席は、ぽかぽかとして暖かい。
レイフとマヒロのやり取りを聞いて逃げだしてから、アリシアは自分に与えられた客間に閉じこもった。侍女も追い出して、部屋にひとりきりになると、ベッドに膝を抱えてすわりこむ。
何度もレイフや兄の声が部屋の外から聞こえていたけれど、一度も応えなかった。予定されていた夕食会にも顔を出さなかった。完全に礼を失しているのはわかっているのに、どうしてもレイフの顔を見る勇気が出なかった。
一睡もできないまま開けた夜。朝食もとうに過ぎた時間に、ノックの音が響いた。
「アリシアさん、出てきてちょうだい。そろそろ扉を壊そうとするレイフさんをおさえるのも限界なの」
クラリスの言葉にぎょっとして、ベッドを降り、あわてて扉を開ける。実家とはいえ、すでに兄のものとなった家を破壊するのは、さすがにまずい。
「お腹も空いているでしょう? わたくしとお茶をしましょうか」
すっかり泣き腫らしているだろうアリシアの顔にはふれず、クラリスは微笑む。
「あの、レイフは……」
「あなたが落ち着くまで顔を見せないよう言ってあるわ。セオドア様にもご遠慮いただいたの。『女子会』しましょう?」
そして、さっと現れたクラリスの侍女に温かい布で顔を拭われ、簡単に化粧しなおされ、ドレスも整えられて連れてこられたのが、このサンルームだった。
お茶と手にとって食べられるような軽食が手際よく並べられる。
「まずは、お茶をどうぞ」
「……ありがとうございます」
一口飲んだお茶は、すっきりとした飲み口で、苦味もなく美味しかった。昨夜から水すら口にしていなかったので、体に染み渡る気がする。
「おいしい」
「それはよかったわ。食べても大丈夫そうなら、遠慮なくいただいてね」
アリシアは、小さく切られたサンドイッチをかじる。アリシアの好きな燻製肉がはさんである。懐かしい実家の味だ。
その様子をゆったりと微笑んだまま見ていたクラリスは、そろそろ大丈夫だと判断したのか口を開いた。
「それじゃあ、なにがあったか教えてくれる? レイフさんとマヒロから話は聞いたのだけれど、アリシアさんからもきちんと聞きたいわ」
これだけの騒ぎになってしまったのだ。トライト伯爵家の家政を預かる夫人として、クラリスには事情を把握する義務と権利がある。
ぽつり、ぼつりとアリシアは、マヒロが子爵家に来てからのことと、昨日のレイフとマヒロのやりとりを話す。
レイフが求めているのは、違う世界を証明できる何かであって、それがアリシアである必要はない。マヒロはアリシアよりも多くの記憶を持ち、以前の世界の物もたくさん持っている。だから、彼がマヒロに執着しても、なにもおかしいことはないのだ。
そういったことを、クラリスに伝えた。
「お話はわかったわ。それで、アリシアさんはどうしたいかしら?」
レイフの手を離すのが正しいとわかっている。
なのに、あの温もりを失う決心がつかない。もうおまえはいらないと言われたら、泣かないでいられる自信がない。そんなことは、かけらも意味がなく、無駄だとわかっているのに。興味のない人間への彼の冷たさは、身近に見て知っている。
なにより、彼の幸せを笑って願えない自分が嫌いだ。
「……わたしは彼の意向にそいます」
「あら、そう。離婚したら、トライト家に戻ってきなさいな。子供たちも喜ぶし」
義姉たちにはすで息子が二人生まれている。実家にいた頃は、甥たちはアリシアによく懐いてくれていた。
「やめてください。離婚なんてするはずないでしょう? やっと手に入れた最愛なのに」
戸口から聞こえた馴染み深い声に、アリシアは慌てて振り返る。
「レイフ」
彼も寝ていないのか、憔悴した様子だった。
「ごめん、アリシア。君を怖がらせるつもりじゃなかったんだ」
「怖がる……?」
「おれが閉じ込めるとか、魔法で縛るとか言ったから、怖くなったんだよね? もちろん、アリシアにそんなことしないから」
「待って。そこじゃない」
アリシアが衝撃を受けたのは、間違いなく、そこではない。
「違うの?」とレイフが首をかしげる。
「違うわ。わたしは、あなたがわたしよりクロサキさんがいいんだと思って」
「そんなわけ、ないでしょ」
「だって! だって、証拠よ? あなたがあれほどに求めていた、別の世界が存在する証拠」
レイフは、ますます困惑した表情を浮かべた。
「別の世界が存在することは、アリシアが証明してくれたじゃないか。それ以上、なんの証拠がいるの?」
「だって、クロサキさんは、スマートフォンを持ってて、制服だって着て。あっちの世界の記憶だって、たくさんあって」
「それが?」
それになんの意味があるのかわからないと、はっきり態度で示すレイフを、アリシアは呆然と見つめた。
「あれはただの研究対象だけど。どうしても完成させたい術式があって。それに必要だから、近くに置いておきたかっただけで」
「研究、の、ため……?」
「初めから、そう言ったはずだけど」
言った。言ってた。
なんなら、本人に宣言していた。
でも、それは。
「……彼女がいいと思ったわけじゃなくて?」
「え? 研究対象として逃したくはないけど、アリシアがそういうことが嫌ならやめるよ?」
そういうこととは、おそらく、監禁とか魔法で縛るとかのことだろう。
当然のように言い切るレイフに、アリシアも困惑する。だから、アリシアが気にしているのは、そこじゃない。
ここまで静かに二人のやりとりを聞いていたクラリスが、小さく息をついた。
「あなたたち、見事に話がすれ違っているわよ」
どうしたものかしらね、と嫋やかに頬に手を当ててから、クラリスは戸口に立つレイフを振り返る。
「レイフさん、マヒロのことはどう思っているの?」
「実験動物」
「アリシアさんのことは?」
「世界一かわいい生き物」
「それを明確に言葉にしないのは、どうしてかしら」
「自明すぎて言葉にする必要があるとは思えない」
その言い草に、アリシアは頬がひきつるのを感じた。なんだろう。この残念な感じは。いろいろぶっちゃけすぎてて、素直に受け取れる気がしない。
クラリスはアリシアに向き直る。いくぶん、その表情には呆れがふくまれていた。
「だそうよ、アリシアさん。ーーそもそも、原因と結果が逆だと気づいているかしら」
「逆?」
「レイフさんは、あなたが妻だから大事にしているのではないのよ? あなたが大事で側にいてほしいから、妻にしたのでしょう? 違うかしら?」
クラリスの言葉がゆっくりと頭と心に沁みてくる。
大事にされているのは、ずっと感じていた。出会ってから、レイフはいつだってアリシアの意志を尊重してくれている。結婚してからはそれに甘い言葉と態度が追加されて、ときどき恥ずかしくなるくらいだったけれど。それは、妻だからではないのだとしたら。
ここまで懇切丁寧に説明されれば、アリシアにも想像できることがある。
「……レイフは、わたしのことが好きなの……?」
「好きだけど」
直球で返った言葉に、アリシアの顔が真っ赤に染まる。
つかつかと歩いてきたレイフが、アリシアの座った椅子に正面から両手をつくと、上からアリシアをのぞきこんだ。彼の青緑色の瞳から光が消えている。
「あれだけ、愛してるって口にしてるのに、今さら、そんなこと聞くの? へえ? おれのこと、そんなに信用してくれてないんだ? それとも、ここは伝わってよかったって喜ぶべき?」
「いえ、待って。あの、違う」
「なにが違うの?」
視線を泳がせるアリシアを両腕で閉じ込めるようにしたまま、レイフはクラリスに顔だけで振り向いた。
「義姉さん、アリシア、連れていっていいですか? おれが、どれだけ、アリシアを好きで、愛しているか、思い知らせないと」
クラリスは、にっこりといい笑顔で微笑む。
「ずっとアリシアさんの部屋の前にいて、あなたの部屋は冷え切ったままでしょう? わたくしが下がるわ。ここを使いなさいな」
「ご配慮に感謝します」
「大事な時期ですからね。あまり、アリシアさんの負担にならないように」
「肝に銘じます」
クラリスはひとつうなずくと、侍女を連れてサンルームを出て行った。
顔を赤く染めて必死にレイフの視線からのがれようとするアリシアを、レイフは鋭い瞳で追いつめる。
「さっきの話からすると、アリシアはおれとクロサキの仲を疑っていたということで、いいんだよね?」
黙したまま答えないアリシアに、レイフは目を細めて笑みをこぼした。愛おしいものを見る表情に、アリシアは一瞬で目を奪われる。
「……どうして、笑ってるの」
「嫉妬してもらえたのが嬉しくて」
「アリシア、抱きしめてもいい?」
耳元でささやく声にアリシアがこくんと頷くと、いつもの温かい腕が痛いくらいにアリシアを抱き寄せた。
「ごめん。そんなに不安にさせてるなんて思いもしなかった」
アリシアはレイフの腕の中で、首を横にふる。彼が謝る必要なんてない。アリシアが勝手に勘違いしただけだ。
醜い嫉妬をするなと怒られても仕方ないのに、彼は自分が悪いと言う。
「アリシアがなにを考えているのか、ちゃんと教えて?」
髪をなでるやさしい手に勇気づけられて、アリシアはようやく言葉を絞り出す。
「あなたがわたしを選んだのは、わたしだけがあなたの記憶を理解できるからだと思っていたの」
「……おれの言い方が悪かったか。君に救われたのは確かだけど、それでアリシアを好きになったわけじゃないよ」
アリシアは、レイフの腕をぎゅっと掴んだ。
「どうして、わたしを好きになったのか、聞いてもいい?」
「アリシアが望むなら、いくらでも。でも、あんまり話すことはないなあ。初めて会ったときに、かわいいと思って。それ以降も、やること、なすこと、もう全部がかわいすぎて、そのたびに息が止まったよ。死ぬかと思った」
「そんなことで死なないわよ」
「死ぬよ。死ぬ。おれは、アリシアがいなかったら、生きていない」
それがこの世の摂理だというように、レイフがきっぱり言い切る。そういえば、火竜討伐のときも、アリシアが死んだら、首をかききるとか物騒なことを言っていた気がする。
アリシアは、今は青緑色に光る彼の瞳をじっと見上げた。
死なないで。いなくならないで。
ずっと側にいてほしい。
アリシアの胸にわきあがったのは、そんな想いばかりだ。胸がかきむしられるような痛みを伴った、苦しいほどの強い想い。
そんなふうに想うのは、きっとあなたにだけだ。
「好き」
「アリシア?」
「あなたが、好きなの」
「うん。知ってる」
「……わたし、言ったこと、ないわよ?」
「アリシアは、好きでもない男に抱かれたりしないでしょ?」
アリシアの全身が朱に染まった。
「だから、どうしてそう、あからさまなの!?」
「言葉にしないと伝わらないじゃないか。正直、初夜で絶対なぐりとばされると思ってたし。でも、キスをねだってくれて、かわいくてほんと死ぬかと思った」
レイフはやわらかく、それでも逃がさない強さでアリシアを抱きしめると、アリシアの髪に口付けを落とした。
「不安なときは、体擦り寄せてくれるし。無自覚なのもかわいいけど、自覚してくれたのなら、手加減しなくていいよね?」
いや、そこは、ほどほどでお願いしたい。
心の底から、アリシアはそう思う。
今までは、義務でしていると思っていたから平気で流していたけれど、あれが好意でなされたことだと自覚したら、心臓がもたない気がする。
「アリシア」
蕩けるような甘い声で、レイフがアリシアの名前を呼ぶ。
頬に手をあてられて、上を向かされる。
重なった唇に、息を奪われた。
「ンっ……」
うまく息を継げないアリシアが、レイフの胸をとんとたたいた。
ようやく離れたレイフの唇は、今度はアリシアの首筋をたどりはじめるが、すぐにはっとしたように、慌ててレイフは身を起こした。
「〜〜ごめん!」
「どうして止めるの?」
「ちょっと事情があって」
「レイフ?」
低く硬くなったアリシアの声と表情に、レイフは困ったように笑みを落とす。
困らせているのが自分だという事実に、アリシアは俯いた。
「……クロサキさんが来てから、抱くのをやめたでしょう?」
「え?」
「一緒に寝ても、ふれてくれないし」
ずっと心のなかでわだかまっていた言葉がこぼれ落ちる。責めるような言葉は、自分も相手も傷つけるとわかっているのに、我慢できなかった。
醜い言葉をぶつけているというのに、レイフは楽しそうに笑ってから、少し意地の悪い顔になった。
「アリシア? その言い方は、おれにふれてほしいって言ってるって解釈するけど?」
「ふれてほしいわ。あなたが好きだもの」
「……うわあ。どうして君はそう、潔いのかな。自覚したとたん、破壊力強すぎでしょ」
口元を片手でおおって、レイフは視線をそらす。その横顔から見える耳まで赤くなっていた。
「レイフ?」
「だって、あのまましてたら、抱くのを我慢できなくなるじゃないか」
「我慢してるの? どうして?」
「あー」
レイフは、アリシアの足元にひざまずく。伸ばされたレイフの手が、アリシアの腹をやさしくなでた。
「ここに、アリシアの子がいるから、かな」
「え? 子ども? ーー赤ちゃん?」
「そう。『治癒』魔法をかけたときに、アリシアのじゃない魔力が君の中にあるのに気づいたんだ。だから、しばらくお預け」
『治癒』魔法をかけたときとは、マヒロに会ってすぐのことだろう。あのときに妊娠に気づいたんだとしたら、マヒロの出現と重なったのは、偶然としかいいようがない。
これまた自分の勘違いだったようで、アリシアは気になったことは今後、素直にレイフに尋ねようと、ひそかに決心した。
まだ、ぺったんこで少しも膨らんでいない自分の腹に、アリシアは目を落とす。
自分のお腹に新しい命があるとは信じられない。
やさしくなでるレイフの手がくすぐったい。
「どうして、教えてくれなかったの?」
「君が喜んでくれるか、わからなかったから」
「ーーばかね。嬉しいに決まってるでしょう。レイフは? 嬉しい?」
「うん、すごく嬉しい。でも、心配だよ。お産は命がけだっていうし」
以前暮らしていただろう日本でも、出産で命を落とす人がいた。医学の発達していないこの世界なら、さらに危険度は上だろう。
それでも産まないという選択肢はありえない。
レイフの手を上から押さえて、一緒にお腹にふれる。
「ふふ、楽しみね」
「あーあ、すっかり母親の顔だね。もう少し、おれだけのアリシアでいてほしかったのに」
「わたしはちゃんとここにいるでしょう? ーー大好きよ、レイフ」
レイフは、はにかんで嬉しそうに笑う。初めて見るその表情に、アリシアは胸をつかれた。
愛しい気持ちがあふれて、レイフの背に手を回してぎゅっと抱きつく。抱き返してくれる腕がレイフのものであることが、涙が出そうなほどに幸せだ。
「アリシア、左手、出して?」
いつまでも離したくない気持ちをふりきって、レイフが告げる。少しだけ身を離すと、不思議そうに顔を傾けながらも、アリシアは素直に左手を差し出した。
その薬指に、レイフは懐から取り出した指輪をはめる。
「遅くなって、ごめん。やっと出来上がったんだ」
青緑色の宝石が平らにはめこまれたシンプルな銀色の指輪だ。
「……変彩金緑石」
「おれのはこっちね。はめてくれる?」
差し出されたのは、同じデザインながら、地の色は茶色味を帯びたやわらかな金色。宝石は深い色合いの紫水晶だ。
アリシアは、レイフの左手をとって薬指にはめる。
そのまま、手をとられ、指をからめて握りしめられた。レイフの額が、アリシアの額にこつんとふれる。
この世界では、婚姻の時に指輪の交換をする習慣はない。それでも、レイフとしてはどうしても、婚姻の印として指輪を贈りたかったのだと、アリシアにささやく。
「……死が二人を分つまで」
前世でよく知られた婚姻の誓約が、アリシアの口からこぼれ落ちた。レイフは、目を細めて微笑む。
「死がふたりを分つまで? ばか言わないで。こうして記憶の連続性が証明されているのに。死んだ後だって、おれはアリシアを愛してるよ。次の生でも必ず、君を見つけるから」
しびれるような感覚が、アリシアの背をぞくりと駆け上がる。
アリシアは、日本での記憶がほとんどない。日本でのことは知識に近いもので、個人的な感情は、殺された時のものしか覚えていないのだ。
だから、レイフのいう連続性が保証されていないことは、アリシアが誰よりも知っている。レイフにだってわかっているだろう。
それでも。そう断言してでも、死の次を望んでくれる気持ちが嬉しくてたまらない。
その執着を手放したくないと思うなんて、終わっている。
目の前にある変彩金緑石の瞳を見つめる。アリシアを見返して嬉しそうに細められるその瞳が、愛しいと心の底から思える。
その頬にそっと手をのばすと、アリシアは初めて自分から唇を重ねた。
◇◇◇
指をからめて手を繋いだまま、家族の居間に入ってきたアリシアとレイフに、クラリスは目を細めた。
「よかったわ。仲直りできたのね」
兄のセオドアも、どこかほっとした表情を浮かべていた。
「ご迷惑をおかけしました」
「お兄様も、お姉様も、ごめんなさい」
謝罪するアリシアの頭に、わざわざ立って近寄ってきたセオドアの手が乗せられる。そのままミルクティ色の髪をやさしくなでる。
レイフの眉が不機嫌そうに寄ったが、口に出してはなにも言わなかった。
「体調は大丈夫なのかい?」
「いたって元気よ。心配してくれて、ありがとう」
セオドアの問いに、アリシアは微笑む。切れ者と噂される十歳違いの兄は、アリシアには甘い。
レイフとアリシアの二人は、勧められて長椅子に並んで腰かける。昨日寝ていないせいか、体が疲労で重たい。
クラリスは、目敏く気づいたようだ。
「よかったら、夕食まで二人で休んでらっしゃい。とくにアリシアさんは、大事な時期ですからね。無理してはだめよ」
サンルームから去るときも同じような言葉で、レイフに釘を刺していた。
「お姉様は、いつから気づいていらっしゃったんですか? その、妊娠のこと」
クラリスから聞いていたのか、セオドアも驚いた様子はない。知らぬは本人ばかりの状態だったようだ。
「確信したのは、夜会のときね。レイフさんがあなたに酒精をとらせないようにしているし、体を冷やさないようにも気を配っていたから。あなたが転ばないように、一瞬だって側を離れなかったでしょう?」
アリシアは隣のレイフを無言で見つめる。レイフはしれっと言葉を紡ぐ。
「クロサキから妊娠時の注意事項をいろいろ聞いてね。紅茶もよくないっていうから、お茶も変えたんだ。気に入ってもらえて、よかったよ」
「教えてくれてたら、ちゃんと自分でも気をつけたのに。大事なことをわたしに隠すのはやめてほしいわ」
頬をふくらませて怒って拗ねると、レイフが嬉しそうに頬を染めた。
なぜに。
アリシアは顔をしかめた。
「どうして、喜んでいるの?」
「甘えるアリシアが、かわいいから。今までのアリシアなら怒るだけで、甘えてなんてくれなかったのに」
「なッ!? 甘えてなんかないから!」
アリシアが声を荒げても、レイフのにこにこ顔はくずれない。
「はいはい、そういうことは部屋でなさいな。昼食は部屋へ運ばせるわ」
クラリスの言葉に、アリシアはあわてて表情を取り繕った。
生温かい目をしたクラリスに、夕食の時刻を告げられ、居間から追い出される。ちらりとうかがったセオドアも苦笑をこぼしていたが、なにも言わなかった。
廊下に二人佇む。
「あと、これも渡しておくね」
レイフがポケットから出したものに、アリシアは瞠目した。
「スマートフォン……?」
「うん。写メりたかったんでしょう? とりあえず、カメラ機能とおれ宛ての緊急コールだけだけど」
呆然とレイフの手のなかのものを見る。
「……最近、よく出かけてたのは、このせい?」
「いい見本が手に入ったからね」
それは、もしかしなくても、マヒロの持っていたスマートフォンのことだろう。
「……ありがとう」
まだ、どこか驚きが抜けきれないまま、アリシアが受け取ると、レイフはにっこりと笑った。そして、腕を差し出してくる。
「部屋までエスコートさせていただけますか? かわいくて大事な、おれの唯一無二の愛しい奥さん?」
「そうね、お願いするわ」
ようやく衝撃から立ち直ったアリシアは、笑顔をひらめかせた。出会ったときの何気ない一言を覚えていて、それを叶えてくれようとするなんて思ってもみなかった。その言葉をつぶやいたアリシアは、自分がそう言ったことすら覚えていないというのに。
レイフの腕を思いっきりひっぱると、アリシアは近づいた彼の耳元に甘くささやく。
「死んだその先までも、どうか、よろしくね? 誰よりも愛しているわ。わたしの大事な旦那様?」
アリシアはいたずらっぽくレイフを見上げる。彼の真っ赤になった顔を心ゆくまで堪能した。
アリシアの明るい笑い声が、屋敷に響いた。




